3章『やらない善意よりやる偽善。』



「透ちゃん!透ちゃんっ、起きて!」
「、?……ハッ!ハァハァカハッ!」
「落ち着いて、だいじょうぶ、だいじょうぶよん。」

名前を呼ばれてハッと気付けば、目の前には桐渓さんの姿はなく、その代わり視界いっぱいに広がったのは金のウィッグを着けた中年男性……ゴンさんだった。
状況を把握する前に喉が圧迫される感覚が苦しくて咳き込んでしまう。
少し力が強かったけれど、俺の腕を掴んで起き上がらせて背中を擦ってくれる、朝にも伊藤にやってもらったな……。
水の入ったコップを手渡されたので苦しさを紛らせたいのと喉の乾きもあってそれをぐいっと注がれている分だけ飲み干して、しばらくそのまま背中を擦られ続けると、浅いながらも呼吸が安定してくる。

「ひゅ、はあ、ふ、はあ……、」
「大丈夫?そろそろお昼になるし、昨日からろくにご飯食べていないからお腹空いたかなぁと思っておかゆ持ってきたよん。食べられるかしらん?」
「……は、い」

問われて理解出来ずにとりあえず頷いたけれど、目の前に出来たての温かくて美味しそうなおかゆを目の前にしてぐぅとお腹がなった。
ゆっくりと熱々のおかゆを冷ましつつ食べながら状況を整理する。
ここは学校でもなんでもなく伊藤の部屋で、桐渓さんはいるはずのないところだ。今近くにいるのはゴンさん。俺は伊藤の布団の中にいて今おかゆを食べている。
……なんで、俺はここにいるんだっけか。
首を傾げて記憶を探る、昨日、きのう……そうだ、俺、伊藤に引っ張られるままに家に来て、何とか風呂に入って着替えて……そうか、朝伊藤が言ってたな。改札を出た頃には俺はずぶ濡れだったって。
昨日は細山と放課後二人三脚の練習してて、伊藤には先に帰るように言ったんだ。
漸く伊藤に言われたことと記憶と噛み合ってきた。
朝はしんどくて起き上がるのもすごく辛くて、頭もぼーっとしていたから、ただ伊藤の低くて落ち着く声を聞いていただけだった。それでも一応聞いたことは頭の片隅に記憶は残っていたようで、ちゃんと朝に言われたことは思い出せた。
……なにか、まだ忘れていることがあるような気がするけれど、掘り起こそうとしたところでいつのまにかお椀に入っていたおかゆは無くなっていた。

「あら、よく食べたわねぇ!この分なら明日学校行けそうねぇ!」
「……おいしかった、です。」

朝飲んだものと同じであろう薬を手渡されながら、ぺこりと頭を下げる。
元々お世話されていたのに、さらにお世話になってしまった。
申し訳ない、と思うのに気遣われて心配されるのはこそばゆくて、少し嬉しい。
伊藤もゴンさんも心配してくれるのに喜んでいるなんて何事かと自分を叱咤しながら薬を飲む。
少しだるいけれど朝よりも気分が良い、きっとゴンさんの言う通り明日には学校に行けそうだ。
細山に申し訳ないことをしてしまった、昨日の今日で休んでしまった。タイミングが悪かった、そういえば昨日細山は大丈夫だっただろうか、俺のように濡れ鼠になって風邪をひいていなければいいのだが……、上体を起こしたまんま色々考えながらふと顔を上げると、何か言いたげなゴンさんとバチッと目が合った。
ゴンさんは少し気まずげに目をそらした後、もう一度視線を合わせて「言いたくないのなら言わなくてもいいのだけど……」と前置きして問われた。

「あのねぇ……さっき透ちゃん魘されていたんだけど……なにか夢見てたの?やめて、とずっと言ってたのよ。」
と。
一瞬何のことか分からなかった。けれど、そういえば自分は眠っていたところつい先程ゴンさんに起こされたのだ、と。そうか魘されていたから、起こしてくれたのか。
そして夢のことを思い出す。
トイレで桐渓さんに捕まって壁に押し付けられて首を舐められ服の中に手を突っ込まれた……夢。
……否、夢ではない。
すぐに否定した。朝に比べてすっかり落ち着きを取り戻した頭は冷静に記憶を整理する。
熱のある身体と頭で夢の記憶と現実を繋げる。
現実に起きたことだ、実際に起きたことと夢の中のことは、差異はあれど、そもそも夢というのは記憶の整頓しているときに見せられるもの、ごちゃまぜになるのはおかしくはない。夢から覚めてもすぐに思い出せるぐらい鮮明な記憶。きっと、消えることのない記憶。舐められた首を庇うように手を置いた。今も思い出せる、蚯蚓が這うような、感覚……。
俺は……昨日、帰ろうとして靴を履き替えたときに俺は忘れ物したことを思い出して、それを取りに行こうと思って昇降口で細山と別れて……トイレを通りすがったところで桐渓さんに引きずり込まれて……夢でみたことが起こって、押しのけて蹴っ飛ばして、気付けば雨の中を駆け出していた。桐渓さんから、逃げたくて。俺は一ノ瀬透と言えない自分へのもどかしさを吹き飛ばしたくて。
雨に濡れたまま俯いて電車に乗る俺を近くの女子高生がじろじろと迷惑そうな視線が刺さったけれど、滴る水滴を拭うのも億劫で最寄り駅に着くまで誰にもぶつからないように気をつけながらそのまま待った。水に濡れて重くなった制服もそのときは気にならなかった。早く、家に帰りたかった、誰もいないところに行きたかった。俺だけあの空間は誰も俺を傷付けたりしない。一人でさっきあったことを思い出しては苦しむことになってしまうことは何も考えていなかった、とにかく早く、逃げたかった。
重い寒いとかどうでもいい。怖いことから逃げたい、逃げないと決めたのに結局こうして逃げているじゃないかとあざ笑う声も無視した。
改札を出て真っ直ぐに家に帰ろうとした、傘を買うという発想はなかった。油断すると恐怖から崩れてしまいそうになる脚を動かすことに必死だった。ひとりで怖いことから耐えようとした。だから、

『透っ』
だから、雑踏の中で聞こえたその声が聞こえてどれほど衝撃的だったか。俺よりも先に帰っていてまさかここにいるとは思っていなかった、聞き間違いか、真っ直ぐにそんな疑問が生まれる。聞き間違いだとするときっと俺は立ち直れない、何とか踏ん張っていた脚が崩れてしまいそうで顔を上げられなかった。

『い、とう』

だから、目の前に来てくれた伊藤の姿に安心して、やっと俯いていた顔を上げて名前を呼ぶことが出来た。ひどく、安心した。雨が入ったとかではなく視界が歪みそうになった。
暴力的に押さえつけられていたすっかり冷えて汚れた右手を、伊藤のその温かい手が触れてくれたおかげで美しくて綺麗なものへとなれた気がした。すぐに切断したかった右手を大事にしたくなった。
躊躇う俺をそのまま引っ張ってくれた心強さは、説明しようがない。多分、俺は泣いてた。雨でもない、冷たくない暖かな水が頬を伝っていたように思う。

その後の記憶は抜けている。気付いたら朝になっていてゴンさんの家にいて伊藤の布団にくるまっていた。
朝伊藤が説明してくれた限り、風呂にはちゃんと自分の意思で入れていたようだ、記憶が飛んでいる使い物にならないときにも毎日の習慣は忘れていないようで一安心だ。


「……こわい夢を、見ました。
けれど、大丈夫、です。俺には、伊藤もゴンさんもいるので。」

桐渓さんのことを思い出すと手が勝手に震える。
震える手と手を支えながら、心配してくれるゴンさんにそう言った。
怖い、俺を通して灯吏さんを見ている桐渓さんが、俺に暴力をふるおうとする大人が。
連動するかのように思い出したのは、記憶を失って間もなく無感情になりきっていたあの日々に親戚と名乗る男性が大きな掌全てを使って服越しではあったが、自分の胴や太ももを無遠慮に撫で回す感覚。
完成には程遠い自分の未成熟の身体を、血管が浮き出た大きな大人の手が這うのを当時は他人事のように見ていた。今の俺には、それが悍ましいものであの親戚の男は異常であることが分かった、分かってしまったからこそ当時よく分からなかったものが、恐ろしいものだと脅えてしまいそうになる。
今はその男は遠く離れたところにいるし、桐渓さんもこの場にはいない。
けれどあの身体を這う感覚を思い出すと勝手に身体が震える。
でも、今はゴンさんの家にいて、俺のことを信じてくれて助けてくれる伊藤がいてくれる。
二人は俺を傷付けたりしない、むしろ温かいものを与えてくれた。
それだけで、俺は大丈夫。そう自分に言い聞かせるようにゴンさんに答えた。
夢の内容は話したくなかった。
こんな話をして気分を悪くさせたくなかったから、何も言わないことを選んだ。
強がる俺に、ゴンさんはくしゃっと笑う。目尻に深い笑い皺が出来ていた、きっとゴンさんはスキンケアがどうこう言うかもしれないけど、俺はその皺を見ると安心する。
ゴンさんの男らしい笑みにほっと力を抜いていると、ゴンさんの大きくて力強い手が俺の頭に乗った。

「透ちゃんは、がんばってるわね。えらいわねぇ。」
「っ」
「すずめちゃんと同じぐらい、あなたにも幸せになってほしいわん。」

ガシガシ、と音が出そうなほど荒くて少し痛いぐらいに撫でられているのに、ぶたれたり蹴られたりの暴力を振るわれたときの手はもちろんのことだが、不快感はあるものの痛みなく自身の身体を這わせてくる大人の手よりも、穏やかに感じて安堵を覚えるのは、何故だろう。
宥めるように、でも心の底から伊藤と俺の幸せを願ってくれる言葉をくれたのが、嬉しくて、思わず視界が潤む。
昨日に引き続き涙腺が弱くなってしまっている。
涙目になっている俺に、ゴンさんは何も言わず軽く俺の肩を押す。
押されるがままに、布団の上に転がった。

「このまま眠っちゃなさいな。今の透ちゃんに必要なのは休息よん!」
俺の肩を押した手は布団をかけた後そのままポンポン、と軽く掛け布団越しに胸あたりを叩いて、先程まで俺の頭を撫でていた手も気が付いたら移動していて、俺の視界を遮ってきた、真っ暗になって何も見えない。けれど不思議と怖くなかった。
誰がこうして塞いできているのか分かっているからか、俺の胸辺り規則的にぽんぽんと優しい手つきで叩いているからだろうか。
とろり、と自然と瞼を閉ざし、ゆるゆると意識が心地よく解けそれに比例するかのように身体が重くなるのを感じる、それに抗うことなく身を任す。

次、起きたらそこに伊藤がいるといいな、と思ったのを最後に夢も見ないほどの穏やかな眠りに落ちた。
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