本丸の管理人1
重い樫の木の扉を開けると、急な明るさに目が眩んだ。ぱちぱちと瞬きを繰り返す。見上げるほど高い位置にある丸窓から、燦々と日が差し込むホールは、無数に行きかう人々のざわめきで溢れていた。
スーツを着た政府職員が、なにやら真剣な面持ちで話しながら、早足で通り過ぎる。作業着姿の男性が、端末を片手にきょろきょろしている。麗しい刀剣男士を連れているのは、審神者と呼ばれる人たちだろう。袴や着物といった和装に身を包み、ある人は隣を歩く付喪神と仲睦まじげに、またある人は背後に家来のように従えて歩いている。
「あっちもこっちも、人手不足だな」
「まったくだ。人事は何をやってるんだか」
「今月の戦績じゃあまた政府のやつらにどやされる……」
「主、そう落ち込まないで、来月はもっとがんばるからさ!」
行き交う人の会話に耳を傾けつつ、辺りを見回す。1920年代に作られた建築物を模しているだけあって、現代には似つかわしくない豪奢で、装飾過多なデザインが目を引く。見上げれば、刀剣男士の紋が描かれた見事な格天井。少し視線を下せば、巨大な壁掛け時計が、チクタクとざわめきに負けないほどの音を響かせている。
何度見ても、戦争のために建てられたとは思えないくらい美しい。ここに立つと、帰ってきたなと思うほど、もう見慣れた場所なのに、いつも新鮮に感動してしまう。
「あんた、そんなところにつっ立ってたら邪魔だよ!」
「す、すいません……」
壮年の男性から、追い抜かれ様にどやされ、やっと歩き出した。目指すのはホール中央に設えられた青銅の扉。向かい合うように十二枚、一見どこにも繋がっていないような観音開きの扉がずらりと並び、チーンと軽快な音が鳴るたびに、人がその中に消えたり、逆にそこから現れ出たりしている。
防衛省敷地内に建つ記念堂の一番奥。「ターミナル」と呼ばれるホールは、「本丸」への唯一の出入り口である。
人ごみを何とかすり抜け、長い長い列の一番後ろに並んだ。制服に身を包んだ案内役の女性がきびきびと列をさばき、思ったより早く列は進んでいく。一瞬で扉の向こうへ消えて行く人を目で追いながら、ぼんやりと、同業者の姿を探すが、それらしき人物は見当たらない。今回は、一斉雇用では無かったのだろうか。
「次の方、十番へどうぞ!」
案内の女性が順番を告げる声で我に返る。慌てて、空いた扉の前に立った。
表面に見事な桜の木が彫られた扉は、現代の科学技術を詰め込んだ代物とは思えない、時を経たかのような緑青色をしている。見上げれば、てっぺんに目盛がついていて、右に振れれば、「入」左に振れれば、「出」を指すようになっている。
扉にそっと触れると、ナンバーキーが表示された。事前に教えられていたナンバーを入力すると、システムが勝手に喋り始める。
“座標特定完了 本丸ナンバー ●●● 警戒レベル五 許可の無い者は立ち入りできません 認証プログラムによるセキュリティチェックを受けてください……許可の無い者は立ち入りできません 認証プログラムによる”
機械の声を遮るように再度扉に触れると、自動的にセキュリティチェックがはじまった。一瞬、身体が緑色の光に照らされたかと思うと、扉に自分のホログラム映像が浮かび上がる。
“生体データスキャン中 しばらくお待ちください”
ぺらぺらのリクルートスーツに、安っぽいパンプス。肩にもセットで買った、真っ黒な鞄をさげていて、その重みで少しスーツがよれている。長い髪はなんの飾り気もなくきゅっと一本に結ばれていて、我ながら冴えない姿だなあとぼんやり思う。
ホログラム映像の足元から解析がされているらしく、チェックが終了するたびにOKの文字が浮かび上がる。小さなOKが頭のてっぺんまでつみあがった後、ホログラム映像が消え、ALL CLEARの文字が浮かび上がった。扉の頭上に設置された目盛が揺れ、「入」に傾くと、チーンと、軽快な音が鳴る。
“認証完了 防衛省歴史改編対策局基地管理課職員 No.105841 入場許可が下りています 移動プログラムを起動します……しばらくお待ちください……五、四、三、二、一 動作が正常に完了しました 門が開きます ご注意ください”
大きな門をくぐると、降るような蝉の声に出迎えられた。急な温度変化に、額からじわっと汗が滲む。背後で大きな音をたてて扉が閉まり、先ほどまでのざわめきが嘘のように、人の気配がすっと消える。
振り返ると、鉄の扉を抜けてきたはずなのに、そこにあるのは木でできた扉で、一見塀の向こう側とこちらを隔てているだけの、普通の古い門のように見えた。
見上げると、入道雲の白と、空の青のコントラストがまぶしい。照りつける日差しが、じりじりと首筋を焼くのを感じながら、この完璧な夏が偽物だなんて、にわかには信じられないなと思う。
まるで、夢を見ているようだ。
さわさわと、木々の間を吹き抜ける風が、髪をゆらす。気を取り直して、重い鞄を肩にかけ直し、美しい夏の庭の奥へと歩みを進めた。
ここは、とある「本丸」。
審神者と呼ばれる人間と、刀に宿る付喪神である刀剣男士が共に住まう、無数にある対歴史修正主義者戦闘基地のひとつ。しかしながら、この本丸の審神者は数か月前に他界し、今は刀剣男士のみが暮らしている。
広い庭を抜けると、大きな日本家屋。写真や、映像でしか見たことのない、もう現代の日本には文化遺産としてしか残されていないような、古めかしい造りだ。玄関の前に、人が立っている。真夏の暑さには似つかわしくない、真っ黒なスーツ姿の男性。手元にスクリーンが浮かび上がり、何か情報を確認しながら、時折口を開いて画面に話しかける。誰かと連絡を取りあっているのだろう。
地元の田舎町ではほとんど見かけないが、国の中枢機関で働く人間のほとんどは、体内内蔵型の携帯端末を利用している。まるでひとりで会話をしているように見えるその光景には、未だに慣れない。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。お待ちしていました」
男性は私に気付くと、手を振ってディスプレイを消し、人の好さそうな笑みを浮かべた。
北嶋と名乗ったその男性は、印象の薄い、不思議な顔をしていた。男性。メガネをかけている。30代半ば。誰にでも似ているようで、誰にも似ていないような気もする。
この仕事の度に政府の職員とは顔を合わせているけれど、どの人も不思議と同じような印象を受ける。もしかしたら、本当の名前を知らないからかもしれない。名前を知らないということは、相手の本質を知ることができないのとほぼ同義だ。「北嶋」というのは、たぶん仕事用の名前だろう。人ではないものと関わる人たちは、皆本名を名乗ったりしない。
北嶋さんは再び手を振って、手帳サイズほどのディスプレイを表示させる。私の個人情報が記載されているのだろう、名前や住所など、簡単に確認され、間違いないと頷く。
「えーと、こちらのお仕事の経験は……ああ、もう何度も来ていただいているんですね。お若いのに頼もしいです。私はもっぱらデスク勤務で、現場仕事は慣れていないもので……」
北嶋さんは、私の職歴の欄を見たのか、ほっとしたように微笑んだ。
私は、今日から一ヶ月間、この本丸の管理人として仕事をする。審神者のいない本丸に、新たな主人を迎え入れる準備をするのだ。
とはいえ、特に稀有な能力が必要な職務ではない。放置された本丸を清掃したり、審神者の霊力が途切れたことで痛んだ本丸を点検し、修繕が必要な箇所を洗い出したり、審神者の趣味でおかしな増改築がなされている部分を報告したり、残された審神者の遺品を整理して政府に送ったり、といった、単純な業務だ。
『少しの間だけなんだ。政府の知り合いに頼まれて、どうしても人出が必要でね……私はここを離れられないし、どうだろう。頼まれてくれないかな』
そう言って、私にこの仕事を紹介したのは、地元の神社の神主様だった。
当時の私は、高校を出て、地元の小さな企業に就職して数カ月、やっと仕事にも慣れてきた頃だった。戸惑いも、恐怖もあったけれど、人ではないものが良く見えすぎる私の体質を知り、小さい頃から何かと気にかけてくれていた神主様の頼みを断ることも出来なかった。
この仕事を紹介されたのは、外の世界を知らない私への、神主様なりの優しさだったのではないかと、今となっては思う。
それ以来、仕事ぶりを買われたのか、単に常に人手不足なのか、依頼が来る度にこうして呼ばれて、もう数年になる。管理人とは言っても、短期アルバイトのようなものだが、なんの心配もなく地元を離れることができるこの仕事が、私は結構好きだった。
「では、こちらの着用をお願いしますね」
北嶋さんは、手を振ってディスプレイを消すと、ななめがけの黒いバックから、不釣合いな白い狐の面を取り出した。
刀の神様たちから、私を隠すための面。これを付けると、私の魂がぼやけて、神様たちに認識されづらくなるらしい。万が一にも神様に気に入られたりしないための安全策なのだそうだ。神様は、一度お気に召したものを手放すのをひどく嫌うから。
私は内心げんなりしながらそれを受け取った。必要なものとわかってはいるが、この仰々しいデザインだけは、どうにかならないかといつも思う。どこか不気味な、赤い模様の入った顔を撫でてみる。ざらりとした表面。材質はわからないが、とても軽い。丁度鼻まで覆うようになっていて、口元は開いており、会話に支障はない造りだ。顔にあて、狐の目の横あたりに結ばれた赤い組紐を、後頭部できゅっと結び、目の穴から向こうが見えるよう、位置を調整する。意外と視界は良好なので、着けてしまえばなんてことないのだが、ふと鏡に映った時など、今でもぎょっとしてしまう。
「いやあ、お似合いですね」
北嶋さんは愛想よく笑う。こっそりと、ため息が漏れた。就任一日目は、必ず政府の正規職員立ち会いのもと、本丸に入るのがルールだ。今まで仕事の度に政府の人と顔を合わせてきたが、みんな一律に親切で、なのにどこか胡散臭くて、好きになれた試しがないのだ。
「それでは、今更言う必要は無いかと思いますが、決まりなので、最後に確認だけさせてくださいね。勤務中は、刀剣男士に必要以上に干渉しないこと、名前を名乗らないこと、面をとらないこと。これだけは、必ず守ってください」
北嶋さんの言葉に、私は気を取り直して姿勢をただし、深く頷く。人ではないものと関わるのは、昔から慣れっこだ。でもここにいるのは、そこらをうろつくあやかしの類とはわけが違う。戦争のため呼ばれた、刀の神様達。今までも特に危ない目にあったことは無いが、気を付けるにこしたことはない。私の様子を見て、北嶋さんは事務的に頷き、引き戸に手をかけた。
「それでは、参りましょうか」
最初に私たちを出迎えてくれたのは、この本丸の初期刀である山姥切国広であった。特に名乗ってはくれなかったが、刀剣男士たちの外見や名前、歴史的背景などは大方頭に叩き込まれている。おさらいをするように、一瞬その記憶をたどった。名刀の写しであり、国広の最高傑作とされる打刀。
見た目の印象は人間とほぼ変わらないけれど、深くかぶった白い布からちらりとのぞいた涼やかな眼元は、どこか切れ味の鋭い刀を思わせる。目が合っただけで、びりびりと、指先が痺れるような緊張感。けれどそれは一瞬のことで、彼は北嶋さんと少し言葉を交わし、布をことさら深くかぶり、静かに私たちを先導した。北嶋さんは慣れているのか、気にした風もない。私は小さく会釈をしたが無視され、声を発することもなくその後ろを黙々と歩く。
長い廊下は磨き上げられているとは言えず、歩くたびにほこりが舞う。そっと見回すと、立派な建物なのに、どこもかしこも煤けているような印象をうけた。審神者がいなくなって二週間にしては、随分状態が良くないなと、違和感を覚える。
よそ見をしていると、山姥切国広は唐突に歩みを止めた。とたん、びりびりと、さっきより強く背中を駆け上がる痺れに、震える。この障子の向こうに、刀剣男士たちがいる。幼いころから慣れ親しんだ、人ではないものの気配。けれど、そのどれよりも洗練された、強く、厳しい威圧感。何度経験しても慣れることの無い、戦う物たちの発する気配。
「大丈夫ですか?」
声をかけられ、傍らに立つ北嶋さんを見上げると、その表情は変わらないが、額にうっすらと汗をかいていた。彼の方がよっぽど大丈夫ではなさそうで、心配になる。声をかけようかと思ったが、山姥切国広が何も言わず障子を開いたため、それは叶わなかった。
さっと、障子が開くと、いくつもの目が一斉に、こちらを向いた。
ぶわっと、風を感じた。空気のうねりが、耳元で一瞬ぎゅんと音を立て、通り過ぎていったような、錯覚に陥る。
広間にずらりと並んだ刀剣男士。その数、五振。決して多くは無いが、その佇まいは、よく鍛えられた強者のものだと、素人の私にも感じ取れる。実際、錬度は軒並み高かったはずだと、事前にもらった資料の情報を思い浮かべる。
こちらをまっすぐ見つめるもの。ちらりと一瞥し、すぐに視線をそらすもの。反応はまちまちだが、みな、一様に色の無い、何を考えているのか読めない表情を浮かべていた。
「皆様、わざわざお集まりいただき、申し訳ありません。お知らせがあって参りました」
北嶋さんは人の良さそうな笑みを崩さず、障子を閉めて、そのすぐ傍に腰を下ろした。私もそれに習い、傍らに座る。
「まずはこちら、今日からここの管理人になる者です。次の主を迎え入れる準備をいたします。本丸の中をうろうろしますが、妖しいものではないので切ったりしないようにご注意いただきたい」
ぞっとするような紹介をされながら、ぺこりと頭を下げる。
「そんなことより、俺たちはいつになったら出陣できるんだ?」
そっと顔を上げ、声を上げた刀剣男士を確認する。和泉守兼定が、鋭い視線を北嶋さんに向けていた。私に向けられたわけではないのに、背筋が寒くなるような、冷たい視線。戦うことにしか興味が無いのだと物語るその瞳は、今まで私が見てきた和泉守兼定には見られなかったものだなと思う。
「お待たせして大変申し訳ございません。代理の審神者が日替わりでこちらに来ることが正式に決まりましたので、明日から出陣できます」
「ならいいんだ。ありがとよ」
和泉守兼定は満足気に笑い、傍らの堀川国広が、やったね兼さん と嬉しそうに声をあげる。他の刀剣男士も皆一様に、少し表情が明るくなった気がして、なんとなく私も安堵する。
通常、次の審神者が決定するまでの間、刀剣男士たちは本丸で過ごし、新たな主を待つものだ。しかし、この本丸は生前の審神者との取り決めによって、仮の審神者を置く措置を取ることにしたのだという。私も初めて経験するパターンなので、当初聞かされた時は驚いた。少しでも間が開くと、戦の感覚は鈍るから、ということらしい。
北嶋さんは、出陣に関する詳細や任務の内容は、当日審神者から説明すると伝え、ぐるりと広間を見渡し、はたと気付いたように言った。
「そういえば、鶴丸国永様がいませんね」
「あいつはあまりじっとしているのが得意ではないんだ。許してやってくれ」
きょろきょろと辺りを見回す北嶋さんに、傍に座っていた鶯丸が答える。
「ええ、別にかまいませんが、今私が言ったこと、お伝え願えますか」
「わかった。伝えておこう」
鶯丸の目が一瞬私を見て、すぐにそらされた。狐の面を着けている私は、彼らの目にどのように見えているのだろうか。
「それでは私はこれで失礼いたします」
北嶋さんが一礼すると、ふと、場の空気が変わった。あれ、と思った瞬間、刀剣男士の姿が光に包まれる。眩しさに、思わず手をかざした。もっと良く見ようと思った時には、すでに光は掻き消えて、後には五振の「刀」が、鞘に納められた姿で、整然と並んでいるだけだった。
私は、唖然として北嶋さんを振り返ったけれど、その時には彼はもう立ち上がり、早足で玄関へと向かっていた。私はわけがわからないまま立ち上がり、その後を追う。
「北嶋さん?」
焦って呼びかけるが、返事は無い。北嶋さんは素早く靴を履き、玄関を出てから、大きく深呼吸をした。玉砂利の敷き詰められた庭を二、三歩ふらつき、こらえきれなかったのか、しゃがみこんでしまう。黒いバックから紙袋を取り出したと思ったら、その中に思いきり吐いた。私はただただ面食らって、思わず駆け寄り、その背に手をそえる。
「だ、大丈夫ですか?」
「す、すみません……見苦しいところを……」
一度吐いて少し落ち着いたのか、掠れた声で、北嶋さんは言った。大きく、肩で息をするその顔面は蒼白で、額には、大粒の汗が浮かんでいる。良く見ると、自前のエチケット袋を持つ両手は、細かく震えていた。
これはいわゆる、「神酔い」と呼ばれるものだろうか。
その症状を、実際に見たのは初めてだ。世の中の多くの人は、神様や、力の強いあやかしの傍に長時間居ることができないらしい。自分とは違う存在に対する、本能的な畏怖。それが身体に影響を与え、吐き気やめまいを起こしてしまう。
けれど稀に、神酔いを起こさない人間がいる。神社など清浄な気の溢れる場所に生まれ、神様の傍で育ってきた者や、陰陽師など、強い力を持つ家系の血を受け継ぐ者。そういった中には審神者のように、不思議な技を使う人間もいる。
私には、そんな大それた力はないけれど、幼いころから人ではないものがよく見える体質だった。山の神様のお膝元、あやかしが人より多いような田舎で育ったためか、神酔いを起こすことが無い。
北嶋さんは、耐性の無い方の人なのだろう。今までも、多少しんどそうにしている職員はいたが、こんなに酷い症状を見るのは初めてで、どうしていいかわからずうろたえてしまう。
鞄に入っていた資料を出して、ぱたぱたと仰ぐ。封を切っていないミネラルウォーターがあったことを思い出し、急いで蓋をあけて差し出した。北嶋さんはびっくりしたように私を見てから、小さくお礼の言葉を呟いて、それを受け取り、一気にあおった。
防衛省は、常に私のような人間を短期で雇用していると聞いたことがある。なるほど、どんなに単純な業務内容でも、刀剣男士と顔を合わせる度にこんな風に吐いていたのでは、仕事にならないだろう。
「だいぶ楽になりました。ありがとうございます」
蓋を閉めたペットボトルを横に置き、ハンカチで口を拭うと、おいくらですかと聞かれ、慌てて首を横に振る。しかし、非常勤職員にお水をおごらせたというのは問題だからとかなんとか押し切られ、諦めて携帯端末を取り出した。北嶋さんは、私の端末の古さに驚愕し、ほぼ化石ですねー、と失礼な感想を漏らした。多少腹は立ったが、元気になってきたなら結構なことだ。北嶋さんが私の端末の上に手をかざすと、ちゃりーんと軽快な音が響き、画面に水の代金分のお金がチャージされたことが表示される。
すごいなあ、いつのモデルです?と私の端末を見る北嶋さんの顔には、だいぶ血の気が戻ってきている。愛想の良い笑みは消えているのに、朝見た認識しづらい顔よりも、なんだか少し親しみがわいた。庭の隅に腰を下ろしてエチケット袋の始末をする傍に私も座る。
「こんな酷い神酔い、初めて見ました」
「本当に、お恥ずかしい。情けない話なんですが、うちの課の中でも私は特に駄目で、見ての通り1分と持ちません。それもあって、普段は庁舎内でのデスクワークが中心なんです。しかし、あなたは本当になんともないんですね」
北嶋さんは、狐面の奥の様子を観察するように、興味深げに私を眺める。
「正直うちには、審神者以外に本丸で働けるような職員は、ほとんどいません。能力のある人は、みんな神社局や陰陽寮にとられていきますから。なので、あなたのような人といっしょに仕事をするのは初めてです。眩暈はしませんか? 長時間あの空間にいても、平気なんですか?」
「ええ。まあ。緊張はしますけど、具合が悪くなったりはしませんね」
刀剣男士の気配というのは、そこらのあやかしとは比べものにならない。特に私が出会う刀たちは、色々な事情で主を失っている。そういう彼らの気は安定せず、安易に触れれば、何が起こるかわからない、危うさをはらんでいることもある。
でも不思議と、怖いと思ったことは無かった。暗い夜道で出会う、わけのわからないものたちの方がよっぽど怖い。付喪神は、人間に大事にされて、生まれてくるものだからかもしれないなと、私は勝手に思っている。自分を使ってくれる人間への思いが、彼らを形作るもののひとつなのだろう、と。
でも、今日の彼らは、少し様子が違った。戦いに慣れた、洗練された雰囲気はあったけれど。どこか空虚で、本当に「物」みたいに見えた。
そこでふと、先ほどの光景を思い出す。おもむろに刀に戻った、5人の刀剣男士だちのこと。
「さっきのあれ、なんですか?」
「あれ、とは?」
「刀剣男士がみんな……刀に……」
ああ、と頷いて、北嶋さんはもう一度水を飲んで、答えた。
「彼らは普段ああやって過ごしています。人型を取るのは、私たちと話しをする時だけです」
「それはまたどうして……?」
「さあ。元からなんですよ」
何でもない、というように北嶋さんは続ける。
「審神者の方針です。彼らは出陣する時以外は、基本的に刀の姿ですよ」
私は驚いて、一瞬言葉を失った。そんな話は、聞いたことが無い。何か理由があるのかと再度問うが、北嶋さんは少し首をひねった。
「詳しい理由は知りませんが、私がここの担当になった時からそうでしたね。何にしても、ちょっと変わったやり方をしている人だったんですよ。まず、20年審神者をやっていたのに、刀剣男士はあれだけですから。鶴丸国永を合わせて、六振。この本丸にあるのは、それだけです。ここは審神者の戦略と、よく鍛えられた少数精鋭の部隊で、抜きんでた戦績を収める優秀な本丸だったんです。だから、刀の姿で過ごさせていたのも、何か考えがあったんでしょうね」
北嶋さんの声に、惜しむような響きがまじった。亡くなった審神者のことを、色々尋ねてみたいような気もしたが、野次馬のように思われるのははばかられて、やめた。病に倒れたと聞いているし、若くして亡くなったのだ。きっと、北嶋さんにも、ここに住む刀剣男士たちにも、色々な思いがあるはずで、土足で踏み入っていいとは思えなかった。
次へ
もどる
スーツを着た政府職員が、なにやら真剣な面持ちで話しながら、早足で通り過ぎる。作業着姿の男性が、端末を片手にきょろきょろしている。麗しい刀剣男士を連れているのは、審神者と呼ばれる人たちだろう。袴や着物といった和装に身を包み、ある人は隣を歩く付喪神と仲睦まじげに、またある人は背後に家来のように従えて歩いている。
「あっちもこっちも、人手不足だな」
「まったくだ。人事は何をやってるんだか」
「今月の戦績じゃあまた政府のやつらにどやされる……」
「主、そう落ち込まないで、来月はもっとがんばるからさ!」
行き交う人の会話に耳を傾けつつ、辺りを見回す。1920年代に作られた建築物を模しているだけあって、現代には似つかわしくない豪奢で、装飾過多なデザインが目を引く。見上げれば、刀剣男士の紋が描かれた見事な格天井。少し視線を下せば、巨大な壁掛け時計が、チクタクとざわめきに負けないほどの音を響かせている。
何度見ても、戦争のために建てられたとは思えないくらい美しい。ここに立つと、帰ってきたなと思うほど、もう見慣れた場所なのに、いつも新鮮に感動してしまう。
「あんた、そんなところにつっ立ってたら邪魔だよ!」
「す、すいません……」
壮年の男性から、追い抜かれ様にどやされ、やっと歩き出した。目指すのはホール中央に設えられた青銅の扉。向かい合うように十二枚、一見どこにも繋がっていないような観音開きの扉がずらりと並び、チーンと軽快な音が鳴るたびに、人がその中に消えたり、逆にそこから現れ出たりしている。
防衛省敷地内に建つ記念堂の一番奥。「ターミナル」と呼ばれるホールは、「本丸」への唯一の出入り口である。
人ごみを何とかすり抜け、長い長い列の一番後ろに並んだ。制服に身を包んだ案内役の女性がきびきびと列をさばき、思ったより早く列は進んでいく。一瞬で扉の向こうへ消えて行く人を目で追いながら、ぼんやりと、同業者の姿を探すが、それらしき人物は見当たらない。今回は、一斉雇用では無かったのだろうか。
「次の方、十番へどうぞ!」
案内の女性が順番を告げる声で我に返る。慌てて、空いた扉の前に立った。
表面に見事な桜の木が彫られた扉は、現代の科学技術を詰め込んだ代物とは思えない、時を経たかのような緑青色をしている。見上げれば、てっぺんに目盛がついていて、右に振れれば、「入」左に振れれば、「出」を指すようになっている。
扉にそっと触れると、ナンバーキーが表示された。事前に教えられていたナンバーを入力すると、システムが勝手に喋り始める。
“座標特定完了 本丸ナンバー ●●● 警戒レベル五 許可の無い者は立ち入りできません 認証プログラムによるセキュリティチェックを受けてください……許可の無い者は立ち入りできません 認証プログラムによる”
機械の声を遮るように再度扉に触れると、自動的にセキュリティチェックがはじまった。一瞬、身体が緑色の光に照らされたかと思うと、扉に自分のホログラム映像が浮かび上がる。
“生体データスキャン中 しばらくお待ちください”
ぺらぺらのリクルートスーツに、安っぽいパンプス。肩にもセットで買った、真っ黒な鞄をさげていて、その重みで少しスーツがよれている。長い髪はなんの飾り気もなくきゅっと一本に結ばれていて、我ながら冴えない姿だなあとぼんやり思う。
ホログラム映像の足元から解析がされているらしく、チェックが終了するたびにOKの文字が浮かび上がる。小さなOKが頭のてっぺんまでつみあがった後、ホログラム映像が消え、ALL CLEARの文字が浮かび上がった。扉の頭上に設置された目盛が揺れ、「入」に傾くと、チーンと、軽快な音が鳴る。
“認証完了 防衛省歴史改編対策局基地管理課職員 No.105841 入場許可が下りています 移動プログラムを起動します……しばらくお待ちください……五、四、三、二、一 動作が正常に完了しました 門が開きます ご注意ください”
大きな門をくぐると、降るような蝉の声に出迎えられた。急な温度変化に、額からじわっと汗が滲む。背後で大きな音をたてて扉が閉まり、先ほどまでのざわめきが嘘のように、人の気配がすっと消える。
振り返ると、鉄の扉を抜けてきたはずなのに、そこにあるのは木でできた扉で、一見塀の向こう側とこちらを隔てているだけの、普通の古い門のように見えた。
見上げると、入道雲の白と、空の青のコントラストがまぶしい。照りつける日差しが、じりじりと首筋を焼くのを感じながら、この完璧な夏が偽物だなんて、にわかには信じられないなと思う。
まるで、夢を見ているようだ。
さわさわと、木々の間を吹き抜ける風が、髪をゆらす。気を取り直して、重い鞄を肩にかけ直し、美しい夏の庭の奥へと歩みを進めた。
ここは、とある「本丸」。
審神者と呼ばれる人間と、刀に宿る付喪神である刀剣男士が共に住まう、無数にある対歴史修正主義者戦闘基地のひとつ。しかしながら、この本丸の審神者は数か月前に他界し、今は刀剣男士のみが暮らしている。
広い庭を抜けると、大きな日本家屋。写真や、映像でしか見たことのない、もう現代の日本には文化遺産としてしか残されていないような、古めかしい造りだ。玄関の前に、人が立っている。真夏の暑さには似つかわしくない、真っ黒なスーツ姿の男性。手元にスクリーンが浮かび上がり、何か情報を確認しながら、時折口を開いて画面に話しかける。誰かと連絡を取りあっているのだろう。
地元の田舎町ではほとんど見かけないが、国の中枢機関で働く人間のほとんどは、体内内蔵型の携帯端末を利用している。まるでひとりで会話をしているように見えるその光景には、未だに慣れない。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。お待ちしていました」
男性は私に気付くと、手を振ってディスプレイを消し、人の好さそうな笑みを浮かべた。
北嶋と名乗ったその男性は、印象の薄い、不思議な顔をしていた。男性。メガネをかけている。30代半ば。誰にでも似ているようで、誰にも似ていないような気もする。
この仕事の度に政府の職員とは顔を合わせているけれど、どの人も不思議と同じような印象を受ける。もしかしたら、本当の名前を知らないからかもしれない。名前を知らないということは、相手の本質を知ることができないのとほぼ同義だ。「北嶋」というのは、たぶん仕事用の名前だろう。人ではないものと関わる人たちは、皆本名を名乗ったりしない。
北嶋さんは再び手を振って、手帳サイズほどのディスプレイを表示させる。私の個人情報が記載されているのだろう、名前や住所など、簡単に確認され、間違いないと頷く。
「えーと、こちらのお仕事の経験は……ああ、もう何度も来ていただいているんですね。お若いのに頼もしいです。私はもっぱらデスク勤務で、現場仕事は慣れていないもので……」
北嶋さんは、私の職歴の欄を見たのか、ほっとしたように微笑んだ。
私は、今日から一ヶ月間、この本丸の管理人として仕事をする。審神者のいない本丸に、新たな主人を迎え入れる準備をするのだ。
とはいえ、特に稀有な能力が必要な職務ではない。放置された本丸を清掃したり、審神者の霊力が途切れたことで痛んだ本丸を点検し、修繕が必要な箇所を洗い出したり、審神者の趣味でおかしな増改築がなされている部分を報告したり、残された審神者の遺品を整理して政府に送ったり、といった、単純な業務だ。
『少しの間だけなんだ。政府の知り合いに頼まれて、どうしても人出が必要でね……私はここを離れられないし、どうだろう。頼まれてくれないかな』
そう言って、私にこの仕事を紹介したのは、地元の神社の神主様だった。
当時の私は、高校を出て、地元の小さな企業に就職して数カ月、やっと仕事にも慣れてきた頃だった。戸惑いも、恐怖もあったけれど、人ではないものが良く見えすぎる私の体質を知り、小さい頃から何かと気にかけてくれていた神主様の頼みを断ることも出来なかった。
この仕事を紹介されたのは、外の世界を知らない私への、神主様なりの優しさだったのではないかと、今となっては思う。
それ以来、仕事ぶりを買われたのか、単に常に人手不足なのか、依頼が来る度にこうして呼ばれて、もう数年になる。管理人とは言っても、短期アルバイトのようなものだが、なんの心配もなく地元を離れることができるこの仕事が、私は結構好きだった。
「では、こちらの着用をお願いしますね」
北嶋さんは、手を振ってディスプレイを消すと、ななめがけの黒いバックから、不釣合いな白い狐の面を取り出した。
刀の神様たちから、私を隠すための面。これを付けると、私の魂がぼやけて、神様たちに認識されづらくなるらしい。万が一にも神様に気に入られたりしないための安全策なのだそうだ。神様は、一度お気に召したものを手放すのをひどく嫌うから。
私は内心げんなりしながらそれを受け取った。必要なものとわかってはいるが、この仰々しいデザインだけは、どうにかならないかといつも思う。どこか不気味な、赤い模様の入った顔を撫でてみる。ざらりとした表面。材質はわからないが、とても軽い。丁度鼻まで覆うようになっていて、口元は開いており、会話に支障はない造りだ。顔にあて、狐の目の横あたりに結ばれた赤い組紐を、後頭部できゅっと結び、目の穴から向こうが見えるよう、位置を調整する。意外と視界は良好なので、着けてしまえばなんてことないのだが、ふと鏡に映った時など、今でもぎょっとしてしまう。
「いやあ、お似合いですね」
北嶋さんは愛想よく笑う。こっそりと、ため息が漏れた。就任一日目は、必ず政府の正規職員立ち会いのもと、本丸に入るのがルールだ。今まで仕事の度に政府の人と顔を合わせてきたが、みんな一律に親切で、なのにどこか胡散臭くて、好きになれた試しがないのだ。
「それでは、今更言う必要は無いかと思いますが、決まりなので、最後に確認だけさせてくださいね。勤務中は、刀剣男士に必要以上に干渉しないこと、名前を名乗らないこと、面をとらないこと。これだけは、必ず守ってください」
北嶋さんの言葉に、私は気を取り直して姿勢をただし、深く頷く。人ではないものと関わるのは、昔から慣れっこだ。でもここにいるのは、そこらをうろつくあやかしの類とはわけが違う。戦争のため呼ばれた、刀の神様達。今までも特に危ない目にあったことは無いが、気を付けるにこしたことはない。私の様子を見て、北嶋さんは事務的に頷き、引き戸に手をかけた。
「それでは、参りましょうか」
最初に私たちを出迎えてくれたのは、この本丸の初期刀である山姥切国広であった。特に名乗ってはくれなかったが、刀剣男士たちの外見や名前、歴史的背景などは大方頭に叩き込まれている。おさらいをするように、一瞬その記憶をたどった。名刀の写しであり、国広の最高傑作とされる打刀。
見た目の印象は人間とほぼ変わらないけれど、深くかぶった白い布からちらりとのぞいた涼やかな眼元は、どこか切れ味の鋭い刀を思わせる。目が合っただけで、びりびりと、指先が痺れるような緊張感。けれどそれは一瞬のことで、彼は北嶋さんと少し言葉を交わし、布をことさら深くかぶり、静かに私たちを先導した。北嶋さんは慣れているのか、気にした風もない。私は小さく会釈をしたが無視され、声を発することもなくその後ろを黙々と歩く。
長い廊下は磨き上げられているとは言えず、歩くたびにほこりが舞う。そっと見回すと、立派な建物なのに、どこもかしこも煤けているような印象をうけた。審神者がいなくなって二週間にしては、随分状態が良くないなと、違和感を覚える。
よそ見をしていると、山姥切国広は唐突に歩みを止めた。とたん、びりびりと、さっきより強く背中を駆け上がる痺れに、震える。この障子の向こうに、刀剣男士たちがいる。幼いころから慣れ親しんだ、人ではないものの気配。けれど、そのどれよりも洗練された、強く、厳しい威圧感。何度経験しても慣れることの無い、戦う物たちの発する気配。
「大丈夫ですか?」
声をかけられ、傍らに立つ北嶋さんを見上げると、その表情は変わらないが、額にうっすらと汗をかいていた。彼の方がよっぽど大丈夫ではなさそうで、心配になる。声をかけようかと思ったが、山姥切国広が何も言わず障子を開いたため、それは叶わなかった。
さっと、障子が開くと、いくつもの目が一斉に、こちらを向いた。
ぶわっと、風を感じた。空気のうねりが、耳元で一瞬ぎゅんと音を立て、通り過ぎていったような、錯覚に陥る。
広間にずらりと並んだ刀剣男士。その数、五振。決して多くは無いが、その佇まいは、よく鍛えられた強者のものだと、素人の私にも感じ取れる。実際、錬度は軒並み高かったはずだと、事前にもらった資料の情報を思い浮かべる。
こちらをまっすぐ見つめるもの。ちらりと一瞥し、すぐに視線をそらすもの。反応はまちまちだが、みな、一様に色の無い、何を考えているのか読めない表情を浮かべていた。
「皆様、わざわざお集まりいただき、申し訳ありません。お知らせがあって参りました」
北嶋さんは人の良さそうな笑みを崩さず、障子を閉めて、そのすぐ傍に腰を下ろした。私もそれに習い、傍らに座る。
「まずはこちら、今日からここの管理人になる者です。次の主を迎え入れる準備をいたします。本丸の中をうろうろしますが、妖しいものではないので切ったりしないようにご注意いただきたい」
ぞっとするような紹介をされながら、ぺこりと頭を下げる。
「そんなことより、俺たちはいつになったら出陣できるんだ?」
そっと顔を上げ、声を上げた刀剣男士を確認する。和泉守兼定が、鋭い視線を北嶋さんに向けていた。私に向けられたわけではないのに、背筋が寒くなるような、冷たい視線。戦うことにしか興味が無いのだと物語るその瞳は、今まで私が見てきた和泉守兼定には見られなかったものだなと思う。
「お待たせして大変申し訳ございません。代理の審神者が日替わりでこちらに来ることが正式に決まりましたので、明日から出陣できます」
「ならいいんだ。ありがとよ」
和泉守兼定は満足気に笑い、傍らの堀川国広が、やったね兼さん と嬉しそうに声をあげる。他の刀剣男士も皆一様に、少し表情が明るくなった気がして、なんとなく私も安堵する。
通常、次の審神者が決定するまでの間、刀剣男士たちは本丸で過ごし、新たな主を待つものだ。しかし、この本丸は生前の審神者との取り決めによって、仮の審神者を置く措置を取ることにしたのだという。私も初めて経験するパターンなので、当初聞かされた時は驚いた。少しでも間が開くと、戦の感覚は鈍るから、ということらしい。
北嶋さんは、出陣に関する詳細や任務の内容は、当日審神者から説明すると伝え、ぐるりと広間を見渡し、はたと気付いたように言った。
「そういえば、鶴丸国永様がいませんね」
「あいつはあまりじっとしているのが得意ではないんだ。許してやってくれ」
きょろきょろと辺りを見回す北嶋さんに、傍に座っていた鶯丸が答える。
「ええ、別にかまいませんが、今私が言ったこと、お伝え願えますか」
「わかった。伝えておこう」
鶯丸の目が一瞬私を見て、すぐにそらされた。狐の面を着けている私は、彼らの目にどのように見えているのだろうか。
「それでは私はこれで失礼いたします」
北嶋さんが一礼すると、ふと、場の空気が変わった。あれ、と思った瞬間、刀剣男士の姿が光に包まれる。眩しさに、思わず手をかざした。もっと良く見ようと思った時には、すでに光は掻き消えて、後には五振の「刀」が、鞘に納められた姿で、整然と並んでいるだけだった。
私は、唖然として北嶋さんを振り返ったけれど、その時には彼はもう立ち上がり、早足で玄関へと向かっていた。私はわけがわからないまま立ち上がり、その後を追う。
「北嶋さん?」
焦って呼びかけるが、返事は無い。北嶋さんは素早く靴を履き、玄関を出てから、大きく深呼吸をした。玉砂利の敷き詰められた庭を二、三歩ふらつき、こらえきれなかったのか、しゃがみこんでしまう。黒いバックから紙袋を取り出したと思ったら、その中に思いきり吐いた。私はただただ面食らって、思わず駆け寄り、その背に手をそえる。
「だ、大丈夫ですか?」
「す、すみません……見苦しいところを……」
一度吐いて少し落ち着いたのか、掠れた声で、北嶋さんは言った。大きく、肩で息をするその顔面は蒼白で、額には、大粒の汗が浮かんでいる。良く見ると、自前のエチケット袋を持つ両手は、細かく震えていた。
これはいわゆる、「神酔い」と呼ばれるものだろうか。
その症状を、実際に見たのは初めてだ。世の中の多くの人は、神様や、力の強いあやかしの傍に長時間居ることができないらしい。自分とは違う存在に対する、本能的な畏怖。それが身体に影響を与え、吐き気やめまいを起こしてしまう。
けれど稀に、神酔いを起こさない人間がいる。神社など清浄な気の溢れる場所に生まれ、神様の傍で育ってきた者や、陰陽師など、強い力を持つ家系の血を受け継ぐ者。そういった中には審神者のように、不思議な技を使う人間もいる。
私には、そんな大それた力はないけれど、幼いころから人ではないものがよく見える体質だった。山の神様のお膝元、あやかしが人より多いような田舎で育ったためか、神酔いを起こすことが無い。
北嶋さんは、耐性の無い方の人なのだろう。今までも、多少しんどそうにしている職員はいたが、こんなに酷い症状を見るのは初めてで、どうしていいかわからずうろたえてしまう。
鞄に入っていた資料を出して、ぱたぱたと仰ぐ。封を切っていないミネラルウォーターがあったことを思い出し、急いで蓋をあけて差し出した。北嶋さんはびっくりしたように私を見てから、小さくお礼の言葉を呟いて、それを受け取り、一気にあおった。
防衛省は、常に私のような人間を短期で雇用していると聞いたことがある。なるほど、どんなに単純な業務内容でも、刀剣男士と顔を合わせる度にこんな風に吐いていたのでは、仕事にならないだろう。
「だいぶ楽になりました。ありがとうございます」
蓋を閉めたペットボトルを横に置き、ハンカチで口を拭うと、おいくらですかと聞かれ、慌てて首を横に振る。しかし、非常勤職員にお水をおごらせたというのは問題だからとかなんとか押し切られ、諦めて携帯端末を取り出した。北嶋さんは、私の端末の古さに驚愕し、ほぼ化石ですねー、と失礼な感想を漏らした。多少腹は立ったが、元気になってきたなら結構なことだ。北嶋さんが私の端末の上に手をかざすと、ちゃりーんと軽快な音が響き、画面に水の代金分のお金がチャージされたことが表示される。
すごいなあ、いつのモデルです?と私の端末を見る北嶋さんの顔には、だいぶ血の気が戻ってきている。愛想の良い笑みは消えているのに、朝見た認識しづらい顔よりも、なんだか少し親しみがわいた。庭の隅に腰を下ろしてエチケット袋の始末をする傍に私も座る。
「こんな酷い神酔い、初めて見ました」
「本当に、お恥ずかしい。情けない話なんですが、うちの課の中でも私は特に駄目で、見ての通り1分と持ちません。それもあって、普段は庁舎内でのデスクワークが中心なんです。しかし、あなたは本当になんともないんですね」
北嶋さんは、狐面の奥の様子を観察するように、興味深げに私を眺める。
「正直うちには、審神者以外に本丸で働けるような職員は、ほとんどいません。能力のある人は、みんな神社局や陰陽寮にとられていきますから。なので、あなたのような人といっしょに仕事をするのは初めてです。眩暈はしませんか? 長時間あの空間にいても、平気なんですか?」
「ええ。まあ。緊張はしますけど、具合が悪くなったりはしませんね」
刀剣男士の気配というのは、そこらのあやかしとは比べものにならない。特に私が出会う刀たちは、色々な事情で主を失っている。そういう彼らの気は安定せず、安易に触れれば、何が起こるかわからない、危うさをはらんでいることもある。
でも不思議と、怖いと思ったことは無かった。暗い夜道で出会う、わけのわからないものたちの方がよっぽど怖い。付喪神は、人間に大事にされて、生まれてくるものだからかもしれないなと、私は勝手に思っている。自分を使ってくれる人間への思いが、彼らを形作るもののひとつなのだろう、と。
でも、今日の彼らは、少し様子が違った。戦いに慣れた、洗練された雰囲気はあったけれど。どこか空虚で、本当に「物」みたいに見えた。
そこでふと、先ほどの光景を思い出す。おもむろに刀に戻った、5人の刀剣男士だちのこと。
「さっきのあれ、なんですか?」
「あれ、とは?」
「刀剣男士がみんな……刀に……」
ああ、と頷いて、北嶋さんはもう一度水を飲んで、答えた。
「彼らは普段ああやって過ごしています。人型を取るのは、私たちと話しをする時だけです」
「それはまたどうして……?」
「さあ。元からなんですよ」
何でもない、というように北嶋さんは続ける。
「審神者の方針です。彼らは出陣する時以外は、基本的に刀の姿ですよ」
私は驚いて、一瞬言葉を失った。そんな話は、聞いたことが無い。何か理由があるのかと再度問うが、北嶋さんは少し首をひねった。
「詳しい理由は知りませんが、私がここの担当になった時からそうでしたね。何にしても、ちょっと変わったやり方をしている人だったんですよ。まず、20年審神者をやっていたのに、刀剣男士はあれだけですから。鶴丸国永を合わせて、六振。この本丸にあるのは、それだけです。ここは審神者の戦略と、よく鍛えられた少数精鋭の部隊で、抜きんでた戦績を収める優秀な本丸だったんです。だから、刀の姿で過ごさせていたのも、何か考えがあったんでしょうね」
北嶋さんの声に、惜しむような響きがまじった。亡くなった審神者のことを、色々尋ねてみたいような気もしたが、野次馬のように思われるのははばかられて、やめた。病に倒れたと聞いているし、若くして亡くなったのだ。きっと、北嶋さんにも、ここに住む刀剣男士たちにも、色々な思いがあるはずで、土足で踏み入っていいとは思えなかった。
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