3章『やらない善意よりやる偽善。』


伊藤鈴芽。
あの子と会ったのはこの店をオープンする1週間前で、8月の終わりのころだった。
鈴芽はボロボロな状態で店の前で倒れていたのを発見し手当てした。放っておいても冬じゃないから別に死にはしないとは思ったけれど……動けないくせにこちらを睨むのを辞めないのが気になってしまった。
喧嘩は辞めろ、とは言わなかった。
嫌がっても無理矢理服を剥いで手当てした。
そのまま放っておいたらいつの間にかいなくなっていた。特に金品は盗まれはしなかった。
それ以降自分もここに住むことになってあの子のことはよく見かけた。
駅前のコンビニの入り口のところで邪魔にならないところに座り込んでいたり絡まれていたり喧嘩したりしているところなどまちまちだったけれど。
そのどれもが共通しているのは、誰とも一緒にいることはなくただ1人でいたこととその強面に反して無口で無表情だったこと。
喧嘩するときだって声を上げることも痛みに顔を歪ませることもなく、ただ冷めているように見えた。
そのくせ殴る手は休まることはなかったし喧嘩には慣れているようでその身のこなしは見事のものだった。
ただ無言で無表情でたった1人で希望なんてなんもないそんな空虚な眼をしていた。
そんな子どもが段々と気になって仕方が無くて。

だから構い倒しまくった。

鬱陶しがられてもこちらは喧嘩を売っている訳ではないのは鈴芽も分かっているようで、うざいとかキモイとか言われても殴られることは一度も無かった。
警戒が少し解けたころにどうしてそんな自虐をしているかと聞けば、普段の彼にしては珍しく興奮した様子で一ノ瀬透の存在を教えてくれた。
そのとき、俺は確かに彼のことを信じてもいいんじゃないかと言った。
そうじゃないと、きっと鈴芽は自ら破滅しに行くと感じたから、気休め……ではないけれど鈴芽が少しでも呼吸がしやすくなればと思ったから。
鈴芽は俺の言葉にさらに激高したり怒りで真っ赤にすることはなく、こちらが驚くほど素直に受け入れた。
誰かにそう諭してくれるのを待っていたかのように、ストンッとあっさりと「そっか、そうしてもいいのか」といったのだ。

鈴芽の家庭の事情もよく知らないけれど、順風満帆なわけではないことだけは分かってここに住んじゃってもいいと言えるぐらい鈴芽を可愛く思えた。
相変わらず感情表現は乏しくて読めないけれどそれでも料理を作ったりこの店の手伝いすることを楽しく思ってくれていたようだった。
一応俺の助言で高校に行ったけれどあまり楽しそうに見えなくて何か学校でもなにかあったようで入学してすぐこの店の手伝いばかりするようになったからこのまま中退してここで働くことになるのかしら、と思い始めたころ。

「透に会えた!」

と、鈴芽の誕生日のあの日、そう嬉しそうに叫びながら店に入ってきたことを俺は絶対に忘れない。
あの鈴芽が笑っていたのだから。
子どものいない俺にとって鈴芽は息子のように思っていた。だから、初めてその笑顔を見て心底『良かった』と思うしぶっちゃけその日鈴芽が眠ったあと一升瓶抱えて泣いた。
けれど鈴芽から『親友の透』のことを聞けば聞くほど鈴芽は騙されているんじゃないか、と思い始めてきた。
『信じてみろ』とそう俺が鈴芽に言った手前その透を疑うようなことは言えなかったが……彼は誰もが認める美形とか元々名門校にいてそこで学年トップだとか……挙句記憶喪失で鈴芽のことを覚えていないとか。
美形とかはまぁ鈴芽の主観なので贔屓目で見てしまうだろうとは思ったが、それ以外はどこの漫画の王子様だ?と内心突っ込みを入れたことがある。
考えてもみろ、伊藤の通う高校は一般的な公立の男子高校でありそんな名門に通っていた子がしかも学年トップの子がそこに通うとかありえないだろ。
さらにありえないのが、記憶喪失だっていうところ。
絶対鈴芽を忘れた言い訳なだけだろう。あんなに待っていた親友がそんな子だったなんて、鈴芽が可哀想だ。
苛立ってしまいそうになるのを抑えるのにどれだけ苦労したか!
だが、鈴芽も素直ではあるが決して馬鹿ではない。
今はただ親友に会えた喜びで細かいことは気にしないけれどそのうちボロが出る、そうすればそのうち鈴芽とは疎遠になっていくだろうと思っていた。

でも結局夏休み入っても鈴芽はその透とのことを悪く言うことは無く、今度みんなで海に行くとかそう言っていた。
去年とかに比べれば学生らしく友だちと遊びに行ったりちゃんと学校にも行くようになって健全になった、とは思うが……どうしても、透という子が嘘をついているように思えてしまって、つい今日連れてきてしまったが……。
とりあえず、鈴芽の言っていることは本当だってことが分かった。
中性的で整った顔に艶やかな黒髪に硝子のような灰色の瞳の綺麗な男の子、すぐにこの子が透なんだと分かった。
これは鈴芽が贔屓していたとかではなくただの事実であったことも……話をしていくとこの子は嘘をつくような子とは思えなくて本当に記憶喪失なんだと言うことも分かった。
熱中症を起こさせた上に自分は馬鹿正直に本当は忘れていたんじゃないかって思っていたことを伝えてしまったとき、傷ついているのに納得しているような複雑な表情をされてすぐ後悔した。
記憶がなくなったことをただ忘れていただけなんだってきっと色んな人に疑われてきたのだろうと分かってしまうそんな表情を浮かべていたから。
少し想像すればそういうことをされたと言う想像ぐらい出来ただろう、と自分に苛立つ。
謝る俺に透は苦し気な表情を浮かべているのに、自分の反応は当然なのだと受け入れられてしまった。
子どもがそんな顔をしないでほしい。
理不尽なことに怒っても良い、駄々をこねるようにしたっていいのに。未だ子どもでしょう、そんな賢く生きようとしなくたっていいのに。
自分は透のことを信じず疑って勝手に鈴芽が可哀想だと喚いていたくせして調子の良いことを言いたくなったけれど、会いもしない透のことを疑った自分にそんなことを言える資格が無いって言うのも分かってしまってなにも言い出せなかった。

「それでも……伊藤は怒らないで……受け入れてくれた。
最初に会った日には、記憶喪失なんてただの言い訳になる、と思って。それすらも言わなかったのに。ただ謝るしかできなかったのに。」

自分の後悔ばかりしていて透の顔も見れなかった俺の脳にスッと透き通る声が聞こえてバッと彼の顔を見た。
静かに表情も変えず淡々と独白のような呟きだったけれどそれはとても美しく神聖なもののように思えた。
冷淡、とも見えるそのまるで無機質な彫刻かのように見えるほど端正すぎる顔もどこか穏やかに見えて、つい見惚れる。

「笑ってくれたんです。約束、守ってくれてありがとうって。
手を握って……笑って……そう、言ってくれたんです。
俺のことを『透』って言ってくれた、記憶とかそんなの関係ないって。」

透の声、言っていることが脳に静かに浸透していく。
頭で考えなくてもわかるほど彼の心は穏やかで暖かいものばかりがあって、そうさせてくれたのは……俺が信じれなかった透を鈴芽が信じた、から。
そして透を信じてくれた鈴芽を、透も信じた。言われなくたって分かった。
だって、こんなに幸せそうに頬を赤らめて微笑んでいるのだもの。

「……ありがとうございます。みっちぃさん。
伊藤のことを、大事に想ってくれて。俺がいないときに……いっしょにいて、守ってくれて。」


不思議な子。
きっと俺が思う以上にこの子は傷つけられてきたのだろうに。
きっと彼のことを知らないままの俺のように無神経に傷付けられてきたのかもしれないのに。
それでも、彼は俺に感謝する。
透がいなかったとき鈴芽のとなりにいた俺を。
透からすれば急に現れた女装していてかつ大凡見合わないであろう呼び名を呼ばせているおじさんなのだろうに、無神経なことを言うような変な親父なのだろうに。
軽蔑するような目じゃなく、ただ鈴芽の隣にいた人間として真っ直ぐ見据えている。
自分が知らない過去のことを知りたいと喚くのでもなく、俺に嫉妬するのでもなくただただ感謝の気持ちしか伝わってこなくて。
なんだか喉を掻きむしりたいような衝動にかられつつただ一言

「どいたま~!」

とわざとらしく茶化してそうとしか言えなかった。
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