3章『やらない善意よりやる偽善。』

「あの……!これ、読んでください!!」

そう言ってメールや電話で事足りるこのご時世、今どきあまり見ない、封筒に入った手紙を渡してきたのは……見知らぬ自分と同い年ぐらいの、女の子だった。

「……」
「へッ!へ、返事はいらないので……失礼します!!」

ずい、と差し出された淡い花柄のハートのシールで封された手紙を無言で受け取ればそれだけで嬉しそうに頬を染め奥ゆかしく手紙を受け取って読んでくれるだけでいいとそう健気に言って、顔を真っ赤にしてパタパタと駆け出して行った。
自分から背を向けていることと小さくなったその華奢な背中を確認して……詰めた息を吐き出した。恋愛に疎いのだと自分でも分かっていてもこの手紙がどういった用件のものなのか、さすがに分かる、というか分りざる得ない。
だってこれが初めてではないのだから。

「……それで何通目だ?」
「…………10」

すでに自分のスクールバックには宿題や上履き、筆箱と携帯電話以外にたくさんの手紙が入っていた。
最寄り駅までの道、改札口、ホーム、電車内……行く先々で貰っているのである。
そして、俺に手紙を渡してくる全員が顔を赤くさせて俯いていたり潤んだ瞳で上目遣いだったり……これは、まあそういった好意が込められた手紙なんだろうな。
恋愛がよく分からない俺には未知な領域だが、震える身体を見ると受け取らない訳にはいかないだろう、なんて言っていいのかわからず無言になってしまうがこういうときは何も言わなくても大丈夫なそうで、今のところ無言なことへの指摘がないのは幸いだった。

「はぁ……行くぞ」
「……うん」

何故か差し出された手紙を受け取る度、段々と伊藤がぶっきらぼうになっていく。
変わっていく雰囲気に首を傾げて後を追いかけながら手紙をカバンの中にしまった。



「一ノ瀬はよー……てどうした、カバンの中そんな手紙で溢れ返させて。」
「おはよう、沢木……他校の女子がくれた」
「ああ、確かに封筒とか女子っぽいな。あれか、ラブレターってやつか。」

席に着いて提出する宿題をカバンから出している途中、自分の席へ移動しながら俺に挨拶してきた沢木はそのまま通り過ぎず、手紙のことをさらっと突っ込んできた。
特になにも考えず事実を答えると質問してきた沢木本人はあっさりとした返答で終わったのだが。

「まじかよ!うわっまじだ!一ノ瀬が頭良し顔良し運動神経良し性格良しからの彼女無しが売りだったのがっ!ついに、ついに……彼女有りになっちまったぁぁぁ!!ただの勝ち組イケメンじゃねえかああ!」
「沼倉うるせ」
「いだっ!」

沢木は隣で騒ぐ沼倉の頬をベチっと叩く。
軽い音は確かに教室に響いたけれどそれを覆ったのはクラスメイトの騒ぐ声。
「え、なになに一ノ瀬彼女できたん?」
「まじかー……いや、いつ出来てもおかしかねえけどさ」
など、聞く限り沼倉の大きな声のおかげで歪曲して伝わってしまったようだった。
ただ手紙を貰っただけなのに、彼女が出来たなど根も葉もない噂が立たないうちに否定しないと。

「……彼女無しのままだけど、手紙はもらった。」
「時間の問題じゃん!うらやましっ!!どうせ顔なんだろ!ちくしょう!!」
「いい加減にしろ、一ノ瀬困ってんだろ。」

大声で悔しがる沼倉を宥めるようにゴッとその頭にチョップする沢木。
二人のやり取り自体は決して不快なものではなかった、むしろ好ましいとも思う。
だけど……、なんだろうか。

「……?」

胸に不快感を覚えて無意識に眉が寄っていた自分に気付いた。
俺に彼女が出来た出来ないで勝手に騒いがれていることには特に何も思わなかったのだが、なんだろうか。このもやもやは。
正体不明の謎の胃もたれに似た痛み、昨日食べ過ぎたからか?
うーん?と首を傾げていたが、ガッと沼倉に肩を掴まれて揺さぶられたことによって意識が視界いっぱいの泣きそうな顔の沼倉に向いた、ちっか。

「そ、それで?」
「……それで、とは。」
「だから!その手紙のなかの誰かと付き合ったり……」
「しない。」
「えっなんで!!」
「恋愛とか興味ないし相手のこともよくわからないし……今は友達と話してるほうが楽しいから。」

そもそも、恋愛をしている暇などない、と言うのもあるけれど。
梶井たちのこととか桐渓さんのこととか、記憶喪失のこととか……恋愛を挟む余裕なんて無い。
それに今言ったとおり、今日初めて顔を漸く認識した話したこともない女の子とは付き合えない。相手のことをよく知りもしないのに付き合う、のは俺から見ると不誠実だと思う。
きっと勇気をもって手紙を渡してくれだであろう女の子たちには申し訳ないけれど、付き合えない。色々な事情を解決しない限りは。
普通とはいえない事情のある俺ではきっと相手にとって重荷になってしまうだろうし。
伊藤や叶野たちには色々と伝えているけれど、彼ら以外に教えるのは躊躇いがある。ので、そのへんのことは伏せておくことにした。
俺の答えに沼倉は面白くなさそうに唇を尖らせる。
目の前の彼は俺に彼女を作って欲しいのか作ってほしくないのかわからないな……。

「とりあえず付き合ってみるとかさあ……」
「それは……」

先程気持ちの伴わない付き合いは不誠実だ、と思ったばかりである。
とりあえず付き合う、は普通のことなんだろうか。
普通って難しいな、でもたとえそれが世間一般の普通だとしても俺にはそんな器用なことは出来ないだろうな。

「沼倉、いいかげん……」

何度も叩いてもなおも食い下がろうとする沼倉に、沢木も苛立ったように声を荒げようとした、と同時だった。


「……沼倉、うるせえよ。透がいらねえって言ってんだろ?てめえしつけえんだよ。」

低い声が隣から聞こえてきた。
その荒々しい口調通り穏やかという訳ではないが、怒鳴っている訳でもなく、淡々としている。
温和でもなく荒くもない、どこまでも平坦な声なのに苛立っているのだと察してしまう声。
やいやいと俺らの会話から派出して好きなタイプについて楽しそうに話していたクラスメイトさえも何も話さなくなり教室はシン、としてしまった。
夏の暑さがどこへやら氷点下になったかように寒くなった。当の伊藤はこちらを睨むでもなくただ窓の外を見ているだけ。
表情が伺えないことに少し焦りを覚えた。

「ぁ、わ、るい、一ノ瀬、ちょうし乗ったわ。」
「いや……いいよ。とりあえず今は恋愛は良い、かな。ちゃんと断らないとな。」

静まり返った教室のなか、沼倉は震えそうになるのを抑えて俺に謝罪してくれた、俺自身は別に気にしていなかったので恋愛はまだ良いことを改めて伝えてこの手紙の持ち主たちに付き合うことは出来ないことをちゃんと断らないと、とそう言った。
「優しいな、一ノ瀬。」
「そんなことは……」
俺には恋愛はわからないがそれでも勇気を振り絞って伝えようとしてくれたのは素直に嬉しいと思うし、体を震わせ涙目になりながらもそれでも頑張ってくれたその子たちに誠心誠意を込めて返事をする、それこそ普通のことのことだから、優しいとは少し違うと思う。
ほんの少し教室の空気感が和やかになって、ホッとクラスメイトが息をついた。

「別に透が態々律儀に断りに行かなくていいだろ」

ギクリ、力を抜いていた肩に再度緊張状態となった沼倉やクラスメイトが視界に入って何故か俺が申し訳ない気持ちになった。これじゃあ誤解されてしまいそうだ、また俺が転向してきた当初のように孤立してしまうかも。それは嫌だな。いやもしも伊藤が孤立したとしても俺がいるから完全に孤立してしまうわけではないけれど、伊藤は本当に良い人なのに変に誤解されるのは嫌だ。

「あいつらが勝手に手紙を押し付けてきたから透は仕方なく受け取っただけなんだからよ、透が気を遣わなくたって良いんだよ、返事不要って言っていたんだし変に近付いたらそれこそ相手にとっては酷なんだ、透の優しいところは良いところだけど悪いところにもなり得る、その優しさこそ愛徹を傷付けて……」
「伊藤、伊藤」
「あ?」

何やら呟いているけれど正直俺の耳は全然聞き取れていない、言葉が続いているのにも関わらずトントン、とその広い肩を叩いてこちらに顔を向けるよう促すと素直にこちらを向いてくれた、その頬をぶに、と人差し指でさした。意外と弾力があった。
眉間に皺を寄せていたのがスッと消えてその小さな黒目を見開いた。

「なっ……」
「心配してくれてありがとな。」

恋愛小説を読んでは寝るの繰り返していた俺を見ていた伊藤は、きっと俺の事を心配してくれたのだろうと思ったのだ。
沼倉に低い声で圧をかけていたのは俺が困っていたことを見越してのことだろう、沼倉の質問に決して怒っていないけれど少し困っていたから。

「……別に、透からしたらちゃんとした気持ちに気持ちで返したいんだろうけど、その気もねえのに呼び出したりするのは期待させてしまうだろうし、強引に透の連絡先を聞き出されたりして悪用されないか、気になっただけだ。」

なるほど、確かに信用に置けない人間に連絡先の流出は後々大変なことになってしまうかも知れない、それに相手を疑いたくはないがこちらに害などを及ばさない完全に安全な人間であるとも限らない、か。確かに想像力が足りていなかったな……。

「そうだな。ちゃんと断りを入れるのは直接言われたときだけにするよ、手紙を渡してきてくれた子たちには悪いけど、なにもしないことにする。」
「……ん、そうしてくれ。」

ここで漸く伊藤は低くも緩んだ空気になった。
安心していたのは後ろのクラスメイトたち、ただ俺の身を案じて不安になっていて少し過敏になっていた、というのが分かってくれたようでホッとする。

「で、いつまでつついてんだよ、」
「つい。」

ぐにぐにとその頬を未だ突いている俺に呆れながらも止めようとはせずにされるがままになっているのを良いことに両頬を人差し指と親指で軽くつまんで引っ張った。

「意外に伸びる。」
「やーめーろー。」

心から嫌がっているわけではなさそうだが、あまり引っ張り続ければ赤くなってしまうのでおとなしく手を話していたわるようにむにむにと円を描くようにして揉み込んだ。


「……俺ら何を見せられてるん?」
「お前が絡むからだろうが、あーただでさえ暑いのによ……」
「え、これ俺のせいなの」

俺らを見るクラスメイトが生温いものになっていることに気が付かず頬のマッサージを続行した。そんな俺らをクラスメイトが呆れながらも見守る姿勢で見ていた、そのなかに俺らのことを胸を抑えて苦しそうに息を吐いて見ていた人物には気付くことは出来なかった。


「おは……、うわ、なにこの教室、あっつ!」
「ん、叶野に湖越、おはよう。」
「おーす。」
「はよ、朝から仲良いな。」

遅れてやってきた叶野たちに挨拶した、2人とも不思議そう、というか何だか呆れたような諦めたかのような目で俺らを見てきた。

「おはよ、一ノ瀬くん伊藤くん……なにしてんの?」
「んー……叶野はモテるだろうなあって。」
「うん!!一ノ瀬くん、言葉のキャッチボールしようか、ドッジボールではなく!」
「ああ、彼女が前にいたような顔してるよな、何か中学時代告白されて付き合って卒業しても別れることなく恋人関係が続行されたけれどゴールデンウィーク中に同じ高校の人を好きになったから別れよう、とか言われてそうだよなぁ。」
「なにその伊藤くんの具体的な勘!?どんな顔してんの、おれっ!しかも合ってるし、え?もしかして個人情報流出してる!?」
「叶野、お前ぇ……4月に聞いたら彼女いないって言ってたじゃねえか!!」
「そりゃ沼倉にバレたらめんどいだろ」
「シャラップ!!この大嘘つきめっ」
「ちょ、ごめんごめんって!誠一郎も沼倉くんにはいたことないって言ったけれど、本当は中学のときいたよ!」
「おいっなにばらしてんだよ!」
「おーまーえーらー二人して嘘ついてたのかよ!!」
「だから沼倉が面倒だから……」
「おだまりっ許さねえ、一ノ瀬みたいに彼女いたことないかと思っていたのに!裏切り者があああああ」
「希望、まじふざけんなよっ」
「俺一人では転ばない!誠一郎も道連れ!!」
「くそっそのまま池にハマってろ!!」

「……にぎやかだな。」
「そうだな。」

にじり寄ってくる沼倉から逃げる叶野と湖越、沼倉を止めるのを諦めた沢木は他のクラスメイトに混じって野次を飛ばしていた。
沼倉の恨みつらみの声の合間合間に「希望俺のために犠牲になれ」「俺に構わず逝きなよ誠一郎」なんていう互いの身を譲り合う2人の不穏な会話も聞こえてくる。
その会話は他のクラスメイトも聞こえていたようで「やばい、親友の仲の亀裂がっ」とおかしくて笑いながら演技かかった声でそういうものだから賑やかだけど和やかな空気が教室に伝わってきた。
結局この追いかけっこは本鈴が鳴って岬先生が来て始業式のために整列してね、と穏やかな声が響くまで続いたのであった。



始業式はつつがなく終わり、あとは宿題を提出すればこのまま帰宅になるのだろうと誰しもがそう思っていた、のだが。


「はい、じゃあ2週間後の体育祭でみんながどの競技に出るか決めます。」
「えーっ!?」

まさかの体育祭、しかも2週間後。
俺はこのことをたった今初めて聞いたのだが、驚いているクラスメイトを見る限り皆すっかり忘れていたらしい。
えー!と声を上げる皆を岬先生は苦笑いしていた。
時間がかなり限られているなか、今日中に競技を決めなければならないようだ。
今日を除けば練習できる時間はもう2週間もないということだ。
突然のことへの戸惑いと……少しの高揚感を胸に黒板に書かれていく種目に胸を高鳴らせる。
僅かな表情の変化を隣の席の伊藤が微笑ましく見ていたのにも気付かなかった。
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