帰らないで、が言えた夜

「おやすみ。ちゃんと鍵、かけるんだよ」

マンションの前でひらりと手を上げ、勘右衛門が背を向ける。その袖を掴んでしまえたら、どれほど簡単だろう。恋人なのだから、帰らないでと甘えるくらい許されるのかもしれない。けれど、明日は朝が早いと聞いていた。私のわがままで困らせたくはない。

鍵を握ったまま、背を向けた勘右衛門を見送る。靴音がひとつ遠ざかったところで、堪えきれずに声が出た。

「……ねえ」
勘右衛門が振り返る。
「ん?」
呼び止めたくせに、その先が出てこない。
「……なんでもない」
「そっか」

そう答えたのに、勘右衛門は帰らなかった。来た道をゆっくり戻り、私の前で足を止める。

「帰らないでって、言ってくれるのかと思った」

図星を刺されて俯く。すぐそばで、小さく笑う声がした。頬にかかった髪を、勘右衛門の指がそっと耳へかける。からかうような言葉とは裏腹に、その触れ方は驚くほど優しかった。

「……だって、明日早いんでしょう」

言い訳のようにこぼすと、勘右衛門は一瞬目を丸くし、それから甘く笑った。

「引き留めてくれたら、帰らないけど」

甘く落とされた声に、もう言葉では敵わないと思った。
帰らないで。
言えないまま胸の奥で震えていた言葉の代わりに、彼の袖口をそっと摘む。勘右衛門はその指を見下ろし、嬉しそうに目を細めた。

「うん。それで充分」

帰るはずだった彼の足が、今度は私のほうへもう一歩近づいた。
2/5ページ
スキ