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本丸の管理人5

 この仕事をしていても、庁舎内に入ることはめったにない。
 おぼろげな記憶を辿りつつ北嶋さんの居るフロアにたどり着くと、定時を過ぎているはずだが、ほとんどの職員がデスクに座り、ディスプレイとにらみ合っていた。皆一様に、死んだような目をしている。少し怯みながらもきょろきょろしていると、北嶋さんが気付いて、奥の方から手を振る。私は小さくなりながら、彼の席に近寄った。
「すいません、急に呼び出してしまって」
 北嶋さんは、朝と同じように、人のよさそうな笑みを浮かべようとしていたが、まったく疲労が隠せていない。そっと盗み見た机の上には、乱雑に書類がつまれ、栄養ドリンクの空きビンがいくつも並んでいる。フロア全体を覆うどんよりとした雰囲気に、不安な気持ちで北嶋さんを見やるが、彼の方はそれにも気付かない様子で、ついたてで区切られた来客用のスペースに通された。
 北嶋さんの話を聞く前に、地下にある三日月宗近のことを報告すると、やはり北嶋さんも知らなかったようで、疲れた顔から無理矢理ひねり出していた笑みが消えた。あんぐりと口を開けて言葉を失った彼に、不安に駆られて問いかける。
「これって、そんなにまずいことなんですかね」
「……正直、まずいかまずくないかもわかりません……私も聞いたことが無い事例です……とにかく、早急に調査をしなければなりませんね……」
 なんとか正気を取り戻した北嶋さんは、よろよろと立ち上がると衝立の向こうに消え、しばらくしてまたよろよろと戻ってきた。
「申し訳ありません、今担当部署は手一杯だそうで……なるべく早く行ってもらうようにはしますが、すぐにと言う訳には……」
 私は北嶋さんの困り果てた様子に、慌てて言う。
「わかりました。何かあったら報告しますね。まあ今日まで何も無かったんだし、きっと大丈夫ですよ」
「そうですね、そうであることを願います」
 いつも適当な笑顔の北嶋さんのどよんとした雰囲気に、私まで不安が募るが、そう言われては仕方がない。とりあえず三日月宗近については北嶋さんにまかせることにして、今日ここに呼ばれた理由を聞くと、こんな話題の後で申し訳ないのですが、と前置いて、北嶋さんは言った。
「今回のお仕事の、任期を伸ばしていただくことは可能ですか?」
 着任二日目での予想外の言葉に、私は目を見開いた。
「やはり、難しいでしょうか」
 こちらの様子を探るように、北嶋さんは言った。なんだか今回の仕事は、今までに無いことばかりだなと思う。
「えーと、それはまたなんで……?」
「あまり詳しいことはお話できないんですが……簡単に言うと、引き継ぎ予定だった審神者の着任が遅れそうなんです」
 経験の無い事態に戸惑いながらも尋ねると、慎重に言葉を選びながら、北嶋さんは答えた。
 本丸の引き継ぎにかかる期間はまちまちだが、引き継ぐまでが私の仕事であって、その先に居る審神者については、会うこともないし、情報すらほとんど聞かされることは無い。今まで大して興味を持ったことはなかったが、あまり多くを語りたくなさそうな北嶋さんの様子に、不信感と好奇心が湧いてくる。
「それって、よくあることなんですか?」
「まさか、よくあったら困りますよ。特に今回のような優秀な本丸は、こちらとしても長く不在にはしておきたくないですからね。なるべく迅速に引き継ぎたかったんですが……」
 はあ、と北嶋さんはほとんど無意識にため息を零した。きっと、今回のことはよっぽど大きなトラブルだったのだろう。彼がどんよりとした雰囲気を漂わせているのも、これが原因に違いなかった。
 私のせいではないが、この上「顕現出来なかった三日月宗近」というトラブルを持ち込んだことが、なんだか申し訳ないことのように思える。
「できれば協力したいんですけど、私、本職を休んで来させてもらってるので……会社にこれ以上迷惑をかけるのは、ちょっと……」
 私の勤め先は小さな会社だが、それだけに社員の数は多くない。事務員とはいえ、ひとり休んで困らないはずはないのだが、社長は私が政府に呼ばれるのを召集令状のようなものだと思っているらしく、毎回快く送り出してくれる。お国のために頑張ってきてくださいと言われると、いつも少し申し訳ないような気持になる。出来ればこれ以上、迷惑はかけたくないというのが本音だ。
「それは、お勤め先にご理解いただければ可能ということですね?」
「え、うーん、まあそうとも……ていうか、次の審神者の着任が遅れても、私が残る必要は無いんじゃないですか?」
 期待をこめて畳み掛けてくる北嶋さんに若干引きつつ尋ねる。私の仕事自体は、与えられた期間で十分終わる。その後あの本丸にいても、やることは特にないはずだ。私の疑問に、北嶋さんはそれは……と言ったきり押し黙る。なぜここで黙るのか。怖くなって再度声をかけようとしたところで、北嶋さんが口を開いた。
「それは……あなたにひとつ、説明していなかったことがあるからなんです」
 私が眉をひそめると、北嶋さんは気まずそうに視線を手元に落とした。
「……審神者の着任が遅れれば、臨時の審神者の出勤を、継続しなければならないでしょう。審神者といえど、縁もゆかりも無い本丸に赴くというのは、それなりにリスクを伴うものです」
 話の先が見えず、はあ、と返事を返す。北嶋さんは淡々と続けた。
「そこで、臨時の審神者のみなさんに安心してお仕事をしていただくために、こちらも色々と対策を取る必要があるんです。護衛として近侍を連れてきて良いことにするとか、自本丸の座標は厳重に管理して移動記録に残らないようにするとか……こちらの職員をひとり、必ず派遣するとか」
「へえー……」
 その言葉の意味が、一瞬わからず聞き流しそうになるが、すぐにはたと気付き、思わず大声が出た。
「え? 職員って、もしかして私のことですか!?」
「ちょっと、声が大きいですよ」
「だ、だって私、ただのアルバイトですよ……!?」
「非常勤職員ですから、嘘はついていません」
 開き直ったかのように、きっぱりと言う北嶋さんに、呆れて咄嗟に言い返す言葉が出てこない。
「私の体質、見ましたよね? 一日あそこに居られる職員なんてそう都合よく捕まらないんですよ……お願いします、なんとか契約延長していただけませんか?」
 北嶋さんは、取り繕う態度をかなぐり捨てて、机に額を付ける勢いで頭を下げる。少々内部事情を喋ってでも、どうにか私を留め置く作戦に出たらしい。今度は私がため息を吐く番だ。
「……後任者の着任は、なんで遅れそうなんですか」
 こうなったら、全て事情を聞かせてもらわなければ、納得できない。私の言葉に、顔を上げた北嶋さんは、少し悩む素振りを見せたが、静かに席を立った。一度衝立の外を確認して、もう一度座り、声を落として答える。
「……後任者本人の意向です。他人の育てた刀剣男士を引き継ぐのは本意ではないとのことで」
「どういうことですか?」
 北嶋さんは、心底呆れているのを隠しもせず、ため息交じりに言った。
「特別、珍しい話でもないんですよ。若い審神者は、一から自分の刀剣男士を育てることに憧れを抱いているものなんです」
 本丸の引き継ぎに関する仕事をしている私からすれば、本丸と刀剣男士を併せて譲り受けるのは当然のことで、そのことに抵抗感を持つ審神者が居るなんて考えたことも無かった。
 自らが鍛刀した刀剣男士と共に戦っていきたいと願う審神者の気持ちも、まったくわからないわけでは無いが、少なくとも北嶋さんは、そんな「ワガママ」を言う若者たちにうんざりしているようだ。
 それならば、別の候補者を探せばいいだけだと思うが、そうしないということは、何かそれなりの理由があるのだろう。私は必死で頭を働かせる。せっかく腹を割って話してくれた北嶋さんには悪いが、契約違反と見なされても仕方がないような仕事に、あまり長く関わっていたくはない。私はなんとかこの状況から脱する手立てはないかと、口を開く。
「じゃあ現状、その方のお気持ちが変わるのを待つしかないんですか?」
「家族と政府職員総出で説得には当たっていますが、これが甘やかされたお嬢様で……いえ、すいません。意志の強い方で、交渉も難航してまして。今日になって、一度刀剣男士たちと話しをしてみたい、それから考えてみても良いとは言っていただけたのですが」
 北嶋さんの眉間に、深いしわが寄り、がっくりと肩を落とした。
「他の刀剣男士と比べて、より『刀』として扱われてきた彼らが、彼女を説得できる材料になるとは思えません」
 刀の姿のまま過ごさせるという審神者の方針に異を唱えなかった北嶋さんも、まさかこんなことになるとは思っていなかっただろう。そのお嬢様とやらが彼らと話をしたい、と言ったということは、恐らく彼らの性格というか、人となりを気にしているということで、それは彼女が刀剣男士に共に支え合いながら戦っていく「パートナー」であることを求めているからだということは、なんとなく察しがつく。もしあの本丸の刀たちに出会ったら、ますます引き継ぎに応じなくなるだろうということは、簡単に想像がついた。
 でも、鶴丸国永だったら。
 ふいに、あの真白い姿が目に浮かぶ。彼だったら、もしかしたら、彼女を説得できるかもしれない。やあ、きみが今度の主か? と、少しおどけて手を差し出す姿が見えるみたいだ。今日見た、おにぎりをほおばる姿が思い出されて、ふと気付くと、言葉がもれていた。
「食事を……させてみるのはどうですか」
 北嶋さんは、は? と言って、私を見た。思わず出てしまった言葉に自分でも驚きつつ、頭を整理するように言葉を重ねていく。
「いくら刀として扱われていたとはいえ、彼らも世の中の刀剣男士と同じように過ごせば、変化があるんじゃないでしょうか。あの能面みたいな表情が少し和らいで、何か少しでも優しい言葉をかけられるくらいになれば、後任の方も彼らとやっていく気になってくれるんじゃないでしょうか。多少おとなしくても、審神者が亡くなったばかりで、気落ちしてるのだとでも言っておけば、不信がられずにすむし、むしろかわいそうに思って、気持ちを寄せてくれるかも……」
 これまで目にしてきた本丸では、審神者不在で本調子でない刀剣男士を何人も見てきた。刀剣男士と実際に会うのが初めての人なら、違和感を覚えることもないだろう。
「でも、いっしょに暮らし始めれば、すぐに思っていたのと違うと気付くのでは……」
「だから、食事ですよ」
 話しているうちに、自分の考えに自信が湧いてくる。
「一緒に食事をとることは、共同生活の基本です。まずはそこから、人の姿で過ごすことに慣れてもらうんです。そうですね……せめて、一日一食、朝ごはんだけを目標に。簡単なもので良ければ、私が準備します」
 どうでしょう? と尋ねると、北嶋さんは腕を組んで、うーんと唸った。眉間の皺は寄ったままだ。
「そんなに、上手くいくものでしょうか」
「いきます。きっと。私今日、鶴丸国永とごはんを食べたんです」
 ぎょっとしたように北嶋さんは目を見開く。聞き捨てならない、といように口を開きかけた北嶋さんの言葉を押しとどめて、続ける。
「少なくとも、彼は見込みがあると思います。人間らしい営みに、とても興味があるようでした」
 私の言葉に、何から言っていいかわからなくなったのか、北嶋さんはでも、とかしかし、ともごもご言っている。私は、更に畳み掛けた。
「次の審神者が着任すれば、遅かれ早かれ、彼らはただの刀ではいられませんよね。後任者の方は、前任者とは全然違う考えの人みたいですし。今から慣れさせておいて、損はないと思うんですけど」
 北嶋さんは押し黙り、腕を組んで、うーんと唸った。そして、疲れたように眼鏡をはずし、眉間をもんだ。
 しばしの沈黙の後、北嶋さんは絞り出すように言った。 
「……わかりました。あなたの案を採用します」
 私は、自分で言いだしておきながら、意外と早いその決断に、目を見張った。再度眼鏡をかけた北嶋さんは、ひどくくたびれた顔をしていたが、目が据わっていて、先ほどまでのおろおろした雰囲気は欠片も残っていなかった。
「私は、あの本丸のやり方を、間違っていたとは思っていません。でも、あなたの言うとおり、変える必要があるのかもしれません。それが本丸の存続のために必要なことなら」
 すっきりとした表情で、北嶋さんは言った。とりあえず、何が必要ですか、と問うその手元に、小さなスクリーンが浮かび上がった。
「えっと、お米と。あ、炊飯器も無いか……お味噌と、梅干しと……」
「ここに書いてください。明日の朝一で届けさせます」
 差し出されたのは、紙のメモ帳。アナログな私に合わせてくれたのだろう。慌ててそこに欲しいものを書きだす。書きながら、ちらちらと伺うと、浮かび上がった画面は目まぐるしく動き、先ほど私が言ったものを、すでに注文してくれているのが分かった。
「……この本丸は、私が初めて一人で担当した本丸だったんです」
 仕事の手は止めないまま、ぽつりと、ひとり言のように、北嶋さんが呟いた。私は思わずメモをとる手を止めてしまう。
「前任の審神者は、本当に聡明で、優秀な人でした。だから、彼女のやり方に、口を出したことはありません。だけど、亡くなってから、たまに思うんです。私は彼女に、酷い孤独を背負わせていたんじゃないかって」
 人の世から引き離され、たった一人で本丸を任されて、誰とも心を通わせず、孤独の中で戦うこと。それは、どれほど苦しいことだろう。
 だからこそ、刀剣男士と審神者は、家族のように共同生活を営むのかもしれない。そう言った本丸が大多数なのは、人間の側が、孤独に耐えられないからなのかもしれない。
 だけど、前任の審神者はそれを選ばなかった。それは彼女自身の意志であり、北嶋さんが責められることじゃない。けれど、担当者として、もっと何かできたのではないかという思いが、彼の背中に重くのしかかっているように見えた。
 この先の未来を想像してみる。新しい審神者と、鶴丸さんや他の刀剣男士たちが、楽しそうに笑って食卓を囲んでいる。そこに、たまに北嶋さんが具合悪そうにやってきて、新しい審神者はそれを見てけらけら笑っている。私が、思いつきで口にした作戦だけれど、もしこれが成功して、そんな未来が訪れたら、それは、すごく良いなと思った。
「……後任の審神者さんが、寂しい思いをしなくてすむといいですね」
 私の言葉に、北嶋さんは手を止めて、ばつが悪そうな表情を浮かべた。本丸を引き継いでくれるといいの間違いでしょう、とか、それは私の業務では無いですとか、色々言っていたけれど、北嶋さんの本心は、私の言葉からあまり遠くないところに在るのだろうと思った。そこに丁度いい笑みを浮かべたとらえどころのない男の人はもういなくて、私は、「北嶋さん」という人の輪郭を、初めてはっきりと見たような気がした。


 鶴丸国永の朝は早い。いつも寝床にしている桜の木の上で、うんと伸びをひとつする。春に見事な花を咲かせた木も、今は真っ青な青葉で包まれている。主が亡くなってから、この本丸はずっと夏のまま。新しい主が来なければ、もう桜が咲くところも見られないのかと思うと、寂しいような気もするが、そんなことを気にしているのはきっと自分くらいのものだろう。
 朝露でしっとりと湿った葉が、顔を出した朝日に照らされて、明るく光って、きれいだなと思う。
 首をひとつ回して、地面に飛び降りた。まだ涼しい庭を抜けて、本丸に足を踏み入れると、ふと足元にきらきらと、だいだい色の柔らかな光の粒が落ちていることに気が付く。
 一昨日やってきた「管理人」のおかげか、玄関から広間までの間は、見違えるようにきれいになった。ここ数日感じていなかった清涼な空気が嬉しくて、深く呼吸をしながら、その柔らかな光を辿るように歩き出す。
 それは広間の前を通り過ぎて、本丸の奥へ向かっている。どこからか、優しい鼻歌が聞こえてきて、鶴丸国永は、胸の奥が温かくなるのを感じる。まるで、自分の中に、同じようなだいだい色の光がともったみたいだ。
 ひょっこりと、たどり着いた台所を覗くと、思った通り彼女がいた。自分の気配などまったく気付いていないようで、小さく歌を歌いながら、せっせと握り飯を握っている。傍らでは大きな鍋から湯気があがって、何やら良い匂いがここまで漂ってくる。彼女の歌が零れるたびに、手が動くたびに、そこから優しい光が零れ、台所の床一面に、花が咲いたように散らばっていた。
「やっぱりあんたか」
 呼びかけると、彼女は飛び上がって驚いて、こちらを振り返る。
「つ、鶴丸……さん……」
 取り落としそうになった握り飯をぎゅっと握りしめ、呆然とこちらを眺める様子がおかしくて、笑みが漏れる。台所に足を踏み入れると、散らばっただいだい色がふうわりと揺れ動いた。すっかり動きを止めて固まっている彼女に近付き、手元を覗き込む。
「こんなにたくさん、どうするつもりだ? まさか、全員に食べさせようってんじゃないよな」
「ええと、実はそのまさかでして……」
 彼女の積み上げた握り飯が、朝の光を反射してつやつやと光っている。水を入れた椀と、握り飯の具であろう梅干しと鮭。彼女はぎこちなく手の中の握り飯を握り直し、そっとその山の上に追加する。
 さっと手を洗ったかと思うと、素早く面を下すものだから、彼女の輪郭がぼやけたように、気配が薄くなった。先ほどまであふれていた優しいだいだい色も、気のせいだったのかと思えるほどあっさり見えなくなる。少し残念に思いながら、それでもそうしないといけないと決まっているのなら、仕方がないかとも思う。自分の主だった人も、自分が望んだわけでも無い規則や決まりに、いつもがんじがらめになっていた。
「あんた、本気か? 北嶋の指示か? 俺たちは一度も食事をしたことが無いんだ。おとなしく食べるやつばかりとは思えないぜ」
 彼女の言葉に呆れながらも、しかし面白そうなことを考えるものだと思う。この身体で生活する習慣すら無いというのに、物を食わせようだなんて。一体何が目的なのだろう。
「それは……そうかもですが……昨日、約束したじゃないですか。また何か持ってきますって。そのついでみたいなもので……」
 そう言われて、昨日縁側で、初めて物を口にした時のことを思い出す。退屈でたまらない日常に、突然現れた存在に興味が湧いて、少し話してみようと思っただけだったのに、なぜか自然な流れで食べ物を口にしていた。新鮮な体験で楽しかったし、主が知ったら、卒倒するかもしれないなと思うと、面白かった。
 けれど、それだけだ。今日だって、柔らかなで微かな霊気に誘われて、覗いてみただけで。出陣するようになれば、顔を合わせるかどうかも妖しかったのに。他愛のない口約束を、律儀に守ろうとするなんて、変わった人間だ。鶴丸国永は、そう思いながらも笑みを深めた。でも、悪くない。どころか、なんだか気分が良いし、馬鹿みたいに心が浮き立つ。
「……そうか。邪魔してわるかったな。ああ、俺のことは気にせず続けてくれ」
 どうしようかと、見るからにおろおろしている彼女にそう言うと、戸惑いながらも作業を再開した。塩と水をつけた手に、ほかほかと湯気のたつごはんをとり、そこに種を取った梅干しをひとつ。彼女が両手できゅっきゅと握ると、魔法みたいに一瞬で梅干しが隠れて、きれいな三角形が出来上がる。面白くて、じっと見つめていると、彼女がちらりと振り返るから、鶴丸国永は首を傾げて応える。
「あの……やってみますか?」
 その、願ってもない申し出に、いいのか? と食い気味に返事をすると、彼女はおずおずとやり方を説明し始める。気合十分に手を出した鶴丸国永だったが、それは見かけほど簡単な作業ではなく、苦労した。ごはんは熱いし、梅干しははみ出るし、三角にはならない。しかし、初めての体験に、心は躍った。
「すごいな、きみの握り飯は本当にきれいだ」
 自分のものと、彼女のものを並べて見比べながら、唸る。彼女は初めてだから、仕方ないですよと笑った。一応彼女の許可を得て、その場でぱくりと食べてみる。ぎゅうぎゅうに握ったはずのそれは、はじから崩れて、慌てて反対の手で米粒を受け止めるはめになった。昨日食べた握り飯は、こんな簡単に崩れたりしなかった。不思議なもんだと思いながら、鶴丸国永は残りを二口で平らげる。
「おにぎりって、人がにぎってくれたものの方がおいしいって思うんですよね。不思議なんですけど」
 それは、昨日初めて食事をした自分には、到底理解できないような話しだなと、鶴丸国永はぼんやりと思った。しかし、人と永い時間ともに過ごしてきた彼にも、そういう類いの知識が無いわけではなかった。誰かが用意してくれたごはんは美味しくて、ひとり寂しく食べるより、誰かといっしょに食べた方が美味しい。そういうことと、同じような意味だろうか。
 いつかそういうことを、実感できる日がくるのだろうか。この身をもって。そう考えると、感じたことの無いような昂揚感が胸を満たした。
「よし、じゃああんたの分は俺が握ろう」
「え!? だめです、そんなことさせられませんよ」
「遠慮するな。俺が料理できるようになれば、あんたはこんな朝早くから台所に立つ必要も無くなるんだぜ。それに、いつまでもここに居るわけじゃないんだろう?」
 もっともな答えに、彼女は押し黙る。数秒悩んだ後、あきらめたように、お願いしますと頭を下げた。よしきた、まかせろ、と笑って返すと、彼女はちょっと、呆れているようだった。面のせいで、彼女の心は、御簾がかかったように遠く感じる。しかし、仕草や、声色に意識を向けることで、彼女が何を思っているのか、推し量ることができた。
 こんなに、自分以外の誰かに集中するのは初めてであったが、鶴丸国永は、何か難しい謎解きに挑戦しているようで、楽しかった。
 もっと知りたいと思ってしまう。自分がこれまで知らなかったこと。知ることを、許されなかった、自分の中にある心のこと。そして、この日常に変化をもたらす、彼女の心のことも。
まぁ、そんなことは、誰にも言えないけれど。握り飯をせっせとこさえながら、鶴丸国永はぼんやりと思った。


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