3章『やらない善意よりやる偽善。』


ーーーいつでも、あの日のことは鮮明に思い出せる。

あれは小学生のときだった。
夏休みが終わった次の日の、始業式の日だった。
あの日も朝から暑くて仕方がなくて、じーわじわとセミも煩かった。
夏休みのせいで夜ふかしに慣れきってしまった上、暑さ故に質の良い睡眠の取れなくてぼーっとする頭で何とかベッドから出て、顔を洗った後リビングへ向かった。
「おはよう優。」
「眠そうだなぁ。」
「おはよう……お母さん、お父さん……」
顔を洗ったにも関わらず
そう、いつもどおりの家族団らんに時間のはずだった。
僕はこの温かい場所にいなくてはならないの人が欠けてしまっていることに気付き首を傾げた。
「姉さんは?」
いつもならば僕よりも早く起きて僕の隣に座っているはずの瞳姉さんがいなかった。
お母さんが焼いてくれた目玉焼きやベーコンはまだ手つかずだったので、早めに学校行った、と言うわけでもなさそうだ。
僕が姉さんがいないことを指摘するとああ、とお母さんが反応する。お父さんはコーヒーを啜っている。
「まだ起きてこないのよ。珍しいわよね。」
「ちゃんとしているが、瞳もまだまだ子どもだなぁ。」
「ふぅん……じゃあ、僕起こしてくる!」

サクサクとパンを口いっぱいに頬張り、皿の上のものを全て胃の中におさめてすぐに椅子を倒す勢いで立ち上がり、タタタ、とフローリングを駆け出す。
後ろからコラッと行儀が悪い事を起こる母の声も、父の微笑ましいものを見た穏やかな笑い声を聞きながらも僕の足は止まらない。
いつもなら僕を起こしてくれるはずの姉さん、今日は自分が起こすのだと使命感にかられていた。
優しく穏やかな日常の中のほんの少しの非日常だったはずの出来事で終わるはずだった。
そう終わるのだと、何の疑いもなく盲目的に信じていた。

これから起こる、衝撃的な光景なんて、想像もしてなかったよ。
コンコン、姉さんの扉を開く前に手を丸くして2度ノックする。前にノックもせず開けてしまったとき温厚な姉が酷い剣幕で怒られたことがあったので、それ以来どんなに慌てていても必ず忘れずにノックをすると約束したので、それを守った。
けれど、いつもならば扉越しに反応が返ってくるはずなのにシン、としていた。
(まだ眠っているのかな?)
そう思った僕は再度ノックをしながら次は声をかける。

「姉さんおはよう。朝だよー起きてーちこくしちゃうよー!」

コンコン、コンコン、自分がされたら鬱陶しくて起きるほどにノックと姉さんを呼ぶ声を繰り返してみてもやっぱりなにも反応がなくて。
首を傾げてもしかして具合が悪くて動けないのかも?と思ってノックと強めの呼び掛けを辞める。

「姉さん、だいじょうぶ?はいるよー?」

中学生になってしばらくすると親にも僕にも部屋に必要以上に入ってほしくなさそうにするようになった姉は、よっぽどのことがない限り入室を許可しない、普段ならすぐに拒絶の声が来るはずなのに今日は無くて。
僕はやっぱり心配で、起き上がれなくて声も出ないほど具合が悪いんだと思って、ついにその部屋の扉をキィ、と悲鳴のような音を立てながらひらいた。

「ーーーねえ、さん?」

そして、僕は、生涯忘れることが出来ないであろう光景を目にする。

パジャマ姿で裸足の姉が、窓枠に足をかけていた。
ふわり、その柔らかい肩ぐらいの長さまでの髪がなびいた。窓は開け放たれていた、それは夏休みがおわったばかりなので当然として、網戸までも無かった。
そんな安全とは言えない窓枠に両足をかけていて、身体を支えるためかふちに手を置いている。

(なに、してるの)

幼稚園のころふざけてベランダの柵から乗り出した僕を叱ったのはいっしょに留守番をしていた姉本人だ、5階から飛び降りてしまうことになったらあぶないから、絶対に乗り出してはだめだと、そう叱ってくれた。
姉さん、忘れちゃったの?
それなら、僕が注意しなきゃっ。
幼心でも分かってしまうわきあがってくる不安を無視してなにも分からない子どものように、こう声をかけようと思った。
そうすれば、きっと、いつも通りの日常に戻ると信じてた。


あぶないよ、姉さん。
はやくこっちに来て、みんなでいっしょにご飯食べよう?


そう声をかけようとした瞬間、姉はくるりと首だけこちらに向けた。
穏やかに目を細めゆるやかに口角を上げて、僕を見た。
いつも通りの笑顔に、力を抜いた、そのときだった。

「……ごめんね、優。」

姉は、ふちを掴んでいた手を離して、裸足が窓枠をトンっと蹴飛ばして、姉さんは自ら窓のそとへとその身を乗り出した。

姉さんの身体が、落ちていくのを、僕はただ見ているしか出来なかった。
姉の華奢な身体が重力に逆らうこと無く、視界からゆっくりと消えていく。
手を伸ばすことも名前を呼ぶこともできなかった。
ただ、今自分の目の前でなにが起こったのか、なかなか理解できなくて、頭にもやがかかったようにぼぅっとして、身体も身じろぎ一つ出来なかった。

「おねえちゃん起きたー?」

遠くからお母さんの声が聞こえる。
いつもの日常と目の前の出来事がなかなかつながらなくて、でも、少しずつ、つながった。
日常から、惨劇へ。
昨日まで否さっきまで穏やかに笑っていた姉が、自ら飛び降りた、と……鈍い頭で目の前の出来事をようやくまとまり、理解が追いついた瞬間


「う”あああああああ”あ”……!?ねえさんっ、ねえさあ”あ”あ”あ”ん”!!!!」


叫んだ。喉が潰れてしまうほどに、いっそ潰れてしまえばいいと思いながら。
ぶつっと音を立てて意識がおちて、ここで記憶が途切れている。


気付けば目に入ったのは泣き崩れる母と虚ろな目で脱力した父。
そして、黒い額の中の悲しいほどに記憶通りの優しい笑顔を浮かべた、写真の中の姉さんの姿。

両親がいて、僕がいて、隣に姉さんがいるはずの、穏やかで当たり前の日常。
姉さんを失ってしまったことで、今後一生そんな日々が来ることはないのだと理解したのは姉さんの葬式が終わってからのことだった。


姉の自殺の理由。

姉の担任、姉の所属していた陸上部顧問を含めた教師の複数人による、パワハラとセクハラを苦の末のことだった。
今ほどパワハラなどが重要視されていたわけではなかった時代だったためマスコミに騒がられることが無かった。
姉の自殺の理由が全国に伝わらないことは不幸だったと思うけれど、ただでさえ姉を失って疲弊しているなかでいい画を撮ろうとマスコミに執拗に追いかけ回されることも、知らぬ人から身内は苦しんでいることに気が付かなかったのかと責められることがないのは幸いなのかもしれない。
日記には事細かに姉が受けてきたことが書かれており、見ていて吐き気を催すほどだった。
学校側は教師たちを守ろうとしたのかそんな事実は無いと押し通そうとしたが、全国には伝わらなくとも地元には充分に伝わっており、地元民には白い目で見られて生徒たちの親はそんな教師たちがいる学校に生徒は預けられないと転校や編入させる親が続出。
やっと教師たちは解雇となったが、教師のせいで自殺させた生徒がいるにも関わらずそんな非道な教師を残そうとしあまつさえ事実無根と推そうとしたという悪行はいつまでも消えることなく、そんな学校に生徒を入れさせるような親はあまりいないだろう、いつの間にか閉校となっていた。

外ではそうして色んなことが起こっていたけれど、すべて、僕からすると、もうどうでもいい話だった。
だって、どうしたって、何をしても、姉はもう帰ってくることはないのだから。
どうして気付けなかったんだろう、どうして止められなかったのだろう。
姉は苦しんでいたのに、僕はなにも知らなかった。
日記を読むまで僕含めた家族は姉の異変に気付かなかった。
姉が隠すのが上手かったのか僕達家族がただ鈍かったのか、今ではわからない、どうでもいい。

大事な姉を失った。

残ったのは残酷な事実だけ。
声を聞けない、姉を呼んでもなにもかえって来ない、あの笑顔を見ることもできない。

後悔は止むことを知らない。

その後、僕がひきこもりなるまでそう時間はかからなかった。
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