3章『やらない善意よりやる偽善。』

意識が浮上してきて、妙に重たくて開きにくい瞼をなんとか開けた。
目を開けたと同時に襲うのは喉の引き攣った痛みが走り、反射的に口を抑えれば咳が出た。

「ケホ、ゲホ……ゴホッ!、はぁ……ハァ……?」

咳が落ち着いて周りを見ると、ここが自分の家ではないことに気付く。
ただ見知らぬ場所ではないとぼんやりとしている意識でもしっかり分かるほどには馴染みになりつつある場所だった。
少し散らかっている、CDや漫画が布団近くに引き出しに仕舞われず床に適当に置かれていて、壁にはお気に入りらしい黒い革のジャケットがハンガーにかけられている、夏休み中よく入り浸っていた伊藤の部屋だ。
安堵こそしても不安に思う必要はない、伊藤はこの場にはいなかったが、彼の普段使っている柔軟剤の匂いと布団に染み付いたたぶん伊藤の匂いが混じった匂いに落ち着きさえする。
けれど、不安はなくとも安堵とともに疑問は覚える。

(何故俺はここにいるのだろう?)

寝惚けているせいか頭が働かない、今何時なのかとかそんな疑問も持たずにその疑問を抱えたままとりあえずは起き上がろうとする、が。

「……、」

まずは上体を起こそう、いつも通り腹筋の力だけで起き上がろうとするが上手くいかない。
腹筋どころか身体中の力が入っていかないのだ、ゴロリとその場で転がり仰向け体勢からうつ伏せの体勢へと変えて、腕の力を使って起き上がろうと試みたのだが。

「、……く、ぅ……」

身体中の力が入らないのだから、上半身の体重を腕だけで支えるのは無理だと普段の俺なら分かることが、今の俺には分かっておらず、しばらく起き上がろうとしては力が抜けて枕に突っ伏すという行為を部屋の扉が開いた音が聞こえてくるまで繰り返し行っていた。

「あ、透!起きたか、良かった。」
「……いと、ぅ”ッけほっ!」

入ってきたのは勿論この部屋の持ち主である伊藤だった。
見知った顔を見て反射的の名前を呼ぼうとすれば、せり上がってくる喉の圧迫に耐えきれずにまた咳き込んでしまう。

「大丈夫か?ほら、水。」

枕に顔を置いて咳の止まらず、落ち着き無く跳ねる背中をぽんぽんと撫でながら水の入ったコップを渡してくれる。それを遠慮なく口をつけて飲み込んだ。
熱い身体の内部が冷たいものが通っていく感覚が変な感じだけど心地よくて、コップから口を離すころには伊藤が労るようにずっと背中を叩いてくれるのもあって、だいぶ落ち着いた。

「ぷはっ!ハァ、ハッ……、」
「少しは落ち着いたか、ほら、まだ横になってろよ。」
「ん、」

伊藤に誘導されるがまま、また俺は布団の中に潜り込んだ。
身体が酷くだるくて熱いのに寒くて、今起き上がって水を飲んだだけで疲れてしんどかった、伊藤に横になっていていいと言われたからさっきまでは起き上がろうとしていたのにそれならいっか、と思えた。

「体温測っとけ。」
「ん……。」

ひゅうひゅうと浅い息を繰り返しながらも、ピッとスイッチを押して起動させた体温計を手渡され、それを脇に挟んだ。
伊藤の姿が見えたことや水を飲めたりして落ち着きを取り戻し、言われるがままに布団の中で寝転んで体温計を測定するまでの時間は、ぼぅっとする頭だけどいつもの平静を取り戻せるのには十分だった。
ピピピ、熱を測り終えた無機質な音が聞こえてゆっくりと体温計を取り出して自分の体温を見た。
『37.8』と書かれている画面を伊藤にそのまま手渡した。普段の体温よりも2度も高い。熱いわけだ、納得する。
「雨に濡れたせいだろうな……完全に風邪だな。でも昨日より少し下がってんな。今日は学校休んどけ。」
「ん。」
せっかく初めての体育祭で期間も短いのに、と悔しい気持ちになったけれどこのまま学校に行っては周りに迷惑がかかってしまうので伊藤の言葉に大人しく頷いた。
表情に出したつもりは無かったけれど、俺の気持ちを理解したのか良い子とでも言うように頭を撫でられる。
熱のせいだろうか、涙腺がおかしくなっていて伊藤に頭を撫でられるのは嬉しくて気持ちいいのに、何故か涙が出そうになった。このままでは泣いてしまいそうで、気を紛らわせようとするついでに聞きたいことを聞こうと掠れてしまう声で口を開く。

「……おれ、なんで、ここに……」
「昨日のこと覚えてないのか?」
「……うん。」

伊藤をとく見ると既に着替えていて、銀色のドクロの入ったバックルが付いたベルトを制服のズボンに纏い、赤い半袖シャツを着ていてあとはその上にワイシャツを着ればすぐに学校に行ける格好になっていた。
時間は大丈夫だろうか、と思いながらも昨日のことをほとんど覚えていないのも事実で、何がどうなって今俺はここにいるのか熱に浮かされいるせいかどうしても思い出せなくて詳細を聞きたかった。
昨日のことをまさか覚えていないとは思っていなかった伊藤は驚きに目を見開いたあと、すぐにいつも通りの……否いつもよりも心配そうな表情に切り替えた。

「雨降ってたから、透は傘持ってねえだろうって思って駅まで迎えに行ったら、改札から出てきた透はすでにずぶ濡れの状態だったから、そのまま引っ張ってここにつれてきて風呂に突っ込んで、出てきたと思ったら顔が真っ赤で今にもぶっ倒れそうだったから、布団に寝かせたらそのまま眠っちまって……ああ、その間に熱測らせてもらったからな、ちなみに38.4もあったからすっごい焦った。……で、今起きたって感じなんだが……思い出せたか?」
「……おれ、きのう、いと、とかえってない、のか。」
「そこからか、まあいつもは一緒に帰ってるもんな。昨日は透が放課後は細山と二人三脚の練習するから先に帰っててくれって言われたんだが……。」
「……んー……?」

全く記憶にない。
もうすぐ体育祭ってことは覚えてる、あと細山が二人三脚の相手というのも覚えてる、ただ昨日のことが靄がかかっているかのように思い出せず、伊藤に昨日のことをざっくりと説明されても、上手く繋がらない。いつも伊藤と帰っているのに昨日は帰らなかったのか、と真っ先に思ってしまったし聞いてしまった。その理由も説明してくれたけれどさっぱり思い出せない。
要領の得ない俺の相槌に伊藤は苦笑いする。

「、ハァ……ふぅ、」
「大丈夫か?やっぱり俺も学校休むか……。」
「だ、め。いとーは、おれに、気にせず、いってくれ」

苦しげな呼吸を繰り返す俺に、目尻を下げて休もうとするのを拒否する。
俺のために休もうとしてくれるのは嬉しいと思うと同時に申し訳ないので、ちゃんと登校するようにお願いする。水咲高校は良いところだ、俺の分までちゃんと行ってほしい。
伊藤は不服そうだが、渋々頷いてくれた。

「あ”ー、そろそろ行かねえと……後でもいいからりんご剥いてきたから少しでも食べて薬飲んでくれ、空きっ腹は良くねえから。」
「うん」
「何かあったらすぐゴンさん呼べよ?言いにくかったら俺に連絡してくれれば言っておく。」
「ん、」
「他何かあるか?欲しい物とか、してほしいこととか。」
「……せんたくもの」
「あ?」
「きのうから、出しっぱ……。」

改札から出てきた地点で俺はずぶ濡れで伊藤たちの家に引っ張られてきて、そのまま布団に寝かせられたと聞いた、なら昨日干していた洗濯物は出しっぱなしと言うことになる。
どうせ濡れているのだし、風邪が治って家に帰ったときに洗い直しすればいいだけで、いま現時点でしてほしいことと違うだろうといつもの俺なら何も言わなかったこと。
けれど今意識はぼんやりとしていて、正常に働いておらず、伊藤にしてほしいことは何かと問われたので思ったままに口に出していた。そのことに気付かずにぼーっとしながら起き上がる。
このままだと眠ってしまいそうだったので、今伊藤に言われたりんごを食べようとしたのである、やっぱり上手く起き上がれなかったのを伊藤が支えてくれた。

「分かった、ちょっと鍵借りるな?」
「ん……」

何を言われて問われているのかちゃんと理解していなかったけれど、伊藤ならなんでもいっか、ととりあえず頷いた。
伊藤がやったのかゴンさんがやったのかは不明だが、りんごは切られていて皮の部分はウサギの耳のようになっていた。
(あまい)
シャリシャリと音を立てながら優しい甘さを噛みしめる。りんごは美味しい、多分昨日から食べていないので何か食べたい気持ちもある、けれど眠くてだるくて今にも目が閉じてしまいそうになる。
上体は起きたままだけど、このまま眠ってしまいそうな俺の肩をとんとんと軽く叩かれてハッと意識を戻す。

「冷蔵庫に入れておくから後で食べればいい、今は薬飲んで寝ちまえよ。」
「……うん。」
「んじゃ、俺は学校行ってくるな。」
「ん……いってらっしゃい……。」
「……ああ、行ってきます。」

この家の人でもないのに伊藤の布団の中で見送りの言葉を出すなんておかしいということに気づかない俺は、伊藤は照れたように口ももごもごさせていたことにも気付かないままだった。
名残惜しそうにしながら伊藤はそっと部屋から出て行った。
残ったりんごは伊藤とともにいなくなり、残されたのは使い物にならない俺と水の入ったコップに市販の風邪薬。
薬を飲んで寝てろと数度言われたおかげか、飲まなきゃと動かない頭でもそう判断できた。
瓶詰めにされた薬をパッケージの説明通り2錠出して、水とともに流し込む。
ひと仕事終えた、そんな気持ちで遠慮なく伊藤の持ち物である布団に包まってずっと閉じたくて仕方のなかった瞼を抵抗することなく閉ざす。
心地よく落ちていく意識に抗うことなく、そのまま手放した。



ーーーふと気付くと学校のトイレに俺1人だけがポツリと立っていた。
何階のトイレかはわからない、窓の外は明るかった、昼なのか朝なのかまではわからなかったが、トイレも電気が付いていて暗くはない。
ただシン、としていて。
休み時間にしてはあまりにも静かだった。
今は授業中なのだろうか、それなら俺も行かないと。
なんの違和感も覚えず、ただ行かないとなとのんびり思いながらも急がないといけない、とトイレから出ようと足を踏み出した、その瞬間だった。
誰もいなかったはずの背後から気配が突然現れ、トイレから出ていこうとした俺の腕を引っ張られる感覚。

「…!?いッ……!」

無理矢理ぐるん、と力任せに振り向かせて、こちらへに何の配慮もなく壁に押し付けられた。
俺の身体を抑えつけてきたのは、俺よりも少し下の位置にあるのは桐渓さんのような姿をした人。
そして振り返るまでは明るかったはずのトイレと外が、暗くなっていて、驚きに目を見開く。
どういうことなのか分からない俺に構わず、桐渓さんらしき人は俺の首筋に顔を埋め、次いで湿ったものがつたってくる感覚に鳥肌が立つ。
「ひっ」
引き攣った悲鳴を上げる俺に構わず、ついにはその手が俺のワイシャツの中に入り込んできて、気持ち悪くて震え青ざめているであろう俺に構わず肌を確認するように這い回る。
そして、
『灯吏』
桐渓さんの声がそう俺を見て囁く。
ずっと見えなかった桐渓さんの顔がはっきりと映った。
眼は潤んでいて頬を赤らめ心底愛おしいものに向けるような表情で俺を見ながら、俺ではない名前を呼んだ。
それに俺は叫ぶ、否定するために。

「ちがう!俺は、ちがう、父さ……灯吏さんじゃないっ、おれはッ!おれ、は……?」

灯吏さんじゃないと叫びながら、それでも俺は俺自身の『名前』を叫ぶことは出来ない。
だって、俺は『誰でもない』人間だから。
一ノ瀬透という名の器に入った、誰かだから。
戸惑う俺に気にすることなく桐渓さんは行動を再開する。

「いやだ、やだ、やめッ!」

口では拒絶しながら、何故か俺の身体は鎖に縛られたかのように動けなくて、嫌なのに何も出来なくて桐渓さんにされるがままで、怖くて、苦しくて、痛くて、辛くて。
俺は俺だけど俺じゃない、けれどこの行為は受け入れるべきものではないのは分かっているのに、身体の自由が聞かない。
このまま、じゃ、このままじゃ、なにをされているのかよくわからない、だけど、一つだけ分かった。
桐渓さんが気が済むまで彼に任せたままでいては、俺は、もう伊藤の前に立てなくなってしまうということを。
分かってしまった、俺から離れていく伊藤の想像しただけで胸が張り裂けそうになる。改めて拒絶の意志が強くなった。
(やめろやめろはなせおれにさわるなっ!!)
未だ這い回るその手は俺のワイシャツのボタンを全て外し切って、その顔が胸へ降りて行くのを見て、カッと目を見開く。

「やめろぉぉぉぉぉぉ!!!」

ーーー思い切り、桐渓さんを脅えさせる勢いで、そう叫んだ。
もう何も見たくない、目を閉ざしていたため目の前の桐渓さんがどんな表情を浮かべていたのかは分からなかったし、興味も無かった。
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