帰らないで、が言えた夜

「じゃあな。私がいないからって、寂しくて泣くなよ」

マンションの前で、三郎が軽く手を上げた。いつもなら言い返せるはずなのに、私は鍵を握ったまま、彼の靴先ばかり見つめていた。

帰らないで。

喉元までせり上がった言葉を飲み込んでいるうちに、背後の人感灯がふっと消えた。暗がりの中、靴音が一歩近づく。再び明かりが灯ったときには、三郎の顔がすぐそばにあった。

「引き留めるなら、今だぞ」
「……引き留めてないけど」
「そうか。だが、お前の手はずいぶん正直だな」

三郎は私の手を取り、固く握り込んだ指を一本ずつ解いていく。掌から鍵をそっと抜き取り、自分の手へ移した。赤く残った鍵の跡を、親指がゆっくりと撫でる。意地悪な言葉とは裏腹に、その触れ方はひどく優しい。触れられるたび、隠していた気持ちまでほどかれていく。

「……帰らないで」

ようやく告げると、掌を撫でていた指が止まった。
三郎は私の目をじっと見つめ、短く息を吐いた。

「……私も、帰らない理由を探していたところだ」

私の手を握り直し、今度は指を絡める。応えるように握り返すと、彼の唇に淡い笑みが浮かんだ。
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