3章『やらない善意よりやる偽善。』


「落ち着いたかしら?」
「はい。……伊藤は?」
「買い出しお願いしたわぁ黙ってってとおるちゃんに言われたのがショックだったみたいで固まってたけどねぇ~……。
とりあえず言う通りにしてあげましょ!て少し落ち込んでいたけれど納得はしてくれたわよぉ」

……それは申し訳ないことをした。
伊藤はただ自分の思っていたことを言っていただけなのに恥ずかしく……いや照れから、か……そう感じてしまって俯いた顔は上げられないし突っ込まれたくなくてつい黙ってくれなんて言ってしまったし……。

「すずめちゃんの言葉ってどこまでも真っ直ぐだから、照れちゃうわよねぇ。」

宥めるようにそう言いながら頭を雑に撫でられる。やはり大きな男性の手だった。
確かに、伊藤は俺に嘘をつかない。どこまでも真っ直ぐな言葉を俺にかけてくれて俺を見て笑顔でいてくれる。だから俺は伊藤を信じることが出来た。
……照れるか照れないか、と聞かれれば照れてしまうけれど。
未だ赤い顔なんだろうけれどさっきよりは落ち着いてきたから顔を上げて息を吐いた。

「ふふ……ほんとう、疑ってた自分が恥ずかしいわぁ。」
「……俺をですか?」

自嘲気味に呟かれた。
伊藤がどれぐらい俺のことを話していたのか分からないけれど、みっちぃさんからすれば俺は突然現れた人間だから、伊藤を心配して疑うのはきっと当然だ。
それでも敢えて聞いた。だって、みっちぃさんが俺のことを知らないように俺も……みっちぃさんのことを知らないから。
伊藤のことを大事に思っているのはさっき分かったし、伊藤もみっちぃさんを気が抜けられる相手だと分かった。
だけど俺のことをどう思っているのかはまだ分からない。警戒されている……とまでは行かなくても様子を見られているのは何となくわかる。だって俺も同じだから。
お互い何も知らない。お互い伊藤の関係者であると言うことと、お互い伊藤を大事に思っていること以外何一つ。

「……ええ、そうね。きっととおるちゃんがわたしに感じているのと同じよ。」
「そうですね。」
「否定しないのねぇ。」
「それをしてしまうと嘘になります。……嘘ついて得なことは無いです。」
「それもそうねぇ。」

伊藤がいる場では伊藤と同じぐらい親しい雰囲気だったが、今はただひとりの人間として様子を見られているのを感じる。
前まで酷く苦手で、今もあまり得意とは言えないこちらの腹の内を探るようなそんな目で俺を見る。
少し前だったら目を逸らして俺のなかを見られないよう懸命になっていたけれど、じっとみっちぃさんを見返した。俺だって、知りたい。
みっちぃさんから見た伊藤もだけど……

「……俺はみっちぃさんさえよければ仲良くしたいです。」
「とおるちゃんがそう思う理由はすずめちゃんのことを知りたいからかしら?」
「勿論、それも含まれます。だけどみっちぃさん自身のことも知りたいです。」
「……女装癖のおっさんの俺のことを知りてえのか?」

あ、疑われてる。
本音を言っただけなんだけれど。
みっちぃさんの声が異様に高いものから伊藤よりも数段低い、結構渋い声になったのに特に驚くことはない。こっちが素の声なんだろうし。むしろこの声の方が違和感はないとも思う。
驚いた顔をしているみっちぃさんの顔をじっと見ながら

「はい。」

特に葛藤も無く頷いた。
探るような目をこっちも真っ直ぐ見つめながら頷けば、まじまじと俺のことを見つめた後……笑った。

「ははははは!うん、とおるちゃんは素直な子だなぁ……。」
「そうですね。」
「表情の変化乏しいのにねぇ、そんなにすずめちゃんのこと好きなのねぇ。」
「……ええ。伊藤は……俺の親友、だから。」

好き。
……もちろん、伊藤は親友だ。それ以下はない。
でも、その上はあるのだろうか……。好きと言われるのは嬉しい、伊藤に親友と言われるのも言うのも容易い。
だけど、なんだろうか。胸がドクドクする。冷えるような凍えるような嫌な心臓のなり方は今までよくしていたけれど、伊藤といるときとかはもっと穏やか……いや、賑やか……?よくわかんない。

「ふぅーん?なんだか引っ掻きまわしたい気持ちもあるけれどぉ……すずめちゃんに怒られちゃいそうだしねぇ。きょうのところは辞めておきましょ!」
「?」
「んーんなんでもないわ!それよりなにか聞きたいことあるかしら?あ、もちろん話せる範囲になっちゃうけどね!」
「……じゃあ、伊藤が俺のことをどのくらい話しているのか……知りたいです。」

一番気になるところだったから、少し躊躇ったけれど聞くことを選んだ。
そこやっぱり気になるわよねぇそうよねぇとのんびりそう言って顎に手をやりながら思い出すように答えてくれた。

「そうねぇ~昔約束していた親友が帰ってくるのを待っててぇ……で、帰ってきた日なのかしら?すごく喜んでいたわよぉ。あんな全開の笑顔いや、笑顔って初めて見たかもしれないわねぇ……すずめちゃんが中学生のときから。
で、戻ってきたとおるちゃんが色々あって記憶喪失になっててすずめちゃんのことも忘れていたのも知ってるわ。
でもとおるちゃんには悪いけれど……正直、普通に忘れているだけなのを『記憶喪失』だって言ってごまかしているだけなんじゃないかって疑っちゃってたのよねぇ。
『記憶喪失』なんてドラマや映画とかでぐらいしかわたし見たことなかったからねぇ……。」
「……」

疑ってた、そう言われて少し胸が痛んだけれど(そう思われるのも仕方ない)と納得も出来た。
ドラマや映画とかでは在り来たりの題材だ。
ただ、現実ではあまり見ない……いや、身近には見ないだけでそれなりによくあることではあるらしいけれど。
部分的に記憶がなくなったりすることは多くは無くともそれなりによくあることではあるけれど、俺の場合は記憶のほぼすべてを失っている。
それも、勉学のことや日常生活に支障が出ることは忘れてはいないのに、俺という人間を構築するものすべてを忘れているのはかなり珍しいって。
自分の名前も自分の両親のことも自分がどんな人と関わってきたのかも……事故が起こった記憶も。
あまりに出来過ぎた記憶喪失によく疑われていた。
『事故を自分のせいに思いたくないから嘘をついているんじゃないか』と。
それを確認するために……ぶたれたり蹴られたり、祖父と桐渓さんにされたことを思い出してしまった。それをされた痕は残ってはいないけれど、されたと言う記憶だけは残ってる。

「大丈夫?ごめんなさいね、酷いこと言ったわ!」
「……いいえ、あまりに非現実的なことですから。そう疑うのも無理はないです。」

顔に出てしまっただろうか、みっちぃさんに謝られてしまった。
暴力は良くないけれど、疑われるのは仕方がないことだ。
特にみっちぃさんは伊藤と長い付き合いみたいだから、そう思われても仕方がないだろう。わかってる。
……普通なら。
ずっと待っていた親友がやっと帰ってきたと思えば忘れたなんて言われて……怒る、だろう。悲しむだろう、殴られたり蹴られたりしてボコボコにされたって仕方がないことなのに。

「それでも……伊藤は怒らないで……受け入れてくれた。
最初に会った日には、記憶喪失なんてただの言い訳になる、と思って。その事実すらも言わずに俺はただ一言、謝るしかできなかったのに。」

ただ忘れているだけ。記憶が無いなんて嘘をつくな、と言われてしまうだろうと……そう言われてきたから。
自分からは忘れてしまったとも知らないとも分からないとも言えず、ただ謝るしかできない出来なかった俺に……。

「笑ってくれたんです。約束、守ってくれてありがとうって。
手を握って……笑って……そう、言ってくれたんです。
俺のことを『透』って言ってくれた、記憶とかそんなの関係ないって、俺は俺だって。」

誰にも認められなかった、誰にもそんなこと言われたことなかった。
怒られても仕方が無かった。そうされるべきだとも思ったしそれが俺の罰なんだと受け入れるつもりだった。
だけど、伊藤は違ってて。
仕方がないってそう受け入れている俺を泣いて怒って、抱きしめてくれたんだ。
生きているのに生きようとしない俺にちゃんと生きてほしいってそう言ってくれた。
初めて、俺はちゃんと生きていたいとそう思えたんだ。

「……ありがとうございます。みっちぃさん。
伊藤のことを、大事に想ってくれて。俺がいないときに……いっしょにいて、守ってくれて。」

きっと、俺がいないとき支えてくれたのはみっちぃさんだから。
ただ伊藤のことを大事に想っている人がいてくれたことが嬉しくて、ただただ感謝の気持ちでいっぱいだった。
俺はどこの目線で伊藤を見ているのか、とも思ってしまうけれど、心からそう思ってしまったのは本当のことだから仕方がないと割り切ってみっちぃさんの顔を見てそう言った。
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