過去編
関東某所、俺は街で一番デカい大病院で生まれた。両親共に立派な医者だった。俺も勿論、物心付いた時から医者を目指していた。
『父さん!俺また満点取った!』
「偉いじゃないか、***。この調子だ。」
成績は常にトップをキープしていた。一つの志の為、人並みの遊びもせず、色恋にも手を付けず、努力を惜しまなかった。
俺は特に父親を尊敬していた。幼い頃から父親と同じ内科の道を行こうと決めていた。褒められる度勉学の意欲も湧き、日々が幸せだった。
だが、努力しているのは俺一人だけではなく。
「父さーん!」
「****、お前も帰ってたのか。」
兄さんと。兄と競う様に勉強していた。生まれた時からどちらが病院を継ぐのか、昔から親戚一同にも期待されていた。
でも、
「***は満点だったのに、何故お前は90点なんだ?****。」
「⋯⋯!」
『に、兄さんは頑張ったよ⋯、』
────パチンッ
「お前には、関係ないだろ。」
兄さんは自分より秀でていた俺の事を嫌いな様だった。一緒に遊んでもくれなかったし、会話すらまともにしてくれなかった。叩かれた手の甲よりも、心の奥底にずっと痛みが残り続けた。
だからなのか。俺の事がそんなに嫌いだからなのか。
大学も卒業して、国家試験にも合格して、もう少しで医者になれる。その直前に。
「気分はどうだ、***。お前にはお似合いの姿だよ。」
頬に突き刺さった鋭い痛みと、ジャラリと鎖の擦れた音で目が覚めた。両手に繋がれたベルトに連なる冷たい鎖、重苦しい空気感。ニシャニシャと笑む兄。目の前には鉄格子。
そして、まるで刑務所に収容された囚人の様な俺。
俺は、兄によって座敷牢に監禁された。
「***、お前は邪魔だよ。病院を継ぐのに二人も要らない。」
『兄さん⋯、何で、』
「ずっと邪魔で仕方なかった。死ねよ。」
『兄さ、』
「死ねよッ!!」
ここがどこなのか。どうしてこんな事をするのか。疑問だらけの俺の話も聞かず、一方的に思い切り殴られた。こんなに強く殴られた事なんて生まれてから一度もない。痛い。
「死ね、死ねよッ!!」
4発、5発、6発。顔面を満遍なく殴られる。顔の所々から血が流れ、冷たい床を濡らす。脳震盪で視覚が歪む。顔の感覚が無くなって来たところで俺はまた意識を失ってしまった。
「***⋯、ごめんね、ごめんね⋯。」
母さんが謝りながら血を拭って傷口に包帯を巻く。だが拘束を解くつもりは無いらしく、俺を開放してはくれなかった。
傷が治りかけたらまた兄さんに暴力を振られ、母親が泣き、謝りながら簡易的な手当てを施し、また憂さ晴らしが如く兄に暴力を振られる。
誰も俺を助けてくれない。この狭い空間が俺の生きる世界。生き地獄だった。
そんな時間感覚はおろか、生きている感覚すら分からない俺の反面。兄は病院で一番の名医となったらしい。街でも有名な医者として、富も栄誉も、何もかも不自由のない幸福を手に入れて⋯、そして俺の知らない所で尊敬していた父親まで亡くなっていた。
その影で俺は。
兄が憎い。
『⋯ハァ、ハァ、ハァ⋯、』
兄が憎い。兄が憎い。兄が憎い。兄が憎い。兄が憎い。兄が憎い。兄が憎い。兄が憎い。
『ハァ、ハァ⋯、ハァ⋯⋯』
脳が、身体が、憎悪に侵食されていく。憎悪が心を黒く覆い、へばり付いて何も見えない。
「***⋯?」
母親の姿すら、見えない。
「***⋯、⋯⋯ッ!?」
ここから出たい。この生き地獄から脱出したい。その一心で、俺は。母親の細い首に手を掛けた。
「**⋯っ!ぁ、⋯がッ⋯ッ、⋯⋯」
力を込める腕から母親の両手はずるりと滑り落ちた。そのまま床に倒れ込む。息もしていない。俺が母さんを殺した。
俺が、母さんを、殺した。
『⋯ハァ、ハァ⋯』
しかし、実の母親を殺したと言う罪の意識を感じる前に、一秒でも早く逃げる事を思考が優先した。母さんの服のポケットを探ると鍵が出て来た。枷の鍵かも知れないと無我夢中で錠をこじ開けると、枷が外れた。
人生なんてもう要らない。母さんも殺した。とにかく早く⋯
(早く逃げないと⋯!)
母さんの死体を放置し、牢を出ると階段だけがそこにあった。階段を登ると自宅のある一室に繋がっていた。まさか自宅の地下にこんな場所があるとは思わなかった。
自室はどうやら荒らされていなかった。とにかく自分の物は全て持ち出そう。貴重品、白衣も持って行こう。亡くなった父親の薬品もあるだけ持って⋯、
『注射器⋯』
そして、1本の注射器が目に入った。何故だかその注射器が、「自分も連れて行って」と俺にそう語り掛けているような気がした。注射器も白衣のポケットに収めた。
包帯に巻かれた身体の上に白衣を纏い、荷物を持ち家を飛び出した。振り返る事なく、やっと手に入れた自由を身体にいっぱい吸い込み。
だが、これからどうしよう。身元を証明させるものが無い以上、何処かで雇って貰える筈もない。この傷を治療しようにも、このあたりの病院に俺の名前は知られているだろう。母親の遺体もいずれ見つかってしまう。
とにかく少しでも遠くに向かわなくてはと歩みを進める。
(それにしても夜だってのにやけに眩しい⋯、街もガラッと変わったし⋯ビルも店も人も、昔より増えてる⋯。)
後にそれはバブル景気だったと人は言う。知らない間に街並みも人も何もかも新しく作り替えられていた。
こんな包帯だらけの俺なんて気にせず皆忙しなく街を歩いていく。すれ違う人々は皆見た事の無い服装で、まるで見知らぬ世界に飛ばされた様だった。
そんな、見知らぬ世界に。
「ねぇ、****さん。」
『⋯⋯兄さん⋯?』
聞いた事のある名前が、耳に付いた。服装や髪型は大分変わっていたが、その顔は兄そのものだった。着飾った女を連れ、高級そうな店から出て来た所だった。幸い俺の存在には気付いていない。会話を黙って聞く事にした。
「本当にお金持ってるのね。ありがとう、このネックレス。」
「ははっ、何でも買ってあげるよ。君の為なら。」
「まあ、ふふふっ。」
甘ったるい女の声に、憎らしい兄の誘い文句。心臓はドクドクと鳴り始める。気取った兄を見ただけで苛立ちが増すが、その直後の女の紡がれた一言で、兄への憎しみは完全に“殺意”となった。
「流石、大病院の一人息子ね。」
────“一人息子”。俺は、最初から居ない事になっていたのか?俺は、居ないも同然なのか?
兄さん。何で。何でそんなに俺が邪魔だったんだよ?俺も兄さんも、どちらも同じ道に進んじゃ駄目だったのか?
兄さん⋯⋯なんで⋯⋯⋯
もう殺意以外何も見えない。母さんを殺した時と同じ、逃げる事しか考えられなかった様に。その刹那、ポケットにしまっていた注射器が、また俺に囁き掛けて来た様な感覚がした。
【殺しちまえ。】
背後から近寄りそのまま兄を路地裏に引っ張り込んだ。車や電車、人々の歩く音で全てを掻き消してくれるお陰で誰も俺の行動が見えない。
「うわぁああ!?」
兄さんは突然現れた俺に驚きを隠せない。まるで化け物を見たかのように悲鳴をあげる。
「お前っ、どうやって出てきた!?」
高そうな服に装飾品。路地裏のゴミで汚れてしまって、良く似合っている。あんなに俺を見下ろして殴り付けていたのが嘘の様だ。殺意に染められた俺に怯えている。なんて心地良いんだ。
「鍵は⋯、母さんはどうした⋯!?」
『────殺シタ。』
「⋯ひっ⋯!?」
『なぁ、お前は俺が嫌いなんだよな?邪魔で仕方なかったんだよな?』
「く、来るな⋯、」
『俺の存在を消したかったから、俺を閉じ込めたんだよな?』
「止めろ、止めてくれ⋯!金か!?金なら幾らでもくれてやるから⋯!」
『俺なんて⋯⋯居ないも同然なんだよな?』
ぐしゃぐしゃに混ざった憎しみと殺意と同じ様に、振りかざした注射器を満たすぐしゃぐしゃに混ぜた薬品。その注射器の中身は人を救う“薬”ではなく、最早人を殺める為の只の“毒薬”────
『なぁ、兄さん。』
「やめろぉおおお!!!!」
そのまま俺は、兄さんの体内に注射器いっぱいの毒を注射した。
「⋯⋯**、*⋯!なん⋯ッ⋯ごぼッ、が、たす、け⋯、*、**⋯!」
毒は素早く体内を巡り、血を吐きながら惨めに喉を掻き毟る兄さんはひたすら***と、“誰か”の名前を呼んでいた。
誰だよソイツ。誰の名前だよ。
俺は、俺の名前は⋯⋯⋯、
なんだ?
自分の名前を思い出せなくなったと同時に、自分が“人”である事すら忘れてしまっていた。たった一つの志も、幸せだった記憶も。只残っているのは、監禁されていたあの地獄の様な日々と兄への憎しみだけだった。
俺はこれから何をしようか。
今有るのは、手に握るこの“毒”。忘れられない、針を皮膚に刺し毒を注射していく、快感とも言えるあの感覚。
ザワリと背筋が震える。俺の中で何かが崩れる音がした。
「ねー知ってる?あの噂。」
「ああ、あのウチら位の子に毒薬注射する奴?」
「また出たみたいだよねー。ママも心配してさぁ。なんて言ったっけ、あれ。」
「あ~、えーと、確かぁ⋯」
『⋯⋯そこの君達。ちょっと道を教えて欲しいんだけど、良いかな?』
【注射男】
END