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蝋梅

残業続きでへろへろの金曜日、家に帰ったら桑名くんが来ていた。
「おかえり」
「ただいま。いやなんでいんの」
「そろそろ家が限界を迎えてる頃じゃないかと思って」
桑名くんの読み通り、部屋の散らかり具合、洗濯物の溜まり具合、冷蔵庫の空っぽ具合、どれをとっても我が家は完全に限界を迎えていた。
ぐちゃぐちゃの居間はきれいに片付けられ、洗濯された服がきっちり畳まれ、台所からは美味しい匂いがただよってくる。
「……神様……」
そっと手を合わせると、私の神様は笑って、とりあえずお風呂はいってくれば?と言った。(なんとお風呂も湧いていた)

テンションは最高潮のつもりだったのだけど、身体の疲労には勝てず、お風呂で意識を失いかけた。
死ぬかと思った、と言ったら、桑名くんは真剣に、僕の居ない時は湯船にお湯ためないで、と言った。
冗談だったのだけど、どうやら本気で風呂で死ぬ人間だと思われている。情けない限りだ。

ご飯だけは食べてから寝ようと思っていたけれど、その前にスキンケアと髪を乾かすのはやりなさいと言い渡され、しぶしぶソファに腰掛ける。
一旦ソファに沈んでしまうと、もうドライヤーを持ち上げるのすら面倒くさくて(丁寧にコンセントに挿して、手が届くところに準備してくれているにも関わらず)ぐずぐずしていたら、隣に桑名くんが座った。ソファがそちら側に沈む。
「会社の人に試供品もらったんだけど、使ってもいい?」
桑名くんは机の上に、小さなボトルをいくつか並べていた。その中のひとつを手に出すと、匂いを確認するように手を差し出される。くんとかぐと、やさしいお花のような良い匂いがしたので、いいよ、と答えた。私に後ろを向くように言い、優しい手つきで髪に馴染ませ始める。
「会社の人って、女ですか?」
「直球のやきもちは嫌いじゃないよ」
桑名くんは野菜やお花の生産とか品種改良なんかをする会社に勤めているのだけど、会社が数年前に始めたオーガニックコスメの開発の仕事にも協力していて、たまに試供品を私にくれたりする。
コスメを作るところで働いてる人なんて、絶対にきれいな女性ばかりだろうという偏見を捨てられず、正直ものすごく気になっている。桑名くんは案外、というか当然、というべきか、よくわからないけど、とにかく結構もてるのだ。
私がもやもやとしている間に、彼はドライヤーを手に取って、さっさと髪を乾かし始めた。根元から毛先に向かって、ごく小さな風量で。髪を梳いていく手が気持ちいい。
丁寧に乾かしてもらって、なんだかとても満たされた気持ちになったけど、毛先の痛みが酷いよと言われてケチがついた。一言多い男だなと思う。まあ事実なんだけど。
「次はこっち」
ぐるんと、桑名くんの方を向かされる。桑名くんは、二本目の液体を取りだして、手のひらで温めてから、私の頬に馴染ませた。大きくて、あったかい手に包まれて、自然と目を閉じてしまう。
顔全体をふにふにとおされ、しっかりと皮膚に謎の液体が浸透していくのを感じながら、ふいに、これはものすごく恥ずかしいことをしているのではないかと、そんな気がしてきた。
「あとは自分でやります」
「遠慮しなくていいって」
私は、また次の液体を手のひらに取ろうとする桑名くんを必死に押しとどめた(というか、よく見たら机の上には使っていないボトルがまだ3種類も残っている。きれいになるには、なんと手間がかかるのだろう)
ボトルを奪おうとするが、桑名くんがくるりと背を向けてしまうと、どうがんばっても手が届かない。
「いやほんと大丈夫です、自分で出来ます、いい大人なので」
「いい大人はお風呂で寝たりしないよぉ」
いや、するよ。いい大人でもするよ。
しかし、何を言っても聞く気は無いらしく、私は諦めて彼のなすがまま、いい匂いのする液体やクリームを顔にぬりたくられた。
私は桑名くんの手が大好きなので、最終的には、気持ちいいしまあいいか、と思って、借りてきた猫のように大人しくしていた。
そうしたら本格的に眠たくなってきて、終わった頃には返事をするのもおっくうで、もう指1本すら動かしたくない、という気持ちだった。
「もう寝る?」
「……うん……ごめん、ごはん明日食べるね……」
そのまま目を閉じていると、ベッド行きなよ、と言われているのがわかったけど、動きたくなくて無視したら、よいしょ、という声が耳元でして、身体が浮き上がって、あ、持ち上げられた、と思った。抱き寄せられたのが気持ちよくて、その胸に擦り寄る。
「……帰る?」
「ちゃんと寝るまではいるよ」
やだなぁ、帰ってほしくないなぁ。明日の朝、いっしょにごはん食べたいなぁ。
そんな、言ったこと無いようなわがままが、頭の片隅で浮かんで、なんだかおかしくなった。私はふにゃふにゃと何か桑名くんと言葉を交わしたところで限界が来て、そのままあっという間に眠ってしまった。

朝目が覚めたら、隣に桑名くんが寝ていた。正確に言えばもう起きていて、いつもは見えないきれいな目が、横になったせいで前髪が流れて、片方だけのぞいて、私のことをじっと見ていた。
驚いて、急速に頭が覚醒していく。
「おはよう」
「おはよう。いやなんでいんの」
「帰らないでってくっついてきたのはそっち」
おかしそうに、桑名くんが言う。寝る間際、眠過ぎて、何を言ったか全然覚えていない。でも桑名くんがそんな無意味な嘘を言う訳もなく、恐らく紛れもなく事実なんだろうなと思う。
「ゴメンナサイ」
「いいよ」
桑名くんの手が、私の頭を撫でて、髪を梳く。それから手を返して、指の背が、そっと頬を撫でた。
いつもよりゆっくり寝たせいか、疲れは程よく取れていて、頭もスッキリとしている。昨日はへろへろだったからされるがままだったけれど、朝になってみると優しい手が私の状態を確認するように触れるのが、何だか気恥ずかしくて、頬が熱くなった。
「なにしてるの」
「ん?元気になったかなぁと思って」
心から楽しそうに桑名くんが微笑むから、胸の奥がきゅーっとなる。
こういう時、私はいつも桑名くんが育てた野菜や、果物や、お花のことを思い出す。
慈しみ、手をかけて、大切にすることを知っている。それを、惜しみなく、当たり前のようにできる彼の優しさが、私はたまらなく好きなのだ。
私は根っからの面倒くさがりで、何事も長続きしない性格で、物も人も、大切にするのは苦手だ。
花は枯らすし、手がかからず、すぐに買い換えられるような物が好きだし、付き合いの長い友達なんてほとんどいない。
無くしてしまってもどうってことないもので構成されがちな人生の中で、それでもこの人のことは大切にしたくて、でもその方法が、私にはよくわからない。
大事なのに、大切なのに、そう出来ていないような気がして、ふいに不安になる時がある。
頬を撫でる、その大きな手に、私の手を重ねた。桑名くんは、不思議そうな顔で私を見返す。
「どうしたの」
「なんでもないよ。好きだなあって、思ったの」
桑名くんは、なんなんそれ、と照れたように笑って、私のことを抱き寄せる。
私より高い体温が心地よくて、またとろとろと、夢の世界へ落ちていきながら、起きたらとりあえずちゃんとお礼を言おう、と思うのだった。


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