3章『やらない善意よりやる偽善。』


マンションも海も窓もつり革も僕たちでさえ何もかもを陽が沈む直前の穏やかなオレンジ色に染められている。
どこか夢見心地に首を捻って窓の外を風景を眺める。ガタンガタン、規則正しい音が聞こえる。
行くときには気にならない音だったが、電車内に人が少なく乗っている人たちも海に行って疲れているせいか話声も聞こえないからか。
水に濡れたせいで僕も身体に心地よいだるさと眠気を感じるが、今は起きていたい気分だった。

陽も傾いてきてそろそろ帰ろうとその準備を始めたころに俺らが働いているところ連絡が来たと言った後『俺らの全員分の夕飯を用意することもできるけれどどうか聞かれているんだけどどうする?』と伊藤が僕らに聞いてきたのだ。
『え、おいくらで食べさせていただけるんです?』
『金はいらねーってさ。』
『まじで!行く、行こう!』
『おー』
無料と聞いた叶野が目を輝かせて僕らの意見を聞くことなく二つ返事で了承し、伊藤もその旨をもう伝えてしまって何の意見も言えなかった。
『湖越と鷲尾は、大丈夫か?』
『ん、連絡すれば大丈夫だ。』
『……分からん、ちょっと聞いてくる。』
意見を言えずにいた僕と湖越に一ノ瀬が気にかけてくれて、ようやく行動を映せた。断りをいれて家のほうに電話をする。
万が一父が出たらどうしようと普段この時間父がいることはまずないのだからそんな不安は無意味だったが、夕ご飯さえ友だちと食べに行くのが急遽決まったのも初めてのことだったせいで慌てていたんだ。
僕の不安は杞憂で母が出たのを心底安堵しつつ突然の電話に心配そうな母さんに「今日、夕ご飯食べてから帰る、から」と途切れ途切れに伝えれば『まぁ!いってらっしゃい、楽しんできてくださいね!』と心底嬉しそうに言ってくれてむず痒くなる。
大丈夫だった、とみんなに伝えると『良かった!じゃあ着替えて一ノ瀬くんたちの最寄りへそろそろ行こう!』と叶野の言葉で移動することが決まった。
あんなにいたひとたちはすでにまばらになっており、電車を待つ人も少なく僕たち5人が並んで座れるほどだった。
となりに座る叶野は既に眠っており、他のみんなも静かなのでたぶん寝ているのだろう。
寝息を聞きながら今日を惜しむ気持ちで窓の外を眺める、海が離れていく。

……初めて。
友だちと遊んで海に行って傍目を気にせずはしゃいでしまった。
いや、きっと叶野に海に誘われて言い訳をしてしまったが行くことになったときからすでに浮かれていたのだろう。
分からないことを聞くことは恥ではなく分からないままが恥となることは勉強するうえで最もな言葉であり僕は誰であろうとそう言ったことを質問することを恥ずかしさを覚えたことはない。
分からないことを知ろうとするだけなのだから平気だった。
『友だちと海に行く』と言うことのは僕がしたことのない未知の領域だ。
ただでさえ今の今まで交友することへの必要性を感じずひとり勉強し続けることに価値を見出そうとしてきた僕だ、幼いころなら何度かあったが10歳にもならないころの遊ぶのと今の僕の遊ぶのは違うことぐらいは分かっていたからこそ不安になる。
僕がいることでつまらなくないだろうか。
いつもの僕では考えられないことさえ過ってしまうぐらいなのだからきっと重傷だ。
自分以外の学生は友だちと遊ぶのは普通のことで、どう遊ぶかなんて意識することもないほどいつも通りのことなんだろう。
僕にとっての普通とは1人机に向き合い、分からないことがあれば教師や塾講師に聞いてはまた向き合うの繰り返しだった。
それが僕の普通の世界、だった。学校のある日も土日も連休も夏休みも冬休みも。きっとこのままずっと続いていくんだってそう予想していたけれど、今年は全く違う。
夏休みに入って補習もなくかと言って塾以外の予定もなく、やることがなく落ち着かなくて宿題に取り掛かったがそれは二日で終わってしまう。
仕方が無くてやっぱりいつも通り自習することにした。でも前のように集中は出来なかった。
今まで時間があるときは勉強に費やすのが普通だったから、勉強以外の活用方法が思いつかない。
悪いことではなく学生としての本分を果たしているわけなのだから大人から褒められることはあっても怒られることはまず無かった。
それは同級生も同じで疎遠されて皮肉られたことはあるが『悪いこと』をしている訳ではないから後ろめたいことは何も無く、努力も何もしないばかりの負け犬の遠吠えに過ぎず何の心に響くものではなかったからどうってことは無かった。あえてそのときの感情を表すなら『無』だったが。
だが、今は……よくわからないのだ。
正しさと言う観点であれば予習復習をすることは間違っていない百点満点の答えだ。今までの僕はその答えに満足していた。これでいいのだと信じて疑わなかった。
今日自分のしていたことは数か月前までの僕であれば『無駄なもの』と一蹴してきたものであり、馬鹿だなと見下し遠ざけてきたもの。
僕にはこんなことは必要が無いのだと何の感情も覚えずそれだけを思っていた。
思ってきた。
けれど今日実際にやって僕の感じているものは全く違うもので、むしろ全くの真逆な……。


「……何か、外に面白いものあったか?」
「!起きていたのか。」
「ん、まあな。鷲尾も寝たらいいのに。みんな寝てるし、乗り換えはまだまだ先だ。」

誰も話さず寝息ばかり聞こえていたから僕以外全員眠っているものだとそう油断して、物思いに耽っていたせいで当然隣から話しかけられて驚く。
声の主は叶野とは逆隣の人物、一ノ瀬だ。
薄い灰色の瞳は外のオレンジ色に少し染まって朱色っぽくなくなっているのを目前で確認出来て顔が暑くなった。

「お、前こそなんで起きてるんだ?」

最近一ノ瀬の存在がそこにいると分かるとどこかおかしい自分がいる。
顔を見ると頭がざわざわとなって落ち着かないし声を聞くと心臓が跳ねたような気持ちになる。
近くにいると尚更落ち着かない。……これだけ落ち着かない相手であるはずなのに夏休みに入って会う回数が減って一ノ瀬の存在を確認できない期間が多いと胸が焦がれるような感覚になる。
これはいったいなんだろうか。不快……ではないのだが。
声が上擦りながらも何故か情けないところを見せたくなくて冷静を装って一ノ瀬に聞いてみた。
幸い一ノ瀬は僕の異常には気付かず、無表情なのに少し弾んだ声で
「ん、鷲尾と多分同じ理由で起きてた。」
と答える。
「同じ?」
オウム返しになってしまう僕に特に不愉快になることもなく一ノ瀬は平然と答える。

「初めて友だちと海に行って、楽しくて楽しかったから……疲れて眠気はあるんだが、何故か眠ってしまうのが名残惜しい気持ちなんだ。もう少しこの気持ちに浸っていたい。」
「……楽しい……?」

嬉しそうに『楽しい』そう一ノ瀬に言われて目からうろこだった。

「……?楽しくなかった、か?」

いまいちの僕の反応に不思議そうに首を傾げる一ノ瀬。
楽しい。
叶野に海に行こうと言われて、泳げないからと断ったのに行くことになったとき口では色々言いながらも満更でもない気持ちになった。
僕にとって初めての経験は同級生たちは普通にしていることだ、そんな事実に少しもやっとしたがそれでも叶野に電話をした。
初めての僕が皆の邪魔にならないように。
恥を忍んで普通の遊び方を教えてもらおうとして……みんなに、楽しんでほしくて。
そこで叶野に「まずわっしー水着持ってる?」と聞かれて拍子抜けする。まず笑われることを覚悟していたからだ。その覚悟を決めるまでに時間がかかって叶野海に行く二日前に
予想外の返答に「持ってるが」と答えれば「それは昔小学校で使ってた水着だったり……?」と恐る恐る聞かれて肯定しようとしたが、まずあれから成長期で随分身長の伸びた自分に入らないのを全く考慮していなかったことに気付く。
自分のプライド以外何も考えていなかったのが分かってしまって落ち込みそうになる僕に
「じゃあ明日買いに行こうよ!俺も新しいの買おうと思ってたんだよね。」
と、明るく言ってくれた叶野に救われたのは誰にも言えない。
待ち合わせて店へ入って早速水着を物色していると、どこから持ってきたのか叶野が光沢の入った金色をした布面積の少ない水着(泳げばきっとすぐ脱げてしまいそうになりそうな)を僕に勧めてくるのを無視して黒地に白いラインが2本入った太ももを隠せるぐらいの長さの水着買った。
その後も叶野は笑顔で「このいるかの浮き輪よくない!?」「やっぱりビーチボールはすいか柄だよね!」とかで色々物色していた。
自分の買い物をすでに終えたのだから、周りの目を気にせず食いつく勢いで海の遊具のところで夢中になっている叶野を置いて帰る、という選択もあって数か月前であれば絶対にそうしていた。
でも、僕も一緒になって叶野と一緒に
「バナナ型の浮き輪もあるのか」「それ二人乗りだよーそれもいいね!迷うね~」と年甲斐もなく言い合う。
……そうだ、それに今日行くとき叶野に言われていた。
わっしーもたのしみにしてたんだね、と。
僕はそれを否定しなかった。そのときは叶野が五月蠅いと思ったのが強いから、としていたけれど……。
そうだ、僕はずっと海に行くのを楽しみにしていた。
アクシデントはあったけれど、昨日の借りは返せたと思うし友だちを助けるのに、理由は無い。
それよりもみんなで泳いでバナナ型の浮き輪に乗って、スイカ柄のビーチボールで遊んだのも……全部……

「……楽しかった、な。」

行くときには早く着かないかと何度も外を見ては楽しみにしていて、帰るときには遠ざかっていく海をじっと見つめて名残惜しい気持ちになるぐらい楽しかったんだ。
ようやく自分が感じていた感情と一ノ瀬に言われた感情と一致して随分待たせてしまったけれど一ノ瀬は気にした様子は無く僕の返答にそうか、と返した。
一ノ瀬も、同じだって言っていた。
今日が楽しくてみんなで眠っているなかで名残惜しくて起きてしまうほど、僕が同意したのを言葉少なにでも嬉しそうにしてしまうほど、楽しかった、のだろう。
一ノ瀬はずっと視線だけを僕の方を向けているため表情の全貌は分からない。
だけど横から見たその口角は上がっているのが分かって……なんとも言えない気持ちになる。

「……一ノ瀬」
「ん?」
「…………今度、遊ばないか。2人で。」
「俺と鷲尾と、で?」
「……ああ。」

そんな何とも言えない気持ちの勢いのままに気付けばそう誘っていた、口内が随分乾燥しているのが分かった。
喉が渇く。だけど鞄の中にあるお茶を取り出して飲むのは一ノ瀬の答えを聞いてからだ。
やはり嫌だろうか。
僕は叶野と2人で昨日買い物に行った、それなら一ノ瀬とも楽しいんじゃないかと思ったんだ。
だがいくら一ノ瀬が僕を友だちと呼んでくれてもやはり2人きりは嫌ではないだろうか。後悔がどっと押し寄せてくる。
一ノ瀬の考えていた時間はたぶん1分も無かったが返事が来るまでのあいだが僕にとって10分ぐらいに感じた。

「いいけど、俺と2人はおもしろくないとは思うが……。」
「……僕が2人で、遊んでみたい、から。」

それに僕だって面白味のない男だ。
本来なら叶野とかがいたほうが良いんだろうが……それでも、一回でいいから一ノ瀬と2人だけで遊びたい。そう思った、だから誘った。
眉間を寄せて苦い顔をしながら言われたのがそんなことだったので拍子抜けした。僕の答えに不思議そうにしながらも

「そうか。じゃあ、また後で具体的な日程を決めよう。」
「……っ!わ、わがっ、だっ!」
「大丈夫か?」

声がガラガラになって裏返って変な声になってしまった。
心配する一ノ瀬に手で大丈夫であることを伝えながら今度こそお茶を口に含んだ。

良かった。
一ノ瀬が考え込んでいたのはただ僕を楽しませるかどうか分からなくて考えていただけだったのだ。
……嬉しい。
友だちと遊んだのは昨日も入るのだろうか。
叶野といるのも楽しかったが突発で心構えがなく特に緊張することもなく一緒にいたが、一ノ瀬相手は何故か少し緊張する。
でも、一ノ瀬のことを良く知りたいと言う気持ちには抗えなかった。
いつになるのだろう、なにをしよう。そう浮ついた気持ちでお茶を飲んで隣を目だけで見た。

普通に当然のように一ノ瀬の肩に頭を預けて思いっきりいびきをかいて眠っている伊藤を視界に捉えて、なんだか胸がざわめいたのが不思議で首を傾げた。

……苛立ちに似ているような気もする。

「……それ、重くないか?」
「重い。けど気持ちよく眠ってるし起こすのもな……。」

一ノ瀬も重いと言いながらもさほど嫌そうにしている訳でも無さそうなのがさらに苛立ちが増した気がした。

「鷲尾も眠かったら俺に寄りかかっていいよ。」
「……や、それは。」
「そうか。」

恥ずかしい、だろう。
一ノ瀬からのせっかくの提案を羞恥で断る。
自分から断ったのにあっさり引き下がられて勿体ないことをしたような惜しいような変な気持ちだ。
それでも、たった今この瞬間メンバーの中で起きているのは僕と一ノ瀬だけでその上2人で遊ぶ約束もした。それだけで僕は胸がいっぱいになる。
賑やかではなくても一ノ瀬との会話は途切れることは無くて、隣で僕にもたれて眠っていた叶野が起きるまで静かにぼそぼそと話をした。

一ノ瀬が僕の話を聞いて相槌を打って……たまに静かにクスクスと笑うのを見ると嬉しくてもっと見たくなった。
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