3章『やらない善意よりやる偽善。』


「明日から俺いねえから。」
「……え?」



叶野と鷲尾を改札口まで送って、この着せてもらった甚平を返しに行こうとゴンさんの店へ向かおうとコンビニの前を通る際どうしても昨日から今日の始まりまでずっと食べたかったアメリカンドッグの存在を思い出し、素直にその旨を伝えれば「食い足りなかったのか?」と笑われたが快くオッケーしてくれた。
とにかくアメリカンドッグが食べたかったのですぐさまレジへ向かい、フライヤーのところにそれがあることを確認してすぐに店員に注文した。
袋はいらない、と言いながら108円丁度渡してそのまま手に持って外に出て早速ケチャップとマスタードで分けられているプラスチック製の入れ物を押し出すようにプチっと潰すと一緒に出てくる、伊藤に教えてもらった当初この素晴らしさに感動したのは記憶に新しい。
早速口を大きく開けて食らいついた。
半分ぐらい食べたところで缶コーヒーを買った伊藤が来て、一口飲んで戻ってきた当初は笑顔で普通に話していたのだが、バイブレーションの独特の音が目の前から聞こえてくる。
伊藤の方からその音が聞こえてきて伊藤も振動に気づいて携帯電話を手に取ると
「……はぁー。」
息を吐き切る如く大きな溜息を吐いた。
苦虫を噛み潰したようなそんな表情を浮かべて、その痛んだ金髪を携帯電話を持った手でぐちゃぐちゃにかき回した。
今までに無い伊藤の反応に首を傾げ、丁度アメリカンドッグも最後の一口を頬張ったあとで小麦粉とソーセージの刺さっていた木の細い棒をゴミ箱に捨て、口の中に飲み込んでどうしたのか問おうとしたところ先程急にそう言われた。
そのことを脳が上手く機能してくれなくて聞き返してしまう。
伊藤は嫌そうに……本当に嫌そうに補足してくれた。
「あー……まぁ俺は普段ゴンさんのところで居候させてもらっているんだけどな。」
それはゴンさんに店に連れられたときに聞いた。
血の繋がりが全く無いのに、どうしてだろうと思っていた。

「……簡単に言っちまえば俺、血の繋がっている家族と仲悪いんだわ。
俺が物心ついたときにはもう一方的に嫌われてた。
そのうち……、俺も大嫌いになった。」
目を伏せ、言いづらいであろうことを小声ながら伝えてくれる伊藤に目を見開いた。
血の繋がりのある、ちゃんとした家族なのに。
どうして伊藤を嫌えるのか分からなくて。
「……なんで」
「さぁ?厳しかった祖父と俺の顔が良く似ていたから、だったか?」
「そんなことで……。」
なんでもない顔して言われた理由に開いた口が塞がらない。
そんな理由でこんなに良い人である伊藤を嫌えるのか、伊藤とその祖父は別の人間じゃないか。
伊藤を蔑ろにするその家族に、失礼かもしれないがそれでも怒りがおさまらない。
「……怒ってくれてありがとな。
でももうな、あいつらは俺のなかでどうでもいいことなんだ、俺がゴンさんのとこにいるのもあいつらは知った上で放置してる。
高校卒業したら、学校に行きたいなら金は出してやるから家から出てけ関わるなって言われてるし、俺も俺のことを蔑ろにしてくる奴らを俺も大事にする気なんかねえ。血の繋がりがあろうとな。
俺はちゃんと俺のことを見てくれる人だけを大事にしたい、そう思ってる。」
「……そうか。」
キッパリと堂々とそう言う伊藤の目は晴れていて、自分を蔑ろにしてきた血の繋がりのある家族のことは既に伊藤のなかで決着のついたことなのだと、言葉にされなくても分かった。
……伊藤にそのことに悩みがないのが嬉しいはずなのに少しだけ胸がざわつくのは、何故だろうか。
「?それなら、どうしてそんな嫌な顔を?明日からいないという理由は?」
気付いたことを聞いた。
すでに解決済みであるのなら先程の嫌そうな顔や明日からいない理由が分からなかった。
俺がそう聞けば、伊藤は眉間に深く皺を寄せ
「……実家。」
「ん?」
「……夏休みと年末年始、あいつら父親の実家に行くんだよ。
それだけは俺も行かねえといけねえって決まっててよ。」
「……なんで?」
よくわからない。
まず率直にそう思った。
なんで伊藤を嫌っているのに、高校卒業したら出て行けとか本人に言っているのに伊藤がそうしないといけないのか分からなくて聞き返した。
「よく分かんねえけど、なんか実家の方は結構大きな家らしくて俺も連れて行かねえと親戚のほうからとやかく言われるんだとか。まぁ外面気にしてのことだな、あいつららしい。」
「行かなくても、良いんじゃないか。」
「俺もそう思う。
だけど俺まだ未成年だしな……。
高校の金もあいつらが出してるし嫌われてはいたが目に見える暴力は受けていないし食事も服も与えられてる、外から見りゃ俺だけが反抗的であいつらは良い奴らに見えるだろ、外面だけはいいしな。
変に反抗してゴンさんの家から連れ出されたらそっちのほうが嫌だし、まぁあと2年ぐらいだし今は我慢すりゃいい。」
感情的になる俺とは対称的に伊藤は淡々と冷静であり、客観的な視点も含めて説明してくれた。
……伊藤は未成年でまだ高校生で、今家族が容認している上でゴンさんのところにいるけれど法的なものではない。伊藤を法律的に連れ戻すことだって可能だ、伊藤の口ぶりからするとそうして連れ戻す可能性自体は少ないのかもしれないが、もしも下手を打てば連れ戻すことも可能だ、ゴンさんも警察を介入させれば最悪逮捕だってあり得る。
それなら18になるまでは要望を受け入れるのが利口、なんだろう。
俺にはもう何も言えない。
俺に出来ることは何もない。
その事実が歯痒い。
つい歯ぎしりしてしまう俺に伊藤は力を抜いてゆるりと笑みを浮かべた。

「俺なら平気、でもあっちの家つまんなくて退屈だろうからメールしてもいいか?」
「もちろん、俺からお願いしたいし電話だってしたい。」

食い気味に顔を近付けて答えた。
俺の行動に驚いたように後ずさられてしまう……必死過ぎ、たか。
自分が起こした行動があまりに必死な感じが伊藤にも伝わってしまっただろう……引かれてしまっただろうか?
「……ハハ、ありがとな。少し気が楽になったわ。」
伊藤は笑ってそう言ってくれた、俺の悩みは杞憂だった。
少しでも伊藤の気が楽になるのなら俺も嬉しい。
伊藤と離れることが寂しいからせめて声だけでも聞きたいという俺自身のための理由もあるのは少し、罪悪感がある。
でも伊藤の少し気の抜けた笑顔が嬉しいからそのことは黙っておくことにした。

「今日、機嫌が悪かった理由ってそれ、なのか?」

ゴンさんの店で待ち合わせしたときから機嫌が悪そうだったことを思い出して隠すこと無く聞いてみた。
ピリピリしていて落ち着かない様子はいつもとは全く違っていたものだった。
祭りの途中から機嫌は少しずつ治っていって花火を見終わった時にはいつもどおりの伊藤に戻っていたけれど……何故少し怖い雰囲気になっていたのか分からないままだった、てっきり俺が梶井を隠れて呼んだことに気付いたからかとも思っていたけれどさっき打ち明けたときは怒っている素振りなど無く俺が良いのであればそれでいいと言ってくれたぐらいだ。
どうして機嫌が悪かったのか、それは明日から実家の方に行かないといけない、から?

「……あー、それもある、んだが。」
「が?」

疑問を隠すこと無く目を合わす俺とは逆に言いづらそうに目を伏せる伊藤。
それもあるけれど、それだけではない?
理由が知りたくて口ごもる伊藤を目だけで続きを促す。
じっと見てくる俺に根負けしたように一つ溜息を吐いて目を合わせて

「……透、俺に隠してること、ないか?」

と、恐る恐る聞かれた。
隠していること?
何のことなのか分からなくて首を傾げて考える。

「一昨日バイトに来なかった理由とか、……昨日、駅の前で車に……。」
「……ああ、見てたのか。」

伊藤に言われて確かに一昨日不自然に急にバイトを休んだ上、心配する伊藤に来なくていいと突き放したようになっていたし、昨日伊藤からすれば見知らぬ車に乗り込む俺が視界に入っていたのだろう。
……今日の帰りにでも話そうと思って言わなかったことが裏目に出てしまったな。
昨日九十九さんと話し合って泣いて少しだけ距離を縮めることが出来て、家に帰ったあとも吉田とどう合流するかの計画を練っていたから、明日伊藤に会えるしと思ってしまったのである。それに……。

「すまない、一昨日のことも昨日のことも全部今日直接話そうと思ってて……。
あまり叶野たちにも聞かせられるような内容でもないし、祭り前にするような話でもない、と思って……伊藤にちゃんと話したかった、し。」

さっき電話の提案をしておいてあれなのだが、俺としては大事な話はメールや電話ではなくちゃんと面と向かって話したかった。
特に今回は、可能な限り1人でやってみたかった。
梶井に指摘されたから、というのもあるけれど前々から俺は伊藤に甘えていたことは自覚していたことだったから。
きっと伊藤は気にしないと言ってくれるけれど、それでは俺の気が済まない。
……と格好つけたことを考えていたけれど、俺が勝手に突っ走っていた、伊藤からすれば訳が分からなかっただろう。
突然バイトを休んでその理由も具体的には言わず、挙句見知らぬ車に乗り込んだのを見かけた翌日当の本人は何も言わないで祭りを楽しみにしているのを見ていたら…………機嫌悪くなるのも普通のこと、だな。

「ごめん。」

シンプルにそんな言葉しか出てこなかった。
あまりに陳腐で言い慣れている言葉でもどかしいけれどそれしか出て来ない。

「いや、透は悪くねえよ。俺が勝手に不貞腐れてただけで、ちゃんと説明するつもりだったんだろ?」
「そうだが、」
「じゃあ良いよ。」

謝る俺に簡単に良いと言ってくれる伊藤が……酷く申し訳ない気持ちになる。
伊藤の表情は既にいつもどおりで、怒っていないとそう言っている。
梶井に言われたことを思い出して落ち込む。
これでは依存と何が違うんだろうか。


「九十九さんは俺の保護者みたいなもので……。」
「その役割は桐渓がやってるんじゃねえのか?」

気落ちしながらも伊藤が良いと言ってくれるのならこれ以上俺には何も言えない、九十九さんのことを説明しようと口を開いたが、突っ込まれてしまった。
「表向きは、な。
でも、あの人が俺に対する扱いは九十九さんも知っていたから心配いているんだと思う。」
「そいつも桐渓のこと知ってんなら、最初からその九十九ってやつが保護者代わりになればいいんじゃねえのか?」
伊藤の指摘は間違っていない。
前の家にいたときも俺に対する桐渓の扱いはぞんざいだったし、九十九さんや他の人がいる前でもさすがにぶたれたりとかはしなくても、嫌味を言われたりあからさまにぶつかったふりをされたこともあった。
あの家にいたときやここに来た当時には未だ九十九さんとちゃんと話が出来ていなくて、最近ようやく腹を割って話をすることが出来たぐらいだが、それでもまだ九十九さんのほうが良いと俺だって思ったぐらいなのだから、伊藤の指摘は正しいものだ。
だけど……。
「九十九さんは祖父の秘書だったから、亡くなって色々忙しかったんだと思う。……ちゃんと連絡取れたのも、ここ最近だったし。」
「それにしたってよ……。」
「桐渓さんを俺の保護者として任命してここに引っ越すように書かれていたんだ。
……事故の後、俺を引き取ってくれた亡くなった祖父の遺言、に。」
納得の行かない伊藤の声を遮るようにして続けた。
正直あまり話したくなかったこと、だった。気まずくなるのが分かってたから。
俺のことを憎くて仕方がなかった祖父に可愛がられることはなくともここまでお金を出して育ててくれた恩義がある。
……何も返すことも出来ずに知らないうちに亡くなって、入院していることもそのまま亡くなったことも、葬式にすら参列させてくれず見送ることすら拒絶された俺に出来ることが祖父の遺言を聞く。それだけだった。
亡くなった方の遺言は聞かなければと思う。
それが、自分が納得の出来ないことだったとしても。
俺の言葉に気まずそうに「そう、か」と伊藤から返ってきた、やっぱりあまり話したいと思える話題ではなかった、だけどこれだけは知っていてほしい。

「……でも、悪いことばかりじゃない。」
「え?」
驚きに目を見開いた伊藤の瞳を見て言葉を重ねる。
「最初は慣れない場所に来て桐渓さん以外誰も知らない誰もいないところに来て不安だった。だけど、ここに来て伊藤に会えて、叶野たちに会えた、いい友達優しい先生いいバイト先に巡り会えた。
桐渓さんじゃなくて九十九さんが保護者だったら良かったのに、と俺も思ったことはあったけれど……。」
「あったのか。」
「あった。
でも、どちらにしても一緒に住むわけではないし最初こそ九十九さんだったらと何度も思ったけれど。」
「何度も?」
「何度も。」
ついつい本音が出てしまいその都度伊藤にオウム返しされるが、ここには九十九さんも桐渓さんもいなくて目の前の伊藤しかいないので構わないだろう。

「だけど、今は伊藤が一緒にいてくれるから俺はもう大丈夫なんだ。」

いや確かに伊藤のおかげで俺は食事も困ることはなく家事の仕方も教えてくれた安心感もあるけれど……それだけじゃなくて、伊藤と会う前まで俺が見えていた世界はどこか霞んでいて暗く沈んでいるようにしか見えなかった。だけど、今見えている世界は優しいもので、厳しかったり激しいこともあったりするけれど確かに俺は色鮮やかに全てが見えているように感じてる。
それは、きっと九十九さんが保護者の代わりになっていたとしても簡単に知ることが出来なかったんじゃないかな。
過去の俺も今の俺も認めて笑ってくれて、そして俺にも笑っていてほしいとそう言ってくれる伊藤がいるから……だから、俺はもう大丈夫。
それにもう九十九さんからも桐渓さんからも逃げないって、決めたから。

「話を戻すけれど、俺と九十九さんが話した内容、いやその前にバイトを休んだ理由なんだが……ん?どうした?」
「……いや……。」

話が随分と脱線してしまった。
昨日のことを話そうと口を開こうとしたけれど、伊藤がぼんやりと俺のほうを見て反応が鈍いことに首を傾げる。
顔も赤く見えるから具合でも悪いのだろうか、それなら出来ることなら顔を見て話したいことだったが仕方がない。
伊藤は何時からなのか分からないけれど、明日もあるし今日はもう解散して帰ってからメールで詳しく書いて送ろうと提案したが断固『そういうわけじゃない、今聞きたい』と赤ら顔の伊藤に譲ってもらえず、折衷案として具合が悪いのなら無理そうならすぐに言って欲しいとお願いして快諾してもらえた。
伊藤の体調に不安を感じながらも、話すことを望むのならとようやっと本題に入ることが出来た。
まず話したことは一昨日バイトを休んだ理由だった、梶井に伊藤を依存先にしていて自分のことばかりだと指摘されて言い返せなかった、梶井の指摘は全て事実だったからだ。今まで桐渓さんからのぞんざいな扱いから逃げたかったのにそれから抵抗せず甘受していたのは両親への罪の意識と……俺自身がその暴力と暴言を受け入れることを免罪符にして思考を放棄していた、今俺を甘やかしてくれる伊藤という存在が生きてほしいと言ってくれたのが嬉しかったから依存先を変えただけだと、そう言われた。
愚かな俺が気付こうともしなかったことを梶井は遠慮なく突きつけてきた。
否定できなかった俺を、あのとき梶井はどう思っていただろうか。
……俺は伊藤のことを大事だと思ってる、決して依存ではないと言いたかった。
だけどそれを証明する術を俺には何もなかった、すぐに否と唱えることが出来なかった地点で俺もそう無意識に思っていたのかもしれない。
それを否定するためには俺に出来ることを伊藤の力を借りず俺だけで考えるべきだと感じたしあの精神状態でバイトをしても迷惑にしかならないと判断して細かいことを何も言えず休んでしまったこと。
考えた結果、すぐにでもその証明が出来ないけれど自分が今向き合わなければいけないことを少しずつやっていくべき、という結論に至った。
「それが、その九十九ってやつと話すことだったのか?」
伊藤に力強く言葉にうなずきながらも
「元々昨日久しぶりに会って話そうと約束していたし……九十九さんならちゃんと俺が話したいこと、聞いてくれると思ったから。」
そう付け足した。
梶井の指摘が無ければ未だ……いやもしかしたら一生九十九さんと昨日のように腹割って話せなかったと思う。それに、九十九さんのことを俺は一昨日の地点であまり雑談という雑談をしたことがなかったけれど、それでも自分の話をちゃんと聞いてくれると思った。少なくとも俺から見て桐渓さんに両親のことを聞くよりも九十九さんとしっかり話をするほうがまだ難しくないほうだ、と感じていた。
「で、どうだったんだ?」
「……九十九さんは俺のことが見てなかったし俺も九十九さんのこと、見えてなかった。」
九十九さんから俺は無表情で傷ついていないように見えてた。
俺から見て九十九さんは分け隔てなく接してくれるけれど何を考えているか分からない大人だった。
誰かに助けを求める前にすぐ諦めて何も言わずにずっと耐えていた、今から考えてみてもきっと俺は同じように助けを請わなかったと思う。
だけど、一言でも誰かに……九十九さんじゃなくても前の学校、神丘学園の先生なり同級生なり零してみたらもしかしたらもっと早く誰かを信頼出来るようになったんじゃないか、と自分自身に反省することが見つかった。
ここに来て伊藤と出会って漸く自分以外のことを考えられるようになったから、当時の自分では考えもつかなかっただろう、そう思えるようになったことを進歩と前向きに捉えてる。
話すことの大事さを知ったんだ。
「もっと、ちゃんと話そうって思えた。」
思っているだけでは伝わらない、伝えないほうが良いこともあるんだろうけれど俺はあまりに言葉が足りない。
「……どれだけ話せばいいのかどこまで言って良いことの範囲なのか、難しいな。」
自分の意思をちゃんと伝えるべきだと思っても、考え無しに伝えて誰かを傷つけることなってしまえばそれは本末転倒だ。
自分の意思を言わずにいるのも他人と分かり合えず距離が広がる一方となってしまうが、伝え過ぎたその言葉が相手を傷つけるナイフとなるのも俺は身を以て知ってる。
目に見える傷ではないから、他人から見ても傷つけた本人ですらも分からない可能性があって、一生消えることのない傷になることもある。
言葉って難しい、率直にそう思う。

知らず俯いてしまう俺に伊藤はぽん、と後頭部にその手を置いて軽く撫でられた。

「そう思っていることを忘れていないんならきっと大丈夫だろ。」
「……そう、だろうか。」

正直、先程梶井と話した俺の言葉が相手にどう伝わっているのか不安だし、さっきだって伊藤に何も言わなかったことで機嫌を損ねてしまった。
その不安が伝わったのか伊藤は少し気まずそうに目をそらす。

「さっきのことは透の話を聞かないで早合点した俺が悪いんだから気にすんな。
俺は分からないことは分からないって言うし、出来ることなら透のことを理解したいから聞きたいことを聞くけれど、傷つけそうだったら言いたいことも言いたくないとも思うんだ。」
「……複雑、だな。」
「人間ってそんなもんじゃねえか?俺は透を大事にしたいし分かり合いたいと思うけど、全員が全員分かり合える訳なんかねえし。分かり合えてたら争いなんか起こらねえし。」

伊藤はこちらを気遣い傷つけるようなことを言わないけれど、変に取り繕ったりはしない。
思ったことは伝えてくる方だと思う。
落ち込む俺を宥めるように力強くも優しく頭を撫でながらも事実を伝えてくる。
内心、伊藤の言っていることを肯定する。
分かり合えるのなら、俺は桐渓さんとも小室とも一緒に入れたんだろう。
でも桐渓さんも小室も分かり合えることはないと断言してもいい。
小室が悪意で叶野を傷つけようとしたことは許すことは出来ないし、桐渓さんも……彼へ感じる罪悪感とか罰とかを別として考えてみるとやっぱり許すことは出来ない、と思う。
病室で目を覚ました何も分からない俺を怒鳴り詰り、わざわざ家にやってきては嫌味に近いことを言われて誰も見ていないところで蹴られたり髪を引っ張られたりされたことを思い出すと強い嫌悪感に見舞われる。
そう感じることが絶対に正しいとは言えないけれど、そう思ってしまうものは仕方がない。
何人か分かり合えない人間がいるのは仕方がないとしても、それでも今まで話すこと無くどう思っていたのか分からなかった九十九さんと分かり合えたように、梶井と分かり合える日が来る……だろうか?
表情が分かりやすいと思っていた吉田の突然変貌を見て少し自信がなくなる。
……やっぱり、無理なんだろうか。
弱気になる俺に気付いたのか気付いていないのか分からないけれど、

「まぁ内心本音を言えば分かり合えないかもしれないと思う相手とそれでも分かり合いたいと思うのもきっと当たり前の感情なんだろうけどな。」
簡単に、俺が考えつかなかったことを言ってくれるのだ。
「当たり前?」
「人間だしなぁ、親しくなりたいと思える相手には知りたいし知ってほしいと思うんじゃね?」
「親しく……。」
「俺らだって見た目は真逆で価値観も違うけどこうして一緒にいて互いに楽しいと思えるのは分かり合えた結果だろ?叶野と鷲尾だって好みも性格も違うけど、色々あったけど今は上手くやってるし。」
伊藤の言うことに確かに、と納得する。
表情豊かで優しい伊藤と暗く何を考えているかわからないと言われることが多かった俺、賑やかで空気の読める叶野と真面目で厳しい印象の鷲尾、確かに冷静に客観的に見ると真逆だが仲が良いと思う。
「お互いのことを知ろうとする上でぶつかることもあるし、そのせい喧嘩だってしちまうけれどそれも一つの距離の縮め方だろ。」
伊藤とはあまり喧嘩しないけれどそれでも少しずつ約束や譲り合いはあったし、叶野たちは夏休み前にひと悶着があったところだ、まだそのことは記憶に新しい。
意見と意見のぶつかりあいが距離を縮める方法でもあるのだとそう見たばかりだったんだと気付いた。
「それでも全部を分かり合うのは無理なんだろうけどな、一緒にいれば知らないところもドンドン出てくるわけだし、そんときにまた喧嘩しちまうだろうな。
でも、それでも良いとも思う。
無理して分かりあえなくても、お互いを大事にすることは多分出来るだろ。
透が……相手を大事にしたいという気持ちがあるのならきっと大丈夫。」
大丈夫、そう言う伊藤の声が優しく身にしみる。
そうか完全に分かり合えないのは決して悪いことではないんだ。
1番分かり合えている、1番仲が良いと感じている伊藤でさえまだ俺が知らないことがあってきっと伊藤もそうなんだ。
全て分かち合えなくても、相手が大事だとそう思えるならばきっと……俺なりに彼への距離の答えが見つけることが出来る、かも。

「……なんて偉そうに無責任に言ってみたけど、これが完全な答えだと押し付ける気はねえからな?改めて考えると難しいな……ぐちゃぐちゃになる、大丈夫か?この答えで。」
さっきまで淀みなく堂々と言っていたのに少し弱気になって自信無さげにうろうろと視線をさまよわせる伊藤に少し笑ってしまった。
「いや……ありがとう、俺なりに何となく答えが見つけられた気がする。」
「そうか?それならいいんだけど。」
やっぱり、伊藤に頼っている自分に気付いて自己嫌悪を思えるけれど、でもきっとこの相談は大事なことだった。俺1人では梶井どころか吉田にも分かり合うべきだと言う俺の意見によって傷つけてしまったかもしれなかった。
……こうして、違う価値観を持った人物と対話することでないものを補っていくのが『人間』なのかもしれない。
何となく、自分なりにだけど何故人が人といるのかの答えが見つけられたような気がした。

自分のなかでもやもやしたものが解決したところでハッ携帯電話を見る。

「……もう10時近い。」
すっかり話し込んでしまったようだ。
時間を自覚すると立ちっぱなしだった足が痛くなった。
この甚平だってゴンさんのところに行って返さないといけないのに。
「やっべ、ちょっと待ってくれ。」
伊藤は結構長い時間外にいて夜なのに暑い空気のせいで汗かいてすっかりぬるくなったであろう缶コーヒーをぐいっと一気に飲み干し、ゴミ箱に入れ少し早足でコンビニから離れた、俺もそのとなりに並んで歩く。

「明日は何時に行くんだ?」
「あー……7時にはゴンさんちを出ねえといけねえな。」
「早くないか?」
「県外で車移動だからなぁ、あー息詰まる……。」
「いつでもメールしてほしい、俺もする。」
「朝早くからメールするわ。……あ”ー本当に嫌だ。」

(俺も、いやだ。)

明日からほんの数日だけど伊藤がいないのが、いやだ。
心底嫌そうにする声に内心同意しながらもそれでも明日早起きの伊藤を少し急かして、ゴンさんの家へと向かった。
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