3章『やらない善意よりやる偽善。』

(とは、決めたものの……。)

トイレ(俺の知っているトイレとは違って随分広くて綺麗だけど)で深いふかーーい溜め息を吐いた。
肩を回すとゴキゴキゴキッと鈍い音が鳴った、緊張からか筋肉が強張っていたようだ。

何だか、別世界だった。
でかいロビーには噴水に始まってよくわからないライオンの置物とか絵画とか置いてあって少し待つよう言われたからそれらを見てもよく分からなかった。芸術ってなんだろうか。
そもそも良さが分かっていないのだから当然か。
黒を基調とした制服を身にまとった人と九十九さんが話したかと思えばすぐ移動、これまたアンティーク風の模様が刻まれた高そうなエレベーターの扉へと案内される。
ロビーの床はたぶん大理石で、その後歩いた廊下からエレベーター内部まで暗めの赤い絨毯でサンダル越しでもふかふかしていた。……自分の履いているサンダルと敷き詰められた絨毯の差が酷い。
通された部屋は本当に俺と九十九さんしかいなかった、幸いそこまで広いわけでなかったけれどロビーに置いてあったのと同じライオンの置物があってなんだか疲れた気持ちになる。
よくわからない模様の背もたれをしたふかふかな椅子に座ればすぐさま飲み物は何にするかから始まって適当なジュースにすればすぐさま飲み物とともに前菜から始まってその料理を食べ終えて次の料理が運ばれてくる。
おいしい、とは思う。
肉なんて口の中にすぐに溶けてしまうほどの柔らかさだったし、サラダも綺麗に盛り付けられていてソースは料理人のひとがきっと計算されたところにかかっていたし、手が込んでいるのは分かった。
デザートには鶴の形の繊細な飴細工が飾られているチョコレートケーキが出てきた、美味しかった。
たぶん俺が食べたもののほぼ全ては近所スーパーはおろか駅前のデパートでも買えないもので、一般家庭ではきっと手が出ないほどの値段なのだと思う。
九十九さんが支払うと言っているから値段の心配はしなくてもいいとは思う、けど。
お腹は満たされたはずなのになんか物足りなさを覚える。
あと、なんだか堅苦しい。
息が詰まりそうな空間だった、慣れていないせいだろうか?
この間海に行ったときに貰ったたこ焼きだとか伊藤が作ってくれたオムライスやゴンさんが出してくれた肉丼のほうが美味しいと思えてしまうし、ワイングラスに入った濃い葡萄ジュースよりも家で作り置きした麦茶のほうが飲みやすいと感じるし、上品で小さなチョコレートケーキよりも最近CMでやっているファスト店のクッキーの入ったアイスを食べたい、なんてことを思ってしまう自分は異常なのだろうか。
何より前までは何の感情もなくそこにいて何の感想もなく口に運んでいた前の自分に今の自分が驚く。
伊藤と会うまでは、なにも感じないようにしてきたからだろうか。

……伊藤から少し離して自分のことを考えてみようと思っているのに、すぐに連想させてしまう。
『俺』という人間はきっとほぼ伊藤の存在で構築されていると言っても過言ではないのかもしれない、そのぐらい『俺』のなかで伊藤はとんでもなく大きな存在……大きすぎて、しまうんだとおもう。
(少しずつでも俺はちゃんと自分がするべきこと、しなくてはいけないことをしないと。)
それは、俺が今の今まで逃げ続けていたせい。
弱虫な、自分のせい。
それを自覚しておいて今まで逃げていた。
もう辞めよう。
トイレの割には随分と綺麗で少し重たい扉を開けた。

誰に対してもちゃんと俺は『一ノ瀬透なのだ』と胸張って言えるようになるために。



「お戻りになりましたね、そろそろ帰りましょうか……。」
「九十九さんは、俺の記憶がなくなった直後どう思っていましたか。
今現在はどう考えて、いますか。」

戻ってきた俺に九十九さんは声をかけてくれたけれど、俺は声そのものは聞こえていたけれど何を言われたのか聞こえなかった。結果として無視する形になったがそれに後悔出来るほど器用なことは出来ない。
聞き取るほどの余裕がなくて、聞き返すことなんて考えもない。
震える声と楽なほうへ逃げてしまおうと言う甘やかす脳内。
それらを抑え込んで九十九さんに今まで聞いてみたくて、聞いてみたくなかったことを聞いた。
記憶がない俺のことを、どう感じているのか。
九十九さんは今の今まで俺のことを責めることは無かった。
俺が記憶喪失となった直後にはすでに淡々と起こったであろうことを教えてくれたし、激昂する祖父と桐渓さんを宥めることもあった。
褒められたり表立って庇われたことはないけれど、それでも俺に気にかけてくれて一時期家によく居た親戚の人が俺に触れているのを目撃して以降は見ていないし……あくまでも義務的で表情の変化も乏しいので完全に俺の味方ではないにしても、それでも憎しみと悲しみを向けられ続け友人もいない生活のなかで、九十九さんの存在は当時の俺にとってありがたい存在だった。
『人間扱い』をしてくれる存在がいてくれたから、俺は完全に気が狂わなくて済んだんだと最近気がついたんだ。
……そんな九十九さんは、本当は俺のことをどう思っていてどう感じていたのか、気になっていた。

「どうしてそんなことを聞くんです?
わざわざ透様のことを私がどう思っているのかなんて聞かなくてもいいのでは?
それに私が答えて透様を傷つけるようなことを言ってしまったら、どう受け止めるおつもりで?」

丁寧な口調で吐き捨てるように投げかけられる。
雰囲気が変わったように見える。
切れ長の目が俺を射抜くように見つめている。
身体がひやりと冷えた。
逃げたい、でも、逃げたくない。

九十九さんに聞かれたことは……俺も考えてた。
親切にしてくれていた無意識に心の拠り所のようにしていた九十九さんの内心がもしかしたら憎くて仕様がないけれど、それこそ本当に義務として俺の面倒を見ていただけだと言われてしまったら俺は立ち直れないほど落ち込む、とおもう。
母さんの世話係もしていた、と教えられたから死因となった俺に思うところがないわけがないだろう。

「……もしかしたら、泣いてしまうかもしれないですね。」
「……あなたが、ですか?」
「俺は案外泣き虫ですよ。」

驚いた顔をする九十九さんに苦笑して答える。
初めて会ったその翌日に……伊藤に泣かされるぐらい。
ずっと、ずっと泣きたくて仕方なくてでも泣いても受け入れてくれる人なんていないから、俺が悲しむこと自体死んでしまった両親に申し訳なくて出来なかったから。
ああ、でも。
そういえば俺が泣いたのはあの病室で目を覚まし記憶喪失が分かって詰られたあの日、それだけだった。
あれ以降泣いてもどうしようない、泣くこと自体烏滸がましい、そんな意識が強くて泣くことを我慢していたから。
泣かない俺に、周りがどう感じていたんだろうか。そこまで考えつかなかった。
……聞きたいこと、増えたな。

「それでも、聞きたいんです。
もう知らないフリをするのを辞めたいから……。
俺が、ちゃんと一ノ瀬透だって胸張って言えるようになりたいから。」

真っ直ぐに驚いた顔をしていたけれどすでにいつもどおりの無表情でいる九十九さんの目を見据えて言い切った。
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