3章『やらない善意よりやる偽善。』


トイレへと引きずられて乱暴に壁に身体を押し付けられる、背中が壁を打ち痛みに「いっ、」悲鳴に満たない声を上げた。
閉じてしまっていた瞼をあげる、生理的に浮かぶ涙のせいで視界が歪むが、それでも俺をここまで引きずってきたのが誰なのかすぐにわかった。
……そもそも、こんな手荒なことをする人は1人しか思いつかなかった。
見なくても分かる、……桐渓さん。
俺の事を憎み蔑みながら俺自身の事を何一つ見ていないひと。
(、ついに捕まった)
諦めにも似た感情で肩で息をしている桐渓さんを見つめる。このまま永遠に避ける、という訳にはいかないのは理解していた。
最後に会ったのは夏休みの補習、呼び出されたが吉田によって阻止された。
ここのところは連絡も来ていなかったから、少し安心していた。もう俺に接触してこない、と。
けれどそれは俺の願望に過ぎなかった、ついに我慢の限界だったのだろう。
ずっと避け続けられた俺に色々言いたいこともあるだろう、ずっと逃げ続けてきた。向き合わないといけない、そう思いながらも優しい場所へと逃げてきた。

今がそのときだろうか。
桐渓さんと向き合う、そのときになるのだろうか。
けれど心の準備なんて勿論出来ていない、そもそも俺のことなんて見ていない桐渓さんと向き合うことが出来るかどうか……、それでも今が良い機会なのかもしれない。
なんと声をかけようか迷う。


歪んだ視界のままにそんなことを考えていた。
ーーーだから、分からなかった。
荒々しい扱いをされるのはいつも通りで、むしろ壁に押し付けられるぐらいなら転校初日のように床に転がされたときよりもましで、今日はまだ理性的なのだろうかとも思っていた。

俺を見つめるその目が、普段蔑むの感情が多かったのに、今日は飢えた獣の如く熱を帯びた目で俺の首筋を舐めまわすような、視線を向けていたことに気付けなかった。

「?桐渓さ……あッ!?」

少し下にあった桐渓さんの顔が自分の首辺りへと沈んでいくのがゆっくりに見えた。
突然こちらへと傾いた桐渓さん、具合でも悪いのだろうか、俺の言葉に答えてくれるか分からないけれど、呼びかけようとした。けれどその前に思わぬ感覚が訪れ、目を見開いて驚きに声を上げる。
ぬるり、何か濡れたものが首を這う感触。這った後のところが空気に触れてひやりとする。
何が這っているのか、理解してしまった。
俺の首を這う『なにか』は、桐渓さんの舌、だ。まさか、と受け入れがたい事実。
出来れば理解したくなかった、嘘だろ、拒絶したくなるけれど現実逃避したくてもそんな俺を置いていって状況が悪化していく。
プツ、釦を外す音が聞こえて一気に現実味をを帯び、サァーっと血の気が引いたのが自分でも分かった。何をしようとしているのかどうか分からない、けれど自分にとって良くはないことをしようとしているのだけは分かった。

「ヒッ……!やめ、ろ!」

声を荒げる俺に構わず行為は続く。
片手で俺の右手を壁に押し付けられ、何とか声を上げて拒絶の声を出せたけれど、恐怖は隠せていなくて身体と同じように震えていた。怖くはない、なんて虚勢も張ることさえも出来ない俺を抑え込むのなんて桐渓さんからすれば難しいことじゃない。
そもそも未だ混乱から解けずされるがままになっている、意志に反してうまく動かない身体に苛立ちすら覚える……それ以上に恐怖で覆い隠されてしまっているけれど。
未だぬらぬらと湿ったなにかが這ってくる、それがなにかも分かりたくない、ただただ、気持ち悪い、桐渓さんの手が肌に触れてくる、怖い、嫌だ。
外したボタンの隙間からワイシャツの内側に無遠慮に潜り込んできて、ぞわぁっと鳥肌が立つ。
きもちわるい、さわらないで、いやだ。
声を出すこともままならない。
興奮しているのか妙に熱い他人の手が俺の冷えた身体を這うのが、恐ろしくて。
ぽろ、溜まった涙が頬を伝って視界がクリアになった。
それと同時だった。

「灯吏……。」

今まで見たことのない心底愛おしい者を見るような熱に浮かされたかのような、潤んだ瞳の桐渓さんと目が合って、甘く重たい声で『俺』を、そう呼んだのが聞こえたのは。

恐怖に脅えていた俺を、俺という人間を『灯吏』と呼んだ。

呼ばれたのだ。
一瞬『灯吏』が誰なのか分からなかった、けれどすぐに理解した。
俺の父さんの名前。
俺と、よく似た容姿をした、けれど淡い髪色と目をした色合いは似ても似つかない、その人の名前。
この人は、父さんのことを、呼んだ。

ーーーずっと、この人は……俺越しに『灯吏』さんを見ていたんだ。

頭がそう理解したと同時に、カッと突如火が付いたかのように、身体と頭と思考が熱くなった。

「っ俺は!灯吏さんじゃないっ!!」

さっきまでの自分自身の身体が不自由だったのが嘘のようにそう叫んだ。
驚いたかのように目を剥いた桐渓さんに構わず、拘束されていない左手でその肩を突き飛ばして油断していたのか拘束していた右手が解放されて少し距離が開くのをさらに広げようと、その腹を目掛け、蹴り飛ばした。

「ゴホッ!ま、てっ!!」

突然激しく抵抗を始めた上、まさか脚まで来るとは思っていなかった桐渓さんは、訪れた腹を圧迫されたことへの息苦しさと蹴られた痛みに咳き込みながら、手を伸ばしてくる。
その手も振り払って、桐渓さんに背を向けてトイレの扉を勢いよく開けて廊下を走る。
呼び止める声を自分の手で塞いで聞こえないようにしながら、首を振って自分に言い聞かせた。

「俺は、ちがうっ!灯吏さんじゃない、薫さんじゃない、誰でもないっ、おれだ!……おれは、おれ、はぁ……っ〜〜〜!!」

自分が他の誰かではないのだと誰かに言うわけでもなく叫びながら、けれど、自分が『一ノ瀬透』なんだといえなかった。誰に言われているわけじゃない、それでも「俺は一ノ瀬透だ」と堂々と言えなくて、悔しくて、
それ以上に酷く悲しかった。

制汗スプレーのことを意図的に忘れてついには昇降口を飛び出していた。
いつの間にか降り出していた大粒の雨が自分の全身を打ち付け、ずぶ濡れになってしまうのにも関わらず俺は一心不乱に駆け出す。
何もかもから逃げるように。

何かが俺の足に絡んでくる感覚を、振りほどくように。

頬を伝っていたのは、果たして雨粒だけだったのか、俺にも分からなかった。
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