3章『やらない善意よりやる偽善。』

「あの」
「うん。」
「自分の価値観が、自分の存在がよくわからなくなったとき……岬先生ならどうします、か?今まで信じていた存在理由が一緒にいる人の影響で変わっていただけで、自分自身は何も変わっていなかったかもしれなくて、本当の自分が分からなくなったとき、どうしますか?どうしたら……自分は自分だと言えます、か?」

今、俺は俺が分からない。
何をすれば俺なんだろう、何をしたら俺じゃなくなるんだろう。
今自分がしたいことは本当に自分がしたいことなんだろうか、自分のことなのに自分を疑ってしまう。何よりも自分が信用ならない。……記憶喪失はたぶん関係なく。
ぎゅうっと膝をまた抱え込んで岬先生の様子を伺う。

「……うーん……そうだなぁ……そういえば僕も散々一ノ瀬くんぐらいのとき悩みまくったけれど、結局今も答えは出てないなぁ。」
「え」
「ああ、頼ってくれたのにハッキリした答え出せなくてごめんね!」
「いえ、そこはぜんぜん……意外、でした。」

岬先生の態度見る限り嘘をついているようにもはぐらかしているようにも見えない。
困ったように眉を寄せて昔のことを思い出しながらも解答は未だ出ていなかったことに落胆したのではなく驚いてしまった。
『大人 』である岬先生が。

「僕だって偉そうに『先生 』て名乗っているけれど、その実中身のほうは一ノ瀬くんたちとあまり変わりはないんだよ、一ノ瀬くんたちよりちょっとだけ先に生まれて先に生きているだけ。文字通り『先生』なだけ。
頭の良さは一ノ瀬くんのほうが良いと思うよ。」
「そんなことは.........。」

突然そんなことを言われてどう反応していいの分からない。
桐渓さんに言われたことはあるけれどあれは嘲笑と皮肉なだけで褒められた訳では無い。
神丘学園にいたときも言われたことはあるけれど純粋に褒められた訳ではなくて悔しげだったり無理して言われたりだった、だから岬先生のように当然のように自分よりも良いと認められて口に出されたことはなかったから、逆にどう受け取って応えていいのかわからない。

「あ、ごめんね。
僕がそう言ったら反応に困っちゃうよね!
とにかく一ノ瀬くんの疑問はみんながしてることだから、あまり気に病まなくてもいいんだよ。」
「……」
「……と言っても、一ノ瀬くんからすると色々複雑、だよね?」

言葉に出さずただ頷いた。
岬先生は俺の記憶喪失のことを知っている。
きっと桐渓さんからも色々聞いているんだろうけれど、それでも親身になろうとしてくれている。

「一ノ瀬くんは記憶のこととか、ちょっとだけみんなと違うところも確かにある。
そこは僕にも否定はできない。」
「……。」
「でも、さっきも言った通り気に病まなくても良いんだよ。
胸張って自分は自分だって言い切れる人って人の方が極僅かだからね。大人も子どももみんなそうだよ。」
「……そう、なんですか?」

みんな俺にはない生まれてから今までの記憶がちゃんとあるのに、それでも『自分』が分からなくなってしまうものなのか。
俺の反応に苦笑しながら肯定する。

「そんなものなんだよ。そのぐらい不確定で不安定なものなんだよ『自分』って。
むしろ悩めるうちが花と言うか……段々そんな疑問すら抱かなくなってなあなあにしてそのまんま、て言うパターンのほうが多いんじゃないかな?
諦めちゃうんだよね、知らないままに生きてみんなと同じようになって無個性になっていく。
それを大多数は『大人』と呼んでいるよ、もちろんそうと呼ばない大人もいるけれどね。
僕ぐらいの年齢で自分はどこにいるのかって疑問に思う人はまだ『子ども』なんだと言われちゃうぐらい。」
「岬先生は……。」

今も答えは出ていない、とは言っていた。
岬先生も諦めて『大人』になってしまった方なのだろうか。……勝手なことだけれど、そうだと嫌だな、と思ってしまう。

「答えは出ていないけれど……諦めてはいないよ。まだまだ探し途中だから『大人』だからと言い訳に諦めてしまった人たちからすれば、僕はきっと『子ども』だよ。」

俺の勝手な不安は岬先生の穏やかなでも芯のある口調にかき消された。
となりに座る岬先生は俺の方を見ていなくてどこか遠くを見ていて懐かしんでいるような、自嘲しているような、どっちとも取れる笑みを浮かべている。

「大人になって思うけれど案外大人って『大人』じゃないんだなって思うよ。元に今僕は学生のときから変わっていない子どもだから。」
「……俺にはまだよくわからない、です。」
「あはは、僕が学生の頃も同じようなことを当時の先生に言われたけれど一ノ瀬くんと同意見だったよ。
まぁ月並みだけど一ノ瀬くんも大人になってみれば分かるよ。」
「大人がどうとか、俺にはやっぱりわからないです。
でも……俺から見た岬先生は、生徒のことをちゃんと見てくれる優しい先生で……誰よりも頼りになる『大人』だと思ってます。」

いつでも。
悪意や変な目で見られることしかなかった。それは同級生だったり大人だったり。
それは岬先生と同い年ぐらいの人からゴンさんぐらいの歳の人までの『大人』に。
俺のことを『子ども』とか『生徒』とかそう純粋に見られたことなんてなくて、前の学校のときの担任にも出席やテスト返却以外で名前を呼ばれたことは確かなかったように感じる。
九十九さんは俺に気遣ってはくれたけれど手放しで褒めたりスキンシップやコミュニケーションもそこまで取るような人だったから、だから口下手で感情表現も下手な俺に奇怪なものを見るようにも腫れ物を触れるような扱いをせずに、他の生徒と同じように接してくれるのがなによりも嬉しかったし、桐渓さんから俺を守ろうとしてくれたこと、色々と桐渓さんから聞いているのにも関わらずそれでも俺と話してくれて、こうして相談にも乗ってくれる。
岬先生の言う『大人』とか『子ども』とかやっぱり俺にはわからないけれど、俺から見た岬先生は大人のなかで一番頼れる人だと感じている。
もちろんゴンさんや五十嵐先生も頼れる人だと思ってるけれど……なんだろう、精神的に強いのかな。うまく表現出来ないけれどそれは『俺』が胸張って言えることだ。

「……生徒がひとりでもそう言ってくれるだけで……なりたい『大人』になれたとこんなに感じられるんだなぁ。」
「……?」

小さな声でなにか言っていたけれど、隣にいたにも関わらず全然聞き取ることの出来ないほどの音量だった。首をかしげて岬先生を覗く。
悲しそう……なわけでないけれど、すごく喜んでいるわけでもなさそうな複雑な表情。
人ってどうしてこういろんな表情を浮かべることができるんだろう。
俺の視線に気付いた岬先生は慌てて目を合わせた。

「ごめんごめん、それよりさ一ノ瀬くん自身の意見で言えたね。」
「……あ。」

そうだ。岬先生が頼れる大人だと思ってそう言ったのは伊藤でも桐渓さんも関係ない誰でもなく他でもない『俺自身』の意見だ。指摘されるまで気づかなかったけれど……。

「とりあえずはそういうところからはじめて行けばいいんじゃないかな?
まずは自分が何が好きで何が嫌いとか……誰にも聞かないで自問自答してみてそこから追いかけて行けばきっと一ノ瀬くんの求めている答えに近づくんじゃないかなって思うよ。」

……そっか。
たった今自分の意見を自分の意志で伝えられていたんだ。
自分がどこにいるのか、なんて俺だけが考えていると思い込んでた、だけどそれは『傲慢』だ。
俺が特別なんかじゃなくて……みんな、俺と同じように悩んで苦しんで……そして答えを求め続けている。岬先生も、探してるって言ってた。
何を以て自分なのか、何がなければ自分じゃないのか。
今は分からなくてもいつか答えを見つけたい。いつになるのか分からなくても、自分が何者なのかどうかちゃんと知りたい。

「確かに一ノ瀬くんの場合はほんの少しだけ特殊だけれど……でも、無理しないでいいんだよ。他の人に言われたからやる、とかしんどくなっちゃうからね。
自分のことを知りたいんだって、一ノ瀬くん自身の意志で言うのなら僕は止めない。
だけど一ノ瀬くんが苦しんでいるのを見るのが辛いと思っちゃう人がここにもいることだけは忘れないでね。」
「……はい。」

具体的に誰かを対象にしているかの物言いに、もしかしたら桐渓さんになにか言われたのではないかと心配してくれたのかもしれないと予想する。
前々から桐渓さんの俺への態度に対して非難していたからそう思ってしまうだろう。
当たらずと雖も遠からず、今回は桐渓さんに何か言われた訳ではないけれど前回の言動などで疑われてしまうのも仕方ない、だろう。
桐渓さんになにか言われたんだと岬先生は多分そう思っているんだと予想はついたから、それを訂正することも出来たし、梶井の名を出せばもっと岬先生は親身になってくれる、はず。


「……ありがとうございました。」
「ううん、少しでもスッキリしたのなら良かったよ。じゃあ次の補習で最後だから、最後までよろしくね。」

穏やかに笑う岬先生にコクリと頷いて、その場から立ち上がり軽く礼をして下駄箱までゆっくり歩きながらさっき岬先生から貰ったスポーツドリンクに口をつける。

桐渓さんに言われてきたことは確かに『俺』のことだけど、その瞳に映していたのは俺越しの『誰か』だった。『俺』は確かに原因だとしても桐渓さんの異様なまでの執着はその『誰か』と感じている。
桐渓さんが俺へ向けた言葉は確かに俺へ向けた責める言葉だったけれど『俺だけ』に向けている言葉じゃなかったから……正直『上っ面』と感じる。
うまく言えないけれどとにかく桐渓さんの言葉はこれ以上聞いても暗転も好転も出来ない、俺も桐渓さんも進むことも戻ることも出来ない、不毛な時間を費やすだけだ。
止めることが出来るのは第三者視点がいないときっと出来ないことだ、俺がいくら抵抗しても躍起になってしまうだけだから客観的意見が無いと彼が冷静になることも出来ない。今は無理でもいつかは少しだけ聞く耳を持ってくれるかもしれない……やっぱり、俺性格悪いのかな。なんだか心配して声をかけてくて善意を表してくれる岬先生を利用しているように感じてしまって罪悪感を覚える。だけど桐渓さんはきっとこうしないと止まってくれない……悩むけれど、とりあえず頼って、みる。

……梶井とのこと……言えばきっと味方になってくれるとは思うけれど、やめた。選択肢にはあったけれどすぐに言わないと決めた。
俺自身がちゃんと梶井と話さないといけないことだと感じたから。
ただただ伊藤の優しさを甘受してばかりで、過去に向き合わず逃げて楽なところにいようとする俺に苛立っていた。
自分自身自覚していなかった知られたくなかった……知りたくなかったところをグリグリと抑えつけられて、ゴリゴリと抉られた。本当のことを責められれば俺は何も言えない。
梶井に私情がなかったと言うには思い切り腹が立つと俺に向けて言っていたからそれは違うとは思うけれど。
梶井は『今の俺』を見てそう言っていたから。そう、言ってくれた。
梶井はちゃんと俺を見て梶井自身の意見をぶつけてきた。
それなら俺も梶井を見て俺自身の意見をぶつけるべき、だと思う。
今ここで岬先生を巻き込んでしまえば、きっと俺と梶井の距離は空いたままだしこのままなにも出来ないままでいるのも嫌だ。
俺自身の意志で、俺の意見を言わないと駄目だ。

「……今日、バイト休もう。」

補習が終わったらバイトに向かおうと思ったけれど、こんなぐちゃぐちゃな頭では逆に2人に迷惑をかけてしまいそうだから休むことにした。
明日以降頑張るから、と内心情けなく言い訳をして2人のそれぞれメールを送った。
吉田が上手く梶井を誘えたのなら次梶井に会えるのは10日後、夏祭りになる。
それまでに色々考えをまとめておかないといけない。
その前日には九十九さんと会う予定になっているから、少しでも聞きたいことを聞けるよう頑張らないと。
……伊藤の力を借りずに、自分自身の力で。
隠し事にするつもりはない、今はちょっと無理だけど後日俺の考えがしっかりと纏まったらこのことを伝えよう。
存在を認めてくれる伊藤がいるのは確かに心強い、でもだからといって『伊藤』のことばかり考えての行動はきっと俺自身は何もできなくなってしまうから。
今回は、できる限り俺だけで考えて実行してみたい。
突っ走らないよう気をつけて、空回りしないようにはする。
……かなり不安だけど、やってみよう。少しずつでも。
ぐいっと雑に額から出てくる汗を拭って駅のホームへ早足で向かう。
暑い、色々考えていて気持ちとしては忘れていたけれど身体はそんなことなかった、限界。今急げば丁度電車がくる頃合いで即乗れるはずだ。

知らず知らずのうちに握りしめたペットボトルがパキッと悲鳴をあげた。
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