3章『やらない善意よりやる偽善。』


(一ノ瀬くん、大丈夫かな?)

朝、一ノ瀬くんが昨日の雨にうたれたせいで熱が出たから休むことを伊藤くんから聞かされたときは驚いてしまった。まさか本人からの連絡ではなく、職員室で伊藤くんから聞くとは思っていなかった。
いや、伊藤くんが一ノ瀬くんの全部を知っていると言われても驚かないぐらいには仲が良いことは分かっているけれどね……。
今伊藤くんがお世話になっている人の家一ノ瀬くんが休んでいると言われたときは、納得すべきか驚くべきかちょっと悩んだ。
一ノ瀬くんが一人暮らししていることも、伊藤くんが実家から離れて血の繋がっている家族とではなく縁もゆかりもない人の家で1年の殆どを暮らしている、というのを剛田さんと言う伊藤くんの居候先の主人であると名乗る男性から電話がかかってきて伊藤くんの事情を教えてくれた。
伊藤くんの家庭の事情を詳しくは聞かなかったけれど、親元を離れ暮らすなんて普通ではありえないことだ。本来ならば子どもは然るべき場所にいるべきで、教師という立場上ちゃんとご両親から事情を聞かねばならない。……だけど、僕は何しなかった、否どうするべきかは悩んだ、何か家庭内に問題があるのならそれを解決にまでは導けなくとも緒を掴むのも教師の仕事だと思っているから。
『頼む、鈴芽に何かあったのなら俺が責任を取るから。あなたに連絡したことも鈴芽には言わないでほしい、あの子には幸せになってもらいたい、だが今あの子どうあがいても幸せにはなれない、それならせめて守ってあげたいんだ。人の親を悪く言うのもあれなのだが、鈴芽の実親では守ることも出来ない、むしろ傷付けていくだろう。だから、どうか』

『頼む、お願いします。お願いします。』

それは、もはや懇願だった。
電話越しの声は僕のものよりも低くて威圧的に感じてしまう、が、その声が発する言葉は鈴芽くんの幸せを心から願う、優しく鈴芽くんを本当に大切にしている人の声だったから。

「わかりました。」

気付けば、そう頷いていた。
その電話から1週間後、伊藤くんはあの暴力事件を起こした。
当時はまだまさか梶井くんが真犯人だなんて誰も思っていなかったから、外見で悪く見られてしまった伊藤くんが全て悪い、すべての責任を彼に取らせよう、退学にさせようと結論付けそうになった、何とか僕と五十嵐先生があらがって何とか停学という形で収まった。
勿論剛田さんに連絡を入れたが、さすがに実の家族に何も連絡しないのも……思い一報入れてみたけれど。
『やっぱりあの子は駄目ねえ。』
母親らしき人が出て事情を説明をして、反応はこれ。
それだけ。どこか、あざ笑っているような、伊藤くんを下に見ているかのような、そんな発言だった、信じられない気持ちでいっぱいで何も言えずにいた僕に構わず女性は『適当に処理しておいてください。では』と、そのまま電話は切られ、ツーツーと無機質な音だけが流れるのを呆然とした気持ちできいていた。
状況が理解できなかった、信じられない言葉をきいた、あんな、自分が腹を痛めて生んだ子であるはずの伊藤くんに対して何の興味が無さそうな女性の態度が。
血の繋がりも無いという剛田さんのほうがよっぽど伊藤くんのことを想ってくれている。
剛田さんとも伊藤くんの家族にも会ってはいないものの、電話の対応だけでよく分かった。
ご両親に、彼のことを相談しても無駄だろうと察することが出来た。
伊藤くんのことについて相談は剛田さん、ご両親には事後報告するだけにしようと決めた。
他の先生方にはこのことは言わないでいる、1番信用している五十嵐先生にも、だ。
どこから情報が漏れてしまうのか分からないからだ。最悪生徒の耳に届いてしまうかもしれない。
可能な限り不安要素は消しておいた方がいい。
……少し話が逸れてしまったけれど、伊藤くんのことを考えてくれている剛田さんの家に一ノ瀬くんが今いる、一ノ瀬くんが転校してきてから伊藤くんは良い方に変わって全てにおいて興味も欠片もない表情を浮かべていたのが嘘のように、生き生きとしていて、すごく楽しそうにしているし、事件が起こる前から学校に来たり来なかったりを繰り返していたのに今では毎日来ている。
……本当は、今日もきっと一ノ瀬くんから離れたくなかったんだろうね、あのときの伊藤くんみたい、とまではいかなくともいつも隣にいる一ノ瀬くんがいないのが寂しいのか少しつまらなさそうな表情をしていた。
今日の放課後は叶野くんと一緒に帰っていたのをみかけた。叶野くんは前から伊藤くんに気遣ってくれて、でも周りの子たちと同じように別け隔てなくて朗らかな優しい子だ。
前まではそのいつも笑顔でクラスの子たちと楽しそうにしながらも周囲を見て発言しているところあったから、ちょっと無理しているんじゃないかと心配もしていたけれど、小室くんの件を超えて今では肩の力が抜けたように見える、まるで怯えているかのように周囲に気遣いすぎるところがあったけれど今では人を傷付けない範囲で結構自分の意見言っているように見えた。鷲尾くんも勉強ばかりしていて周囲とのコミュニケーションを疎かにして、切羽詰まっていつも肩に力を入れながら机に張り付いていたのが、叶野くんと一ノ瀬くん中心にクラスメイトとの輪も広がってきている、クラスメイトと話している鷲尾くんの言葉遣いは硬くて真っ直ぐでざっくりと無自覚に人の痛いところを遠慮なく付いてくるのは変わらないものの、雰囲気が柔らかくなった、ように見える。
一ノ瀬くんは、すごい子だ。
誰もが振り返るほどの美形でスタイルが良くて頭も良くて運動も出来るのも、すごいことなんだけれど……。
一ノ瀬くんの本当にすごいところは、春先の日向のような包み込むような穏やかさと真っ直ぐで曲がったことが許せない男らしさが兼ね備えているところだと思う。
その起伏の少ない表情と言葉少ないところで見えにくくなりやすいけれど、彼は人のことをよく見ている、誰かを傷つけることを良しとせず誰かを悪く言うこともなく規則も基本的に守ろうとしていて制服を崩す子が多い中彼は第一ボタンまでちゃんと閉ざされている。僕の言うことにも反論もせず静かに頷いて返すような子でもあるけれど、まだ学校がある中鷲尾くんが飛び出してしまったのを真っ先に追いかけていくような子でもある。
規則は守るけれど、いざとなったらそれも一蹴出来てしまえる子だ。小室くんのような所謂不良とも呼ばれる彼らに対しても物怖じすること無く拒絶の意を言える強さもある。
裏表のない彼を信用する人はきっと今後も後を絶たないと勝手に想像している、そんな彼がその剛田さんと言う人の元にいるぐらいだからきっと信用できる人、と思って間違いは無いとは分かっているけれど。
ただ単に僕のほうが彼らよりも長く生きているだけで、別に偉ぶったりするわけではないけれど……伊藤くんや湖越くんに至っては僕なんかよりも肉体は完成されているし一ノ瀬くんのほうがきっと精神的に強いとも思えるけれど、やっぱり僕は彼らの担任であるわけで、守るべき生徒であるわけでして。
やっぱり、血縁関係なにもない大人の男性の家に男子高校生二人入り浸っている、と言われてしまうと先生としては心配なので、

(……今度、家庭訪問してみようか……)

今日一ノ瀬くんのお休みを報告してくれた伊藤くんにそのまま何気なく剛田さんのことを聞いてみたけれど
『いつもどおりちょっと変っすけど、それは通常運転なんでもう透も気にしていないっすよ。叶野や鷲尾も普通に話してたし。』とのこと。
うん、叶野くんたちも面識あるんだね!
今度失礼にならない程度に様子見することにしよう!先生決めました!!

勿論彼らの審美眼を疑っているわけじゃない、決して無い、人のことを見る眼は確かだと思う、けれど未成年が誰とも親戚でもない成人男性と関わっていると聞いてさすがに笑って流せないんです、そこまで僕は柔軟でも豪胆でもないんだよ……!
というかちょっと変ってなに!?伊藤くんの説明ざっくりしすぎだし『もう気にしていない』ってことは前は気にしてたってことだよね!?どんな人なの、剛田さん!!

まさかその剛田さんという人間が筋肉隆々でありいつも金とかピンクとかのウィッグを付けてフリルがふんだんにあしらわれている洋服を来ていて自分のことを『みっちぃ』と呼んでほしいとダミ声で言ってくるような人なのだと教えてくれる人はいない、いたらこのときの自分は卒倒してしまうだろう。
職員室には数人しかおらず自分の周囲には誰もいないのを良いことに好きなだけ頭を抱えて悶えて、ふとデスクに置いたいる小さな時計を見た。
(……見回り、してこようかな)
16時半になる直前だった。
一応今日も放課後残って体育祭の練習をしていても良い日だが、それ以外の生徒は委員会などの用事がなければ帰るように、と言われている。とはいえ、強制力は殆どない。見回りも別にやれとも言われていない。なので自分のいうこの『見回り』はただの自己満足である。
自己満足だと開き直った上で気分転換を兼ねた、見回りという名の校内散歩をしようと立ち上がった。

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