帰らないで、が言えた夜

マンションの前まで来たのに、鍵を手にしたまま、八左ヱ門に背を向けられずにいた。

「じゃあな。中に入るまで見てるから」

八左ヱ門はすぐそばに立ち、私がエントランスへ向かうのを待っていた。ここで別れたら、帰り道に何度も聞いた彼の笑い声も、今夜はもう聞けなくなる。そう思うと、どうしても足が動かなかった。

「どうした。気分でも悪いのか?」
「ううん。大丈夫」

心配そうに顔を覗き込まれる。本当の理由を言えないまま、手の中の鍵をきつく握り込んだ。八左ヱ門の視線が、その手へ落ちる。再びこちらを見たとき、彼の口元がわずかに緩んだ。

「もしかして、帰ってほしくない、とか?」

図星を刺され、頬が一気に熱くなった。何も言えずに俯くと、今度は八左ヱ門が戸惑ったように瞬き、照れくさそうに後ろ髪をかいた。その耳の先も、うっすらと赤い。

「……そんな顔すんなよ」

彼の耳の赤さに背中を押され、そっと唇を開いた。

「……帰らないで」

掠れそうな声で告げると、八左ヱ門が息を呑んだ。驚いたように目を見開き、それから困ったように眉を下げて笑う。

「……しょうがないな。お前にそう言われたら、帰れるわけないだろ」

大きな手が、私の前へ差し出された。

「ほら」

促されるまま手を重ねると、八左ヱ門は嬉しそうに笑い、私の指をきゅっと絡めた。
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