3章『やらない善意よりやる偽善。』


「……変わられましたね、透様」
「俺もそう思います。」

さっきまでの刺々しく冷たい空気が消え、穏やか……と言うかいつも通りの雰囲気に戻った。

「……知らないことを知るのも、知らないでいようとしたことを知るのも相変わらず今も怖いです。」
「……」
「でも、それ以上に俺は逃げたくないんです。
この選択が自分を……相手を傷つけてしまっても……。」
今までなあなあにしておいて、今まであえて目を逸らしておいて、それを聞くとなれば自分はもちろんだが相手の傷を深める可能性があるというのは承知の上で。自分のエゴだと言うのはわかってる。
でもそうしないと俺は前へ進めない。
自分があのときどう思われていたのは、俺は知らないといけない。

「……透様の覚悟はわかりました。
そこまで見せて頂いておいて何も話さないとなれば私が香様たちに怒られてしまいそうですね。
腹括って話しましょうか、お互いに。」
「はい。」

とりあえずは透様もお座り下さい、と促されて初めてトイレから戻ってきて以降自分が座っていないことに気付いて、まだ少し緊張しながら椅子に座った。

「……透様が記憶を失ってしまうより先に私……いえ私達は灯吏様香様、あなたのご両親が亡くなったことを先に報告を受けておりました。
無礼を承知でお伝えしますが、正直言うと透様だけが唯一生きていることを知らされた当初はあまり関心が無かったです。」
「……。」

申し訳さそうに九十九さんは言っているけれど、正直俺も予想はついていた。

やっぱり、父さん母さんが亡くなったことへの衝撃はそうそう治せるものではないだろうし、俺なんかより親密な関係だったのだから想像しないわけではなかった。
俺は確かに九十九さんから見て子どもだけど、そこまで小さな子どもでもないから自分のことを一番に考えてほしいなんて喚くことはない。
特に動じずに話の続きを無言で促す俺に、九十九さんも無用な気遣いだったかとまた困ったように眉を寄せて話を続けた。

「私は医師との手続きがありましたので透様が起きられ記憶喪失となってしまっていることに立ち会われたのは透様の意識が戻らないことを心配した健様と雄哉様のおふたりです。
ですので私が透様が記憶喪失であることを知ったのは、健様たちが透様に言いたいことを言い放った後のことでした。」
「……あのときは、感謝してます。」

もちろん覚えている。
目を開ければ見知らぬ大人の男性2人が俺のそばにいて、俺の事を心配そうにしていたのを見て『あ、信頼できる人たちなのかな』と無意識にそう思った俺は2人に聞いてしまったんだ。
『自分はだれですか?あなたたちは、だれですか?』と。
そんな俺の疑問に答えられることはなく2人のその豹変っぷりに驚いて、見下ろされて怒鳴られて……ただただ恐怖だった。
突然の怒鳴り声に落胆の声。
『香と灯吏に愛おしまれて暮らしてその上自分は庇われておいて当の本人はすべてを忘れてしまうなんてなんて子どもだ!』
脳裏にこびりついて離れない言葉と視線。今だって鮮明に思い出せる。
扉越しから聞こえてくる怒鳴り声に看護師がとにかく2人に出ていくよう説得して、部屋から出ていったあとで九十九さんが来て俺が知りたかったことを教えてくれた。

「……どうして、透様が私に感謝するのです?」
「?記憶を失って何も分からない俺に状況を説明してくれたからです。」

淡々としていたけれど、当時の俺にとっては九十九さんの対応は有難かった。
さっきまでいた男性2人には怒鳴られて、怒鳴られたことと記憶を失ったことに哀れむような視線をやってきた医者や看護師に送られて苦しかったから、動じずに淡々としている九十九さんの態度に俺は確かに安堵していた。

「普通私のこと、責めるでしょう。」
「俺が九十九さんのどこを責めるんですか?」

不可思議なものを見るような視線を送られて首を傾げる。
感謝こそしても、責めるべき点は本当に見つからない。
意味が分からなくて聞き返す。

「……その健様たちに責められているときに私がいればすぐ引き離せたのに、どうしてそこにいてくれなかったのかとか。
今までも、現在でもどうして私が健様や雄哉様のしていることを止めないのだとか。
色々とあるでしょう?」
「……考えたこともなかったです。そういえばそうですね。
でも、祖父や桐渓さんがしていることを止められない理由はきっと九十九さんにはあるんですよね?九十九さんはやっぱり悪くないと思います。」

俺ではそこまで考えはつかなかった。
でも結局のところはもしもの話であって、いなかったことを責めるべきだとは思えなかった。それに九十九さんがもし俺への対応をなんとかしたいと思っていても、彼は祖父の秘書らしいし強くは出れないだろうし、桐渓さんも詳しくは知らないけれど母さんの幼馴染と言っていたからきっとどこかのお金持の人なんだろう。きっと色々あるのだろうと考えていた。

「一時期いたカウンセラーの人とか、親戚の人とか……不自然に身体に触れられて不愉快だったでしたけれど、九十九さんが見つけて以降来なくなったので、あなたは何も言わなかったですし聞いても何もしていないの一点張りでしたが……きっとなにかしてくれたんですよね?」
「……。」
「もう祖父も亡くなって記憶のない俺のことをみる必要なんてないのにそれでも見に来て、こうして食事に誘ってくれたのも嬉しいです。
ありがとうございました、ありがとうございます。
お礼、言うの遅くなってすいません。」

俺自身九十九さんに言いたいことがあった、それはこのことへのお礼と謝る言葉だった。
あのとき何もしていないと言われて俺は何も言えなくなってしまった、彼が何かしてくれたのは分かっていたのに。
俺はなんて言って良いのか分からなくて、何もこのことへ何も言えずにここまで来てしまった。
でも、今は違う。
されて嬉しくて俺の状況を改善してくれた九十九さんへ向けるのは感謝の言葉と、感謝の言葉を言うのを遅くなってしまったことへの謝罪の言葉を言うべきなんだってようやく分かったから。
軽く頭を下げて自分なりの誠意を持って言いたいことを言えた。
それで少し胸あたりが軽くなったような気持ちになりながら顔を上げる。

「……。」
「……九十九さん?」

何故か手のひらで顔を覆い俯いていた、しかも時折小さなため息が何度か聞こえてくる。
……余計なことを言ってしまったのか不安になった。

「……ああ、すいません。透様の純真さといいますか、真っ直ぐさというのでしょうか、今の私には眩しすぎまして。
……ええ、いつもいつも性根の捻じりに捻りまくって曲がりすぎて逆に自分が真っ直ぐだと信じて疑わないくそったれ爺どもを宥めて相手にし続けていたせいかこの少年の純粋さが素直と綺麗さが羨まし過ぎる……本当、あいつら早く逝かねえかな……。」
「……大変、なんですね。」

後半は声が小さすぎて聞き取れなかったが、とにかくいつも忙しそうなのは伝わってきたので無難なことしか言えなかった。というかこれ以上踏み込むといけない気がする、俺の勘だからあまり頼りにならないけれど……。
しばらくそのまま沈黙が続いた後、ようやく顔を上げ誤魔化すように咳払いをして目を合わせた九十九さんの表情はすでにいつも通りだった。

「……失礼しました。
私には身に余る言葉である上当然のことをしているまでですが、それはそれとして透様の言葉は素直に受け取らせていただきます、今後も精進いたしますのでよろしくお願いします。」
「あ、いえ、こちらこそ……。」

俺のしたとは全く違うきれいなお辞儀をされてしまう。
言葉も綺麗だ、さすが秘書……というか社会人だからだろうか?俺もこういうスキルは身に付くのか心配になる。そういえば九十九さんっていくつなのだろうか……俺が小さいころから変わっていない気がするが……。

「話が逸れてしまいましたね、申し訳ございません。
話をする前散々脅すようなことを言っておいてあれなんですが、当初関心が無かったようにあまり今もあなたの記憶喪失について健様や雄哉様のように深く追求したいとか責めたいとか……特に考えていないんですよね。」
「そう、なんですか?」

てっきり母さんの世話係と言っていたから色々と俺に思うことがあると考えていた俺には予想外な答えだった。
……母さんのこと、なんとも思っていない、のかな。そうだったら悲しいような……。
「いえ、香様も灯吏様も大事な方々ですから、亡くなったのは少なからずショックでしたよ。特に香様は幼少期から知っていましたから……。」
「……そうですか。」
そう言われて少し安心した。
暗くさせて申し訳ないけれど、それでも俺に記憶のない母を知っていて想っている人が目の前にいるのが嬉しいような変な気分。
桐渓さんだって母さんのことを想っているかもしれないけれど……それだけではないように感じるから九十九さんとは少し、違う気がする。
九十九さんは桐渓さんよりももっともっと穏やかな感情だと思う。

「香様と灯吏様と健様とで話している間私はその横におりましたが、本当に……香様と灯吏様は透様の話をされるとき幸せそうな顔をしていたんです。
そして透様には幸せになってほしいと仰ってましたよ。心底、愛おしそうに赤ん坊だったあなたを抱いてしました。
『自分たちよりも何より誰よりも幸せになってほしい』そう確かに仰ってました。
私の記憶に間違いはありません。
あなたは確かに記憶を失っております。
ですが、たとえ透様が自分自身のことが分からず不安であろうとも、あなたは一ノ瀬透という人間ということはここで宣言します。
私は香様と灯吏様の大事なご子息、透様のことを必ず守り通したい、そう思って昔も今もこれからも……守っていきたいと考えています。
記憶が失ったままでも戻ってきたとしても、私の意志は変わることはありません。」
「…………。」
「私はそもそもあの事故自体不自然なものと考えております。
あなたを庇って亡くなったと言ったのは親戚の誰かが言い出したことであり確証はありません、でも証言できる人間は誰もおらず監視カメラなども無かった場所でしたのでいつかそれが真実として受け止められているようになってしまいました。
今でもこちらで捜査を続けていますので……あなたが信号無視をするなんて私には考えられませんし、雄哉様ならいざ知らず香様たちがそういった躾をするとは到底…………透さま?」

九十九さんが何か話してくれているのが聞こえてくる。
聞こえてくるのに、ほとんど耳に入らなかった。
ただ俺の幸せをふたりは願ってくれたことと記憶が戻らなくてもそれでも九十九さんは俺から離れないことだけはちゃんと聞こえていた、そこまで聞いてこれ以上は俺は聞超える声を処理することができなかった。
頑張って耐えようと思って俯いて拳を作ってみたけど、それでもあふれる感情は抑えきれなかった。
いつまでも反応のない俺に不思議に思った九十九さんは話していた言葉を途切れさせ様子を見られているのが分かっても抑えきれなかった。

「……っ……」

どれだけ我慢しようとしても涙は溢れてしまうのだからどうしようもない、一種の開き直りに近かった。
だって、嬉しかったんだ。
九十九さんがどんな俺でも守ってくれる意志があることや一ノ瀬透であることを認めてくれたことへ、ではなくて。

伊藤の言っていた両親は俺に幸せになっていたという発言は伊藤の発言を知らないであろう九十九さんも同じようにそう言ってくれたおかげで絶対に嘘ではなくそれは確固たる真実であることが分かったから。

伊藤が嘘をつくなんて考えもしなかったし、もちろん信頼していたけれど。
それでも、伊藤との会話を何一つ知らない九十九さんがまたこうして言ってくれた。
俺は、本当に父さんと母さんに望まれて愛されて……誰よりも幸せになってほしいと願われてきた2人の子どもだったんだって知った。
嬉しくて仕方がなくて、悲しいことを我慢して泣くのを我慢はできても嬉しいことはやっぱりどうあがいても我慢なんて出来やしない。


「……透様、私はもう1つ謝らなければならないことが出来ましたよ。」


しばらく俺の様子を向かいの席で伺っていた九十九さんが、いつの間にか俺の隣に来ていて俯く俺に少しでも目を合わせようとしているのか威圧感を与えさせないようにとの配慮なのか、その場に跪いて声をかけられた。
泣くのはやっぱり止められなくて、でも九十九さんがどんな表情をしているのか気になって泣き顔を見られないよう手で覆い隠しながらも視線だけはそちらへ向ける。
今まで見たことのないほど穏やかな表情で俺を見ていたことに驚いて涙が一瞬止まったが

「貴方は……記憶を失った次の日には無表情で、あまり話さなくなりましたね。
記憶を失う前から貴方は感情の起伏があまり無い子でしたから、すぐに切り替えることが出来る強い子だと、思ってました。
いえ、私……大人たちは全員そう都合よく解釈して思い込んでしまったんですね。
どれだけ健様や雄哉様にきついことを言われても、どんなことをされても無表情でいたのでこれぐらいならば大丈夫なのだろうと判断していた私が間違っていました。
……子どもが、あんなことをされて平気なはず、ありませんよね。
異常な空間が普通になっていた私たちではそれに気づくことも出来なかった。
あなたはずっと……耐えてきたんですね。ようやく、知りました。
気付くのが遅くなって…………ごめん、なさい。」
「〜〜〜っうぅぅぅぅぅ……!!」

振り絞るような心底後悔している低い声の謝罪とともに訪れた頭への衝撃にさっきまでは我慢出来ていた声も嗚咽さえも我慢出来なかった。
謝り慣れていないごめんなさいの言葉だとか、軽く撫でるようにしかったのが力加減が出来ず少し頭が痛いぐらいの衝撃が、九十九さんの不器用な優しさが伝わってきて涙腺が刺激される。

そして気がついた。

俺は自分が傷つくことを恐れるあまり、誰にも相談することなく自己完結していたことに。
誰にも、自分の本心を打ち明けずにいたということに。
祖父や桐渓さんが駄目だったとしてもこうして九十九さんに話してみるなり、それこそ当時の担任や隣の席の子にだって話しかけてみればよかった、ちゃんと言えばよかったんだ。

ひとりは嫌だって、寂しいって、悲しいって。
ちゃんと伝えていれば、あのときの俺の世界はもう少し優しかったのかもしれない。

……でも、伊藤たちと出会えていなければ俺はあのままだったから。
誰にも傷つけられないように、何も気づかないようにしていた臆病者で弱虫のままだった。
こうして九十九さんにようやく本音をぶつけられるようになったには、ここに北から。
伊藤に、会えたから。
目の前の九十九さんの手を痛いほどに握りしめて涙を流しながらそう思えた。
伊藤のおかげで、そう思えたんだよ。




「本日はありがとうございました。」
「……こちらこそ」
「ちゃんと目を冷やして眠るんですよ?明日夏祭り行くのでしょう。」
「……はい。」

ひしゃげた声の俺に微かに苦笑いされた。

あのあと声が枯れるほどに泣きながら今まで思っていたこと感じていたことをぶつけた。
九十九さんは穏やかに俺の言葉を聞いて、九十九さんが感じていたことも話してくれた。
義務的にしていたのはどのぐらいの距離感でいるべきか悩んでとりあえずのつもりの対応が俺がいつも無表情でほとんど無口でいたのを見てこのぐらいのほうがいいだろうあまり干渉しないようにしたほうがいいかもしれないと判断したのだと。
「俺は決して四六時中見てほしい構ってほしい訳ではないですし、仕事のことよりも俺を優先してほしい訳ではないです、負担になりたくはないです。
だけど、もう少しだけ言葉がほしい、です。」
思った通りの言葉をそのまま伝えれば
「そうですね。
……お互い、もう少し言葉を出し合いましょうか。」
そう言って不器用に笑ってくれた。
少し歪な笑顔につい俺も笑いながら「はい」と答えた。
その後会計をいつの間にか済ましてあったようでそのまま車に乗って、ポツリポツリとだが色々話した。行きのときの道とは違う、緩やかなカーブが多くて車通りの少ない道を通った帰り道はゆっくりした運転とともにゆっくりと会話した。
俺のことを前から知って支えてくれる大切な友だちが出来たこと。
友だち同士が喧嘩して慌ててしまったこと。
国語の期末テストに名前を書き忘れて補習を受けていること。
他にも友だちが出来てこの間はみんなで海に行って、明日は夏祭りにも行くということも。
俺の話は今までの俺を知っていた九十九さんは予想外なことばかりだったみたいで、運転中なのに目を見開いて俺を凝視していたときもあって怖かったので肩を軽く叩いて意識を戻させたりしてハッとした顔をする九十九さんに親近感を覚えた。

「近いうちまたご連絡します。
透様もなにかありましたら気軽にご連絡してください。」
「はい……ありがとうございました。
いろいろ、話を聞いて貰って。忙しいのにすいません。」
「いえ、透様のことを知れましたし楽しかったですよ。
また食事に行きましょうね。」
「……はい。」

またああ行った店に行くことになったのに少し身構えてしまう。
俺の反応にどうしました?と首を傾げられたがなんでもないと首を振る。
……今度、九十九さんと食事をするときはこちらから希望を伝えよう、そうすればきっと考えてくれる、はず。
お互いちゃんと言葉にしよう、と約束したがこれは言い出しにくかった。
幸い九十九さんはそうですかと特に気にした様子はなかった。

「今まで言わなかったですが……私も透様のこと心配してます。
ですから何か困ったことがあれば相談していただけたら……嬉しいです。」
「……。」
「夏休みだからといって夜ふかしはせずちゃんと眠ってくださいね。それでは。」
「はい、また。」

白くて大きな車が遠ざかっているのを見送って、階段を上り自分の家の鍵を開けて入って
外から誰も入れないようしっかり施錠した……と同時にずるずるとその場に座り込んだ。
足が震えている。
さっき階段を上がるのも苦労した。なんとか家まで大丈夫だったけれど、入ったらもう駄目だった。
本当はとても怖かった、なにを言われるかわからなかったから。
それでも逃げたくなかったから聞いて、何を言われてももし傷ついてしまってもそれでもちゃんと聞こう、聞かないといけないと奮い立たせてた。
……、
「よかった。」
嬉しかった、想像以上だった。
俺のことを考えてくれていた、父さんたちのついでぐらいにしか思っていないだろうと想像していたから、俺の身を心配されて驚いたけれど嬉しかった。まだ心臓がバクバク鳴ってて手まで震えてきた。
「スー……フー……。」
落ち着こうと深く呼吸を繰り返す。
まず、俺がすることはさっき指摘された通り目を冷やすことだろう。
そう思ってゆっくりとその場から立ち上がると、ガシャっと何か落ちた音が聞こえて目を向けると携帯が落ちていた。
ポケットから落ちてしまったらしい、拾い上げるとランプが点滅していることに気付いて携帯電話を開く。吉田からのメールだった。
あ、そうだ。明日どう合流するかまだ計画していなかったことに気がついた。
十中八九明日のことだろう。
目を冷やすついでに少し頭も覚ましておこう、ちゃんと頭が回る状態にしないと計画をたてることも上手く出来ないだろう。

「……。」

携帯電話をしばらく凝視して、迷った。
なんだか、無性に伊藤と話したいと思ってしまう。
今日こういうことがあったんだと報告したかった、伊藤の力を借りずに話せたんだって。
伊藤と会えた俺だから今日話せたんだと、ありがとうと言いたかった、けど。

「……明日に、するか。」

今言わなくたって、明日も会えるのだからそのとき言えばいいんだ。
明日の夏祭り後にだって話せる時間はある。そう甘く考えて、携帯電話をポケットにしまって洗面所へと向かった。
鏡に写った自分の腫れた瞼を見てこれはヤバイと慌ててザバザバと濡らしまくった。
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