3章『やらない善意よりやる偽善。』


「……ハァー!ハアっかは、ヒュッ……もう無理だあ……!!」
「そうだな、少し暗くなってきたな、もう帰ろうか。お疲れ」

息切れを起こしている細山に声をかけながら結んでいた紐を解いた。
薄暗くなってきた空を見上げる、昼までは晴れていたのに今はどんよりと厚い雲が覆われていて、予報には無かったが今にも雨が降り出しそうだ。
(洗濯物が干しっぱなしだ、まずい……)
昨日から元々真面目に取り組んでくれていた細山がさらにやる気を出してくれたので体調と相談しながら放課後残って二人三脚の練習をしていた、他にもちらほら練習していた人もいたが、すでに俺らだけ。学校の外側にある大きな時計に目を向ければ時刻は現在17時半、18時までに学校からいなくならないといけないと言われていた、膝に手を置き肩で息している細山には申し訳ないが、急がないと。
「細山、もう17時半だ」
「えっ!うわぁ、本当だ……しかも雨降りそう、急いで戻ろう!」
時間と空を見比べてやばい!と表情で訴えてきた。
急かされるままに流石に全力で走ることは出来るほどの体力は無いので、気持ち小走りで細山とともに教室へ戻った。
急いで着替えるため靴を履き替えて校内に入って廊下も音を立てない程度に、階段も転ばない程度に、足を動かした。
階段を上っていったのを、誰かがじぃっとハーフパンツから覗く、元々日に当たり悪いところではあるがそもそも何故か日に当たっても焼けない体質であるため剥き出しの白いふくらはぎから裏腿まで、舐めるような視線が後ろから俺に向けられていたことに気付くことは出来なかった。


まず汗臭くなった体操着を脱いでカバンから制汗スプレーを取り出して脇の下を中心に上半身に軽くまいてから半袖のカッターシャツに袖を通した。着替える手は止めないままに細山が声をかけてくる。
「一ノ瀬って彼女とかいらないの?」
「……今の今まで必要と思ったことはない、から。」
内心またこの話題か、と少しだけ重い気持ちになった。
学校が始まって何度も質問を受けてきた、うちのクラスでは伊藤のおかげで俺は彼女を作る気がないと伝わったのでされなくなったのだが、通学路で手紙を渡されたり……みんながいる前で直接もされたりしていたためにすっかり全校生徒から注目の的、今も鞄の中には女の子から渡された手紙が入ってる、しかもこの手紙は増えてきている、今も制汗スプレーを取り出すだけなのに掻き分けないと取り出せなかった。

「女子にモテるのって正直憧れもあったけれど……一ノ瀬を見ていると良いことだけじゃないんだなあと感じる。疲れた表情してるし。」
「……好意を受け取ってそれにどうやって返して良いのか分からない。」
「前も男子校だったんだっけ?小中高一貫の。女子慣れしていない理由はここだよなぁ……まあ付き合いたいときとか付き合いたい人が出来たらで恋人とか作るといいよ。」

細山はしつこく食い下がってくることはなく、さっぱりとそう言ってくれた。
最近、いや具体的に言うと告白されるようになってから、叶野たちと距離が出来てしまっていた。無視、はされないが、少し素っ気ない。
鷲尾も朝こちらに視線を向けてくるから何か話したいことでもあるのかと思ったがそういう訳ではなさそうで、近くに来たら視線を逸らされてしまうのだ。
叶野と湖越も進んでこっちに来なくなってきた、湖越は確かに夏休みの一件があるから何となくわかるけれど、何故か叶野にまで距離を置かれいる。
何か言いたげで苦しそうに俺を見るからきっと何かしてしまったんだろう、理由は……申し訳ないことに検討付かなかったから、思い当たることが見つかるまでは何も言わないことにした、どれだけ考えてみても分からなかったら怒られることを覚悟して聞いてみよう。そう昨日決めていた。
伊藤も……告白のことに関わらないことなら、いつも通りなんだが、手紙を貰ったり告白されたりするのを見たり話題にすると機嫌が悪くなっていってしまう、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うけれど、それを伊藤に伝えるのは何か違う、と思って言えていない。多分心配のとはまた違う理由で不機嫌になっているんだと思う、そこまで分かっているけれどその理由までは分からなくて、結局何も言えないまま。
だから、俺の中にあるもやもやを相談することが出来なくて、ずっと胸辺りが重苦しい感じが抜けなかった。
なので細山の飾らない言葉にホッとして、始業式の日からあったくすぶりをついポロッと吐いてしまった。

「それに……なんか、違和感があるんだよ。」
「違和感?」
「……正直、俺と一回も話したことないのに、好きとか言われても……よくわからない。」

手紙を読んだり、告白されたときにどうして好きになったかの理由を教えてくれたりするのだけれど、
『その不思議な瞳の色に惹かれて』
『初めて見たときに見惚れてしまって』
『隣の金髪の人と話していて時折見せる笑顔が忘れられなくて』
……など、俺の容姿に関わることしかなかった。
まあ話したことがないのだから、ならば容姿に惚れるしかないのだろうけれど……。
一目惚れという言葉もあるほどだ、きっと一回一瞬姿を見ただけで愛おしくなることもあるのだろう、それを否定するつもりはない。
……なかった、が……それをきちんと理解するのとはまた別の話だった。

「皆俺の外側しか見えていないのに、どうして好きって言えるんだろう、て。その子が気になる気にならない以前に……疑問が優先されて……そこで思考停止してしまうんだ。」

毎日すれ違うだけ一瞬だったり、電車の車両が一緒になるせいぜい数十分間しか会えない俺を好きになるのか分からない。
俺の容姿はこうして好意をもらうぐらいだ、きっと悪くない部類だろう。
けれど、何故そんな俺を好きと言える?外だけしか見えていない俺のどこを好きと言っている?
俺はそんなに期待と好意を返せるような人間じゃない。
両親を亡くしているにも関わらずそのことが記憶に無くて祖父や両親の親友には蔑まれ前の学校では一人ぼっちで、コミュニケーション能力に優れている訳でもなく信念があるわけでもないし、人を楽しませられるようなことも話せない、現在一人暮らしだが伊藤の支えがなければ悲惨なことになっていたであろう壊滅的な家事能力。俺の中身なんてそんなもの。学校生活だって叶野たちが気遣ってくれたおかげでスタートが悪くなかったおかげでクラスメイトにも普通に話しかけてくれるようになった、一人でそつなくこなしそう、とも言われたが、とんでもない。一人では何も出来ない人間だ。優しさも思いやりも叶野ほどあるわけでもない。
彼女たちのなかにある理想の俺はどんな感じなのかわからないけれど、それらを現実の俺に求めたところで、その理想に応えられるほどポテンシャルの高い人間でもない。
そんなことを告白される度に考えてしまうのだから、愛とか恋とかを考えるまでいかない。
少なくとも一目惚れした、と言われても色々疑問を覚える一方である。
それに今の俺は記憶のこととか梶井たちのこととかで頭がいっぱいで告白されているもののどこか他人事で、親身になれなかった。
自分が女の子と一緒に歩いている、なんていう想像すらできやしない。
外見だけで向けられる純粋なる好意が意味が分からない、そういう俺になるほどなぁととっくに着替え終わったけれどすっかり雑談モードに入った細山は腕を組んで頷いた。

「あー……確かに、外側だけ見られての告白されても何も心には響かないか。
それもそうだな、美形って得しかなくね?とか思ってたけど訂正するわ、美形も生き辛い、いやむしろ美形故に悪意のない遠慮もデリカシーもない好意を押し付けられる分、そっちのほうがめんどいか。」
「……細山って結構口悪いよな。」

昨日だって最初はぎこちなく俺のことをくん付けしていたのに、熱中症なりかけのときぐらいから細山は俺も伊藤も呼び捨てにしてきた、いや別に良いんだ。同級生かつ同じクラスなのだし呼びやすいように呼んでほしい。二人三脚を始めたときよりもどこか生き生きしていて、どんな心境の変化があったのかわからないけれど、やる気が出てくれて俺としては嬉しい限りなので何も聞いていない。

「こっちが素なもんで。あーもう告白が嫌ならさ、伊藤と付き合っていることにしちゃえば?」
「?伊藤と?」

何故そこで伊藤と付き合っていることにしちゃえ、と?
思わぬ答えに首を傾げた。
どちらからともなくカバンと体操着を入れた別の袋を持って自然と足は教室を出て下駄箱へとゆっくり向かう。
この地点でお互い窓の外の空が暗くなっていて雨が降り出しそうなことはすっかり忘れていた。

「いつも伊藤といるし、そう嘘吐いちまえば大体の人は納得してくれるんじゃね?」
「……男同士なのに?」
「今のご時世、同性同士なんてそこまで気にするようなことではないだろ。……むしろ喜ぶ奴らもいっぱいいそう。」
「?」
「おっと、そのへんはこちら側の話な。ただそれを公言するということはあいつらはホモだという偏見と好機の目に耐えないといけないし、少なくとも在学中は彼女を作るのは諦めないといけない覚悟は必要だけど。まあ一ノ瀬はそれでもいいからと言ってくれる子がいっぱいいそうだけどな。
伊藤は多分出来ないだろうからもし一ノ瀬が伊藤と付き合っていることにして告白を減らしたいと思うなら、本人に相談してからだな。」
「……細山は偏見とかないのか?」
「ないけど。あっ僕は女の子好きだけどさ。まー本人たちが幸せならいいだろうよ。」
(それにまぁ姉と妹が、そういう本を山程持っているし、うっかりリビングに忘れていていちゃついている漫画を目撃してしまっているし……よだれが出そうになるほど酷いニヤケ顔で熟読している姿は我が姉妹ながら少し、いやとても気持ち悪い。とにかく比較的偏見はない方だとは思う。)
そんな複雑な姉妹関係のことは口には出さず心の中だけで押し留めていたことには気付かず、細山に言われたことを頭の中で噛み砕いて……言われたことを理解する。
理解した俺が出した言葉は

「……聞いてみる。」
だった。

少し、いや……結構自分で思った以上に疲弊していた。
好意の塊である手紙たちや好意を伝えてくる告白を、無視したり断ったりするのが。
俺が無視したり断ったりすることであちらとしては失恋しているということになるので酷く傷つけてしまっている、そして俺としては漫画としてたまにある好きな子に素直になれず傷つける、というシーンを見ても「こいつ最低だな」という感想を抱く。
好きでもないのに付き合うよりは俺はまだマシと勝手に思っていたけれど、断る度傷ついた表情をされてしまうと段々自分のなかの価値観が分からなくなってきていた、とりあえず付き合うのが正解なのかもしれない、なんてことも頭の片隅で思い始めてきている。
けれどもし付き合ったとしても俺はきっと世間一般的な彼氏のようにその子を幸せにできないと思う。記憶を取り戻して整理が出来ない限り、中途半端に手を出したくない。
そう考えると細山の提案はより良いものに思えた。
これは勘だが、元々の俺が恋愛に興味がないような気がするので正直高校卒業までの期間は彼女がいなくても問題がない、と思う。
あくまで、『俺は』問題がないだけだが。
伊藤は……どうなんだろう。
恋愛系のやつを観ていて感動しているのを見る限りは俺よりはよっぽど興味があるのだろう。
ただ、そこからどんな人が好みとか込み入った話に発展はせずこのシーンがいかに素晴らしいかの話になるので、自分たちを主軸に置いた話をしたことがない。
……また伊藤に頼ってしまうことに申し訳ないけれど、一応聞いてみよう。同性愛に偏見があるわけではないけれど、周囲に自分がそう思われてしまうのは嫌だと思うし……。

「いいんじゃね?……あー蒸し暑い……。」

そこまで話す頃には下駄箱に着いて上履きをスニーカーへと変えて、外を出ればうんざりするほど淀んだ雲が渦巻いた空が目に入り、むっとした湿度を含んだ熱気が襲ってきて不快感に眉を顰めた。

「早く帰らないと……あ、」
「どうした?」
「……制汗スプレー、机の上に忘れてきた。」

雨が降り出す前には駅に辿り着かないと、と足を踏み出したと同時に忘れていた存在をたった今思い出した。
そうだった、着替えてすぐに取り出して使ってそのまま机の上に置きっぱなしだ、話に夢中になっていてすっかり忘れていた。

「まじか」
「もう遅いし、細山は先に帰っててくれ。」
「おう分かった、また明日な。」
「ああ。」

ただでさえ時間ギリギリで疲れ切っている細山をこれ以上付き合わせるのも申し訳ない、ので先に帰ってもらうことにした。
校門へと向かっていく細山の背中を見送って、俺は学校内へと引き返した。



「……、」

すでに18時を過ぎているため、誰もいないと判断されたのか最低限の明かりしか付いていない廊下を一人で歩く。
(誰もいないせいだろうか、日常的に誰かいるのが普通な空間のせいか、誰もいない学校の廊下って、少し不気味だな。)

さっきは細山がいて話しながら移動していたため気にも留めていなかったが、いつもなら日常的に誰かしらの人がいるはずの廊下に俺一人分の足音しか響かないのは、なんか少し怖い、と思う。
肝試しのときは、人の手による仕掛けがあって驚かすのも生身の人間というのも分かっていたのでそこまで恐ろしいとは思わなかったが、天候も相まってか薄暗い誰もいない廊下は俺に軽く恐怖心を与えてくる。
「……さっさと取りに行って、走って帰ろう。」
正確に言えば校内にはまだ先生たちもいるだろうから完全に俺一人と言うわけではないのだろうが、この場では俺だけ。あまり一人になることも無いから余計に心細いのかもしれない、急いで用は制汗スプレーを取りに行くだけなのだから、すぐに帰ろう。雨も降り出しそうしな。
歩く足はそのままに空を見ようとした。丁度トイレの前を通りすがったところだった。

バンッ!

「?……っ!?、ん”ぅ”!!!」

突如少し後ろのほうから勢いよくトイレのドアが開かれる音が聞こえて驚いて反射的に振り向こうとする前に、突然誰かに抱き込まれたかと思えば口を覆われて突然のことへの驚きと混乱が相まってろくな抵抗も出来ずにいる身体は引きずり込まれた。
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