帰らないで、が言えた夜

「じゃあ、また明日」

マンションの前まで送ってくれた兵助が、いつもの穏やかな声でそう言った。私も「またね」と返せばいい。たったそれだけなのに、鍵を握ったまま動けずにいた。背後のガラス扉から、白い明かりがこぼれている。振り返ってその向こうへ入れば、今夜は終わってしまう。

「……どうした?」
「ううん。なんでもない」

俯いたまま答えても、兵助は帰ろうとしなかった。私が顔を上げるのを待つような沈黙が、かえって胸を苦しくさせる。やがて、兵助がそっと顔を覗き込んだ。

「まだ、帰らないでって顔してる」

思いがけない言葉に目を上げる。兵助は少し眉を下げて、どこか困ったように笑った。

「そんな顔されたら、俺だって帰りたくなくなるだろ」

頬に落ちた一房を、兵助の指がそっとすくい、耳の後ろへ流す。指先が耳の輪郭をかすめた瞬間、息が止まった。すぐに離れていったのに、触れられた場所だけがいつまでも熱い。

「……帰らないで」

ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。
兵助はすぐには答えず、私の目をまっすぐ見つめた。

「うん」

短い返事は、いつもより少し低かった。

「俺も、もう少し一緒にいたい」

兵助の手が、鍵を握った私の手をそっと包む。冷たい鍵を挟んだまま重なった掌は、驚くほどあたたかかった。
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