過去編



記憶が一番ハッキリ残っているのは、中学校へ上がって暫く経ったあたりかも知れない。小学校の頃は子供だからこそ両親から愛情を多く貰える時代。でも私にはそんな記憶が無かった。
私は、両親に愛して貰った記憶が無い。


名前は【森 妃姫子】。両親はどんな気持ちでその名を私に与えたのか、聞いた事など一度もなかった。




『お早うございます、お母さん⋯。』

「今忙しいの。早くご飯食べて。」



父親は酒癖が悪く、仕事が上手くいかなかったり上司と折り合いが悪くなるとすぐ辞め、自宅でひたすら酒を飲んでは愚痴を吐き出した。酔いが回れば家具を壊し、時に母や私にも当たり散らした。
母親はそんな父親と私を養う為に朝から晩まで仕事を重ねた。多大に積み重なったストレスのせいか、家族とのコミュニケーションなんて絶無に等しかった。

両親との団欒も無ければ、固定の友人もいない。する事もなくただひたすら勉学に打ち込んでいた。そのお陰か小学校では教師に可愛がって貰った。級友もそれなりの関係を持ち学校生活はそこそこ楽しかったかも知れない。

記憶がハッキリと濃厚に塗り付けられているのはこの頃だ。10代のこの歳は身も心も中途半端に成長して、余計な知識と感情も持ってしまっている。ここでも成績を保つ様頑張っていたつもりだった。と言うよりも遊びに行く相手なんて居なかったので、それしかする事がなかっただけだったと思う。


ここでも教師は私を模範生として褒めてくれた。それを級友は見逃さず、理不尽な贔屓だと私に指を指した。級友が私に抱いた感情は所謂“妬み”だ。


「イイコ振り。」
「ガリ勉。」
「えこ贔屓」
「ひいきのひきこ。」



クラスの誰かがそう言い始めたある日を境に、私は孤立。クラス全員から蔑まれる事になった。最初は私の周辺の私物から始まった。机を罵詈雑言で埋め尽くし、教科書や体操服を汚し、隠し、上履きをカッターで引き裂いた。それを見て反応を見せる私を見て嘲笑った。典型的な“虐め”は段々と激しさを増していった。

給食に虫を混ぜ、鞄に猫の死骸を入れ、ロッカーに閉じ込め、手洗い場で水を浴びせ、汚いモップを顔に押し付け、身体を押さえ付け殴り、蹴り、嘔吐しながら苦しむ私を見下ろしまた嘲笑う。
男子も女子も関係ない。思い付く限りの蔑みを受けた。教師達も気付き始めているのに助けてくれない。勿論、両親にも打ち明けられない。助けなんてない。


そして、瞼を閉じる度、その裏に映し出される。忘れたくても忘れられない、消す事の出来ない“あの”出来事。






「ひいきのひきこは引っ張ってやるよ。」






放課後。ある生徒を筆頭にクラスメイトに押さえ付けられ、手足をロープで乱暴に縛られた。そして主犯が私の足を掴み、校内を引き摺り始めた。



『痛い⋯! やめて、やめて下さい! お願いします⋯!』


「ひいきのひきこがなんか喋ってるぞー。」

「聞こえなーい。」

「あははははは!」



腕に、身体に、顔に、床に擦り切られていく痛みが走る。角を曲がる度に顔が打ち付けられる。血が流れ床が汚れても尚構わず引き摺り続けられる。階段もお構いなしで、脳が、顔面が割れてしまう様な激痛で泣き叫ぶ。でも、級友は笑う。見ている他生徒も笑う。助けなんてない。惨めに引き摺り回される私を見下ろして笑う。

校内を一周し終わった頃にはもう飽きて縛った縄を適当に解き放置された。身体中が痛い。痛む体を何とか起こそうと藻掻く。


「うっわ、キッモ。」

「化け物みたーい。」



血と涙と傷まみれのぐちゃぐちゃな顔をした私を汚い物を見る様な目で見下する級友達。指を指し「醜い醜い」と口を揃える。


こんな世界にはもういたくない。





「妃姫子!学校へ行ってないそうじゃないか!」

「あんたが行かないと私がお父さんに怒られるのよ!」



とうとう学校へ行かなくなった。でも家では酒乱の父親とストレスが蓄積した母親が居る。傷だらけになって帰ってきた娘なんて気にもとめない。父親が殴って来たと思ったら今度は母親に叩かれた。「学校へ行け」と殴られる。


「引き摺ってでも連れていくからな!」

『嫌です!行きたくないです!』


髪を強く引っ張られるが家具に必死にしがみつき拒み続けた。私の力が負け手を離してしまい、玄関先まで引き摺られる。



『嫌ぁあ!!行きたくない!行きたくない!』


傷だらけの顔と身体を震わせ抵抗し、諦めたらすぐ様部屋に戻り布団を被って泣き続けた。それからはもうそれだけの毎日だ。部屋からは一歩も出ず、ぐちゃぐちゃになった顔を覆い疲れるまで泣いた。両親も「なら一生そうしてろ」と食事も用意しなくなった。



それでいい。




部屋へ閉じ篭ってから数ヶ月経った。今日は雨。梅雨入りしたからずっと雨だ。雨は好き。外から鳴く蛙の醜い鳴き声は雨音に掻き消されて聞こえない。それと同じ様に、この雨の中は誰にもこの醜くなり果てた顔を見る事はない。だから雨は好きだ。

窓を開け、湿った空気と雨に濡れたアスファルトの匂いを思い切り吸い込み、裸足のまま外へ飛び出した。素足に直接感じる濡れた地面の感触が心地良い。流れた涙も血も、全部雨で洗われる。

その時。



「じゃあまた明日ー! 」

「じゃあなー!」



近所に住んでいる級友の一人が友人と別れこっちに向かって来た。主犯格の男子生徒だ。引き摺り回された恐怖がゾッと襲う。しかし、傘をさしているせいか私には気付いていない。何も知らずにこちらへ歩いて来る。何も知らずに、何事もなかったかのように、私にした事も全て忘れて呑気に笑って⋯

こいつらのせいで私は⋯




傷のついた右手で級友の男子生徒を突き飛ばした。



ドンッ


「痛って! 何すん───ヒッ!?」


無様に転んだ級友が起き上がる前に足を掴んだ。傷だらけの化け物の様な私の顔を見て驚き怯える。誰が付けた傷かも知れないで。



『⋯⋯醜い⋯か⋯』



私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか私の顔は醜いか。




『私の顔は醜いか!!!!!!』



級友を私にした事と同じ様に引き摺り始めた。ズルズルと衣服と肌が擦れる音が雨音に混ざって鳴る。引き摺られる痛さに級友は叫ぶがこの雨の中では誰にも聞こえない。虚しく雨音に溶け消える。


「何すんだよ!?痛、痛いからぁ!やめてくれよ!何なんだよぉ!?誰だか知らねぇけどやめてくれよ!頼むからぁ!!」



級友の口から紡がれた、「誰だか知らないけど」と言う言葉に足を止めた。あんなに酷い事をして来たと言うのに⋯踏んだ雑草など誰も覚えはしない、それと同じだと言うのか?



『……は…、はは…は………』



足を握る手に力を込める。湧き上がる怒りと悲しみを増幅させるように雨は強く地面を叩きつけた。握り締めた手の中でボキリと骨を砕く音と劈く悲鳴が耳に響いた瞬間、再び歩みを進める。



引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る…


全てを恨んでやる、全てを引き摺ってやる。その身体が擦り切れ肉塊になっても尚引き摺り続けてやる。「妃姫子」である事も全てやめてやる。この雨に誓う。恨みが晴れるまで引き摺り続けてやる。人間みな引き摺り殺してやる。



『引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る引き摺る⋯』



恨みを込めた念仏の様にただその言葉だけを繰り返した。いつしか引き摺り続けた級友は人間としての原型を留めなくなった。次は両親を引き摺り回した。仕事や家事のストレスから開放されてさぞ嬉しいだろう。息をしなくなった事を確認してから、食卓の椅子に縛り付けた。

今度は近くの小学生。甲高い悲鳴が雨と混ざって喧しい。引き摺り殺した子供は自宅で大事に保管しよう。そしたら次が見つかるまでソレを引き摺り回す。

私の顔を見た者は愉快なくらい怖がるから、口の両端をカッターナイフで引き裂いた。私の顔を見て泡ふためく子供は叫びながら逃げ出す。それをすかさず捕まえる。

ああ、人を引き摺るのはなんて楽しいんだ。







『⋯3人で、ご飯を食べるのは久しぶりですね。』




捕まえた醜い醜いヒキガエルを食卓に並べ、腐りかけた喋らない両親と団欒を楽しんだ。これが私の、“森 妃姫子”としての最後のまともな言葉だった。













【ひきこさん】












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