福寿草
合鍵はもらってるけど、めったなことでは使わない。
例えば、1週間音信不通になったとか、そういう時しか。
「あ、いた」
朝方家を訪ねると、桑名くんは自宅の廊下にうつぶせで倒れていた。
彼の場合、倒れている、というよりは、もう奥まで行かずここで寝た方が多少でも睡眠時間が取れて合理的、とかそんな感じなのだろうけど。
「桑名くん、今日休みなの?」
ワイシャツのまま倒れている背中を軽く揺すりながら声をかけると、この後戻る、と掠れた声が返ってきた。たぶん、帰宅してからあまり時間も経っていないのだろう。
「ちょっとでもベッドで寝た方がいいと思うよ」
「ん、大丈夫、もう起きるよ」
目元をこすり、欠伸をひとつして、桑名くんはがばりと起き上がった。相変わらず、信じられないくらい寝起きが良い。
「あれ。なんでいるの」
「1週間音信不通だったので」
「あちゃー、またやった」
桑名くんは申し訳なさそうに縮こまる。別にいいよと答えて、とりあえず部屋の中へ入った。
窓を開けて、空気を入れ替える。部屋の中は桑名くんにしては珍しく、かなりごちゃごちゃと散らかっていた。
振り向くと、なんだか気まずそうな桑名くんが目に入ったので、とりあえずシャワー浴びてきたら?と促す。
桑名くんは普段かなりきちんとした生活を送っているし、連絡もマメにしてくれる方なのだけど、どうしても仕事が立て込んでしまう時期がある。
研究職故か、元々の性格なのか、そうなってくると生活がおざなりになり、必然的に私への連絡も途絶えがちになるのだ。
最初こそ戸惑ったが、今ではもう慣れたもので、お、今回も修羅場ってんな、と思うだけなのだけど、本人は悪いことをしていると思ってくれているらしい。
仕事なんだから、仕方ない。でも、大きい体を小さくして気まずそうにしている桑名くんはかわいいので、それはそれで良いかと思っている。
桑名くんがシャワーを浴びてる間に、適当に部屋を片付けて、テーブルの上を拭く。シンクにたまっていた洗いものを片付けたところで、ぬれた髪をふきながら桑名くんが戻ってくる。
「本当にごめん」
「埋め合わせ楽しみにしてますよ」
開口一番きちんと謝るとこ、好きだなと思う。私の方が普段散々お世話になってるというのに。
私はいわゆる社畜に片足を突っ込んでいて、桑名くんよりよっぽど頻繁に生活が崩壊する。もともと、桑名くんほどきちんとした生活を営んでいる訳でもないのだけど。そんな時、彼は決まって良いタイミングでやってきて、かいがいしく世話を焼いてくれる。彼が育てる野菜や果物やお花にするみたいに。
大切にされた分何か返せたら良いなと思って、桑名くんから連絡が途絶えた時は、こうやって部屋を訪ねたりしている。
とはいえ、基本的に私よりちゃんとしている桑名くんに私ができることなんてほとんど無くて、何か返せているのかは、毎回よくわからない。
私は縮こまる桑名くんを椅子に座らせて、テーブルの上に持ってきたビニール袋を置いた。
「おにぎり買ってきたけど食べる?」
基本的に自炊派の桑名くんにもお気に入りのお店がいくつかあって、このおにぎり屋さんもそのひとつだ。小さなお店だが、お米にも具材にもこだわっていて、コンビニで売っているおにぎりとは全然違う味がする。
桑名くんの顔がぱっと明るくなった。久しぶりに食べる、と嬉しそうなので、来て良かったなと思う。
テーブルの向かい側に座って、ぼーっとおにぎりを食べる桑名くんを眺める。小ぶりなおにぎりが、二口で大きな口におさまっていくのは、見ていて気持ちがいい。
あっという間に完食して、桑名くんは両手を合わせて、ごちそうさまでしたと言った。私が作った訳では無いけれど、おにぎりに携わった全ての人を代表して、おそまつさまでした、と答えておく。
桑名くんは、空になったパックを持って立ち上がると、対面式になっているキッチンに行ってそれを捨てて、手を洗って水を止めてから、だし抜けに言った。
「一緒に住まない?」
私は、何を言われたのかよくわからなくて、え?と聞き返す。
「一緒に住まないか、って言ったんだよ」
桑名くんは、カウンターの向こうから、真剣な眼差しで、いや、目は相変わらず見えてないんだけど、恐らくとても真剣に、こちらを見ている。
私は、とっぴょうしもないその発言についていけず、え、あぁ……と変な声を出すことしかできない。
「仕事が忙しくなる度に、寂しい思いさせたくないし」
寂しいなんて、一言も言ってないですけど。そんなかわいくない台詞が喉元まで出かかって、でも桑名くんが先に
「……まあ僕だったら、1週間君から連絡がなかったら、寂しいだろうなってことなんだけど」
なんて言うから、なんにも言えなくなってしまった。
日頃のお返しがしたいというのは、嘘じゃない。いつだって、彼のことを大切にしたいと思っている。
それでも結局、私を動かすのは、ただ会いたいとか、そういう気持ちの方なんだと思う。
たった1週間で、いてもたってもいられなくなってしまうような自分が恥ずかしくて、自分のことばかりで情けなくて、あえて見ないようにしてたのに、そうやって先回りされたら、否定することも難しい。ずるいなぁと、ひどいなぁと、思う。
「でも、私、なんの役にも立たないよ」
自分が思っているよりずっと、弱々しい声が出た。
「そんなこと無いと思うけど、なにかしてほしくて、言ってるわけじゃないよ」
対して桑名くんは、なんの迷いもなく私に答えを投げた。シンプルで、力強くて、優しい言葉に、それ以上何も言えなくて、思わずぎゅっと手のひらを握りしめる。
桑名くんは、ひとりでも生きていける人だ。君がいなきゃ生きていけないなんて、嘘でも言わない人だ。
生きていく上で必要なことを、誰かにまかなわせようなんて、思わない人だ。
だからこそ、一緒に暮らそうと、ふたりで生活しようと言ってくれることが、ひどく特別なことに思えて、心が震えた。
許されたこと、望まれたこと、ひとりより、ふたりが良いと思ってくれたこと。ぜんぶ、信じられないくらい、うれしくて、胸がいっぱいで、苦しくなる。
ふいに、抱えきれない思いがこぼれるみたいに、涙があふれて、そしたら桑名くんがすごく大きな音を立てて(多分どこかに身体をぶつけたんだ)、こっち側にすっとんできた。
「え、と、ごめん、なんか、間違えた?」
タイミングとか、色々、と、焦りすぎてもごもご言ってる桑名くんがかわいくて、泣きながら笑ってしまった。
「そうだね、急すぎるよ」
「えぇ……僕だって、すぐに返事してとは言わないよぉ」
さっきまでとは全然違う、情けない声で言って、私の大好きな大きな手で、ぽろぽろこぼれた涙をぬぐっていく。
馬鹿だなあ、桑名くんは。私が断るとでも思っているのだろうか。いつだって私の何気ない気持ちを汲み取ってくれるくせに、肝心なところはわかってないんだから。
手のひらから、桑名くんの体温を感じながら、私はそれがおかしくて、またちょっとだけ笑った。
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