3章『やらない善意よりやる偽善。』

携帯電話と念のため財布だけを持って職員室を出て、どこへ行こうかと少し考えて、とりあえず自分が受け持っている1年生の階の様子をまず見に行こうと階段を登ることにする。

この学校では1年生が3階にあって下っていく事に上級生クラスとなっている。
職員室は1階、一般的な公立高校には勿論エレベーターなんてものは無い、毎日上り下りしないとならない階段。朝は少し余裕を持たないと先生なのに本鈴に間に合わなくなってなってしまう、そうなると教師として示しがつかないので、可能な限り間に合うように頑張っている。
誰もいないのを良いことにほとんど走っているに近い状態のときもあったり……それを見た生徒が五十嵐先生に密告して笑われたこともあったなぁ……、五十嵐先生声が大きいから1年生のほとんどにバレちゃっているんだよね……、お恥ずかしい。
生徒を先導する教師としてちゃんとしなきゃ、と思っているけれど、五十嵐先生は僕のことを笑っても怒らないし、むしろそういうところ良いと思うぞ!とまで言ってくれちゃうからつい甘くなっちゃって、なかなか直せずにいる。
ううん、間の抜けた先生と思われていないか心配ではあるものの、それで打ち解けられている生徒もいるから僕の欠点は気にしてもそこまで躍起になってまで直さずにいてもいいか、とも思っているところだから当分は直らないだろうなぁ。

そうこうと考えている間に3階に辿り着く。
この学校に赴任したのは去年の秋頃だった、国語の担当教師が急遽家庭に事情だとか辞めることになった際臨時教師としてやってきたけれど案外生徒受けや評価が良かったようで、そのまま正式に水咲高校の国語担当教師として採用してもらえることになった。
前の学校のことがあって気分が滅入って今後は地道に臨時や期間限定として就いてみて今後教師としてやっていくか否かを考えていたところだったので、迷いに迷ったけれど、僕は『なりたい大人』になるためにはここで辞退してはいけないと考え、謹んでお受けすることにしたんだ。
まさか早速担任を受け持つことになるとはちょっと予想外ではあったけれど、前職から引き続いての経験者だったので納得もした。
来月でここにやってきてからもう1年になるのかと思うと少し感慨深い、最初はしんどかった1階から3階へ上る階段も今ではすっかり慣れたものだ。
廊下を歩いているとふと窓越しの空が目についた。
昨日の夕方に今日は朝からずっとどんよりと曇っていた、昨日自分は用事もあって17時には学校を出ていたため雨の影響は無かったが、どうやら放課後夢中で練習していたらしい一ノ瀬くんは間に合わず雨に打たれてしまったようだった。二人三脚の相方である細山くんはギリギリで駅に着いていて難を逃れたようだけれど、忘れ物を取りに行った一ノ瀬くんは間に合わなかったようだ。伊藤くんが言うには昨日よりは熱は下がっていたと言っていた、このまま回復してくれると良いんだけど……。
明日の予報では曇っているけれど雨は振らないと言っていたけれど、このどんより具合はどうなんだろうか……昨日も天気予報では雨が降るなんて言っていなかったので少し不信になる。
今にも降り出してきそうだなぁ……。
窓をあけて、頭を突き出して窓越しではなく裸眼で空を眺める。
夏休みは明けたもののまだまだ残暑が厳しい、生ぬるい風が頬にあたる、不愉快とまではいかなくとも気持ちのいいものではない。
予報では雨が降らないと言っていたので洗濯物を干してきてしまったが、昨日のこともあってここまでどんよりしていると不安になってくる。
校庭のほうを見てもやっぱりというべきか残っている生徒は見当たらない。精々部活動をしている生徒が体育館にいるぐらいかな?

「洗濯物間に合うかな。」

降り出して来そうな気配に自宅のベランダに干してある衣類が帰るまで無事か不安になりながら窓を閉めて、1年の教室を流し見しようとしたところで前方からペタペタと軽やかな足音が聞こえてきた。教師にしては軽い足音、背は伸びても完成されていないこれからまだまだ成長を大いに感じる身体を持っている生徒の足音だろうと想像出来た。
こんな時間まで残っているなんて、誰だろう?
音のする方向を見ると、そこには想像していなかった人物で少し驚いてしまった。
彼と目が合う、彼は立ち止まった。
黒だと思っていた瞳の色は正面からよくよく見てみると深い紫色をしていた、誰からも聞いたこと無かったけれどどこか異国の血が入っているのかな?
いつも少し遠くからしか彼を見たことが無かったから知らなかった、五十嵐先生や吉田くんなら知っているのだろう。
目の前の彼は僕と目が合って立ち止まったものの、その表情は僕のことを快く思っている、とはお世辞にも思えなかった。あからさまな彼に苦笑したくなるのをぐっと抑えた。
いつもの作った笑顔よりは、こうして年相応に素直に眉を顰めて不信だと遠慮なく訴えてくる瞳で見てくれたほうが教師として安堵するべきだとも思った。
見るからに機嫌が悪そうで話しかけてくるなという空気を出している彼に構わず、いつもどおりの笑顔でいつも生徒に接するときと同じ声音で話しかけた。

「梶井くん、まだ残っていたの?」

目の前にいたのはまだ暑いのに少し大きめの淡い色のカーディガンを指定のワイシャツの上から身につけている梶井くん。
ここ最近学校にも来ていなかったようで最後に国語の授業で梶井くんが出席を取ったのはいつだったのかちょっと考えないと思い出せないほど前のことだ。このままでは出席日数が足りないと思うけれど、大丈夫なのだろうか?そんなことを思いながら問いかけてみた。
僕のことを無視してそのまま通り過ぎてしまうかもしれないな、とそんな可能性が過ったけれど、気にしないことにした。

「……担任に説教されてきたー。べっつにおれの意思でのこってたわけじゃなーい。」
「ああ、五十嵐先生に……それはお疲れ様。」

ムスッとした顔をしたままだけど、無視はされず質問に答えてくれた。
それにホッとしながら梶井くんのクラスの担任が五十嵐先生であることに気づいていたわりの言葉を投げかける。
五十嵐先生は授業中でも構わず声が大きくてにぎやかだから破茶滅茶な印象を与えられ、しかもお固めの行事以外いつもジャージなので体育教師と良く勘違いされるのだが、やはり理数系のようでおおらかなため生徒への説教は滅多に無い五十嵐先生だが、あの梶井くんの起こした事件で伊藤くんを殴った上級生への説教が、すごかった。
いつもの大声が嘘のように静かで淡々としていて一ノ瀬くん以上の無表情で今後どのような処分になるのか退学になったその後のことを説明しだしたのである。
普段の溌剌さが嘘のようで、どれほど親御さんへ迷惑をかけるのかのところで生徒たちが泣き出しても容赦無かった。
五十嵐先生が本気で切れるとどれだけ恐ろしいのか痛感した瞬間だった。
最近学校に来なかった梶井くんにどんな説教したのか見ていないから知らないけれど、酷く疲れている様子の梶井くんを見ると容赦のない説教だったのだろうとかんたんに予想できた、だからこそ労った。特に他意はなく、ただ単に大変だったことへ同意を示しただけのつもりだった。けれど梶井くんから僕の言葉は気に障る別のものと取られてしまったようで、

「……ふぅーん?おれへの好感度上げ?あは〜、無駄な苦労だね!そちらこそおつかれさま!」

先程の何倍も棘のある言葉で返されてしまった。
さっきまでと同じようにゆるい話し方にも関わらず、妙な圧を感じさせるような口調だった。
正確に言うのならば、さっきまでの梶井くんこそ僕には見慣れない姿であり、今の誰のことも拒絶する笑顔とわざとらしく人を小馬鹿にするような口調で話す梶井くんこそが僕がよく見ていた梶井くんの姿だけれども。
それでも突然の豹変に驚いてしまった思わず「梶井くん?」と呼びかけたけれど、当然のように黙殺され梶井くんの言葉が続いた。
ゆっくりと三日月型にした唇が言葉を紡いだのが、スローモーションに見えた。
紡がれていく言葉に目を限界まで見開いた。

「あんたさ、自分の姉貴が教師のせいで自殺しているのによく教師を目指したよねぇ?
他の生徒たちと同じように俺なんかにもお優しく出来るあんたってすごいなあと思うよ?
まー俺からすると迷惑なんだけどねー。」

いつもどおりのゆるい話し方をする梶井くん、僕でもに吐き出された言葉は全然ゆるいものではなかった。
ピシ、身体が石になったかのように自分の身体が固まった。
一瞬梶井くんに何を言われたのか分からなくて、少し間をおいて漸く言われたことをじわじわと理解してザァと血の気が引いた。
誰にも言っていなかったはずのことを、言われたくなかった知られたくなかったことを的確についてきた梶井くんを呆然とした気持ちで見つめる。

無理矢理に細められたその垂れ目のなかにある紫色の瞳がどろりとした、暗い何かが混じったように見えた。
このときの僕はパニックで、梶井くんのことを気にしている余裕は無かったけれど。
まず思ったのが、どこでそれを知ったのか、という疑問、そして段々と嫌に心臓が脈打つ音が妙に鼓膜を伝ってくる気持ち悪さが襲ってくる。息はきっと乱れている。
知られていなかったはずのことを前触れもなく突然暴かれるというのは、こんなにも空虚で絶望的な気持ちになるものなのか。

梶井くんはそんな僕を見てにっこりとわらう。

どんな感情で笑っていたのかは、正面だって見ていたはずの僕にも分からない。
とりあえず純粋な笑顔ではなく、かと言って僕の弱点を付いたことへの満足感から来るような邪悪な笑顔でも無かった、と思う。

でも、何故か、その笑顔を見ると、胸がざわついて仕方がなかった。
57/58ページ
スキ