ここから始まる『俺』のものがたり。



 俺は、『一ノ瀬 透(いちのせ とおる)』と言う名前らしい。
 らしいと言う不確定なのはどうしてか、それは俺が記憶喪失だから。
 もう6年前になるんだろうか、それでも記憶は戻ることはなくそのまま俺は過ごしている。
 俺を預かっていた祖父がつい最近亡くなって、俺は前に暮らしていたと言われたアパートに暮らすことになって最寄り駅から3駅先の高校へ転校することになった。
 ゴールデンウイークの最終日の今日たった今荷物を運び終え、明日からは新しい学校が始まる。
 携帯電話を見れば明日何時に来いと言う指示の連絡が入っている、軽く目を通して必要なところだけ見てパチンと折り畳み式の携帯電話を閉じた。最後まで見てもどうせ嫌味だろうから見る気もならない。
 ……何にしても買うものだとか段ボールに閉じたものを開けても衣類しかないし、とりあえず買い物できるところや最寄り駅までの道を確認しに行こう。
 そう思って、携帯電話と小さな財布と鍵を持って、家を出た。

 アパートの部屋も前に暮らしているのと同じらしいけど、こうして玄関を開けて閉めても外観の剥げて塗装前の色がほとんど見えているのを見ても、古く劣化している踏むとギシギシと不安定な音が鳴る錆だらけの鉄の階段を下っても思い出す気配もない。
 自分が過去のことを積極的に思い出そうとしていないせいなのか、前の俺が思い出すことを拒んでいるのかわからないけれど、どちらにしても結果は変わらない。
 記憶を思い出せない、それだけだった。
 今日もきっと彼から思い出せたかと急かすメールが来るのだろう、メールだけなら良いが電話が来られたら面倒だ。
 前々から両親の古くからの知人であると言う彼は祖父よりも粘着質に嫌味を言いながら、自分に思い出すことをすごい強要してくる、なんと言うか、執着がすごい。
 母の父であると言う祖父も俺のことを責めていたけれど、彼ほどではない。正直祖父もあまりの執着ぶりに彼のことをひいていたのではないかとも思う。
 ……それは祖父が俺のことを心配しているんではなくて彼がそのぐらい異常に見えたからである。憎しみはきっと祖父のほうが強い感情を持っていたのではないか。今となってはわからないけれど。
 階段を下り切って最寄りの駅まで歩く。
 今日は晴天だったが、さすがに17時過ぎているので薄暗く風も冷たく感じた。
 小学生ぐらいであろう子どもは俺の隣を楽しそうに友だちとじゃれ合いながら走り去っていく。今から家に帰るんだろう。何故か通り過ぎる前にすごい見られた。なぜだろう。引っ越し業者の人にもどうしてかすごい見られた。なぜだろう。
 ……俺にも、ああやって小学生ぐらいのときじゃれ合いながらあの家に帰ったんだろうか。もしかしたら小学生のときの知り合いに会うこともあるかもしれないが、もうあれから6年がたっている。覚えている人に会うのは至難の業とも言えるだろう。

 小学校4年生俺はここを引っ越した。
 それは祖父の家に行くのではなく、父が職場が変わり職場が提供している家族所帯専用の寮へ行くことになったから、引っ越すことになったらしい。
 きっと俺のことを覚えている人間はいないだろう。
 でも自分のことを『一ノ瀬透』なのだと認識してすらもしていない俺には、覚えていないぐらいがきっと良い。
 覚えていない、と言う俺の言葉で傷つく人間がいないなら、それに越したことはないだろう。
 そのまま道なりに歩いていくとすぐに公園を見つけた。
 時間も時間なので遊んでいる子どもは少ない、でも子ども特有の高めのにぎやかな声はまだ聞こえてくる。
 俺が帰るころにはもう誰もいないんだろう、いわゆる一家団欒の時間と言うものだ。
 子どもは家に帰り、帰れば母親が出迎えてテレビを見たりして過ごして、夕ご飯を食べて父親が帰ってきて、今日会ったことを言ったりじゃれたり、きっと楽しい夜の時間になるんだろうな。
 俺もそんな子どもだったんだろうか、普通に友だちと遊んで両親から愛を受けて、一緒にいることを喜んでいたんだろうか。
 今ではそれを調べる術もない。
 家族としての両親を知っているのは記憶のある自分だけだから。忘れてしまった俺には分からない。
 前のところにいたときは気にならなかったことが、こちらで少し歩いているだけでそんなことを考えては消えるんだ。
 前の綺麗なだけの家と周りの目ばかり気にするような学校の環境と責める彼と祖父の目がないせいだろうか。

 前のときよりも、今のほうが少し、優しい気持ちになれる、からだろうか。なんて。

 何故か今まで思ったこともないことを考えてしまった。
 さっさと、最寄り駅の確認をして買い物をして帰らないと暗くなる。
 取り払う様に首を振って切り替えて、歩くスピードを上げた。視界に大きな文字で『スーパー』と書かれている大きな薄紫色の建物が見えたので、あそこが買い物するところか、と確認しつつ先に駅へ行くため曲がった。
 なにかを誤魔化すように無理矢理思考を変えて歩みを進めた。

「……透?」

 まさかそんな俺を公園から出てきた『誰か』が、じっと見て『俺』の名前を呟いて呆然と見ていたことは知らない。
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