3章『やらない善意よりやる偽善。』


着替え終えて伊藤と同じように勢いよく扉を開けたはいいけれどここの位置感覚が分からないことに気が付いてそっと周りの様子を見る。
年季の入っている家のように感じる、俺の住んでいるアパートと同じぐらい、だろうか?
少し前の家らしく少なくとも2階部分の扉はすべて引き戸のようだ。
ミシミシ、と床が悲鳴をあげているのを感じながら階段を下る。
階段を下り終えると話している声が聞こえたからそっちへ向かう。扉は無いけれど暖簾っぽいのがあったのでこっそりと捲って覗いてみる。
家庭用にしては大きなシンクや鍋があってとても普通の家庭では見ないほどの食器があって、ここでようやくここが厨房という場所になるんだと察する。
テレビで見るような銀色を基準とした厨房ではなくて、それよりもっと痛んでいる感じがする。年季が入っているのか壁の色も黄ばんでいるように見える。
失礼ながら考察しているとひょっこりと俺の前を誰かが通り過ぎる、ここを連れて来てくれたみっちぃさんだ。俺にはまだ気づいていないようで鼻歌交じりで食器を洗い始める。
水の流れる音を聞いて、話しかけるべきか迷った。
話しかけるにしてもどうするべきなのか考えてしまう。多少はコミュニケーションの取り方を学べたつもりだったが、まだまだだ。
そう言えば先生たち以外の年上に……自ら話しかけようとするのはいつぶりになるのだろうか。

「……そんなとこで何してんだ?透。」
「……伊藤。」

みっちぃさんがやってきた方向から馴染みのある声が聞こえてホッとする。
それが暖簾を捲り仲を覗き見ている不審者のような目で見られていてもやっぱり知っている人間がいるのはありがたい。

「え、あら、やだ!透ちゃんったら!いつからそんなところにいたの?」

伊藤が話しかけてくれたおかげで俺がここにいるのをみっちぃさんも認識してくれてホッとする。
いつまでも前かがみで暖簾の下から覗き見る意味もないし伊藤にこちらに来るのを促され、中に入ることに成功した。

「……鼻歌をうたう前からです。」
「結構前じゃない!遠慮しないで入ってきちゃっていいのにぃ……。」
「えっと……すいません。」

コミュニケーションに障害があってあまり知らない人に話しかけるのが難しくて、とはさすがに言えなかったので謝った。

「いや、どうせゴンさんのことだからあまり説明なく強引に連れて行ったんだろ……。」
「そんなことないわよぉ!ちゃあんとすずめちゃんのお勤め先の店長って説明したわヨ!!」
「……それだけでついてきたのか、透。」
「……。」

そんなに『こいつ大丈夫か』と言わんばかりの眼で見ないでほしい。
確かに見るからに女装している筋肉隆々な男性で野太い声で女性口調で雑誌見てこの筋肉が良いと呟いていたので第一印象は怪しいと思ってしまったけれど。

「……悪いひとには、見えなかったし。伊藤のことを下の名前で呼んでいるぐらいだったから。」

現に今、吉田に『すずたん』と呼ばれたのには否定するのにみっちぃさんに『すずめちゃん』と言われても否定しないぐらいだ。
否定することもしないぐらい長くて馴染みのある付き合いなんだって分かる。結果としてはちゃんと伊藤のところに行けたから良かったと思ってる。
俺の意見にぐっと何か言いたいことがあったのを飲み込んだようで、でもひとつ溜息として出てきた。

「そうよそうよ~!すずめちゃんったら心配性なんだから~!」
「……あー……まぁ俺のことをすずめちゃんって呼ぶのはこの人ぐらいだしな。結果としては、まぁ良いか……。
でもな、もう知らねえ奴についていくのは絶対やめてくれよ?俺の関係者とか家族だって名乗る奴が現れたら疑え、まず俺に連絡してくれ、な?」
「わかった。」
「本当……やくそく、してくれよ。」

伊藤は心配性だな、と安心させるため簡単に頷いてみせたら肩を掴まれ真っ直ぐ目を合わせて念押しされた。
この際みっちぃさんについて行ったことはもう責めるつもりは無くなったみたいだけど、あまりに切実に真剣な目で訴えられた。
約束、と言われてそれに無言で頷いた。
絶対に破らないよ、と通じてくれたらいいと伊藤のちょっと怖いぐらいの真剣な瞳を見ながら頷いた。

「まぁわたしが勝手にすずめちゃんの携帯電話を見てメールを返してわたしが迎えに行ったんだけどねぇ……。」
「おい、ちゃんと話をしようか。」
「あらこわーい!」
「透はそっちで適当に座って待っててくれ!ちょっと話す!!」

わかった、と一言だけ返して指をさされたほうへ向かう。
……さっきのメールはみっちぃさんが返したものらしい、違和感の正体がわかって安心する。
ただ、伊藤の訴える目は冗談ではなかった。真剣そのものだった。
心底自分の関係者にはついて行ってほしくなさそうだった、それは俺と仲が良いことを知られるのが嫌なのかそれ以外の理由なのか。
伊藤がそんなに心配する理由はいつか分かる、かな。
とりあえず伊藤と約束したからにはちゃんと守ろう、今度こそ伊藤との『約束』を破らないよう……に?

「……こんどこそ……?」

自然とそこまで思ったけれど、俺は伊藤との約束を破った覚えはない。
……あくまで『俺は』だけど。
自分でそう思ったのに、そう思った自分に違和感。
約束……伊藤には素直に自分のことを話したいとかそう言うのは思ったことはあるけれど、でも破ったりしたと感じたことはない。
前の俺と伊藤は何か約束したっぽいことは聞いたことあるけれど、でも『約束を守った』とそう言われた。だから、破ったりしていないようなのに……なんだろうか。
そもそも『俺』と『前の俺』は同じであって同じじゃない、記憶の共有が出来ていないのだから自分とは言えどこか違う自分という感覚が抜けない。
じゃあ、どこから『今度こそ』と思ってしまったのだろうか。

「うおっ座ってて良かったのに。どうした?」
「……あ、いやなんでもない。」

考えこんでしまっていたようで立ちつくしていたのを伊藤に突っ込まれた。
自分でもよく分からないことを言うのも、と思って誤魔化した。そんな俺に伊藤はそうか?と首を傾げながらもながれてくれた。

「ああ、そうだ。透腹減ってるか?ゴンさんが何かお詫びに作るって言ってくれてるけど。」
「……すいてる。」
「ん、分かった。ゴンさん、透腹減ってるー!!」
「はぁーい!美味しいもの作るから待っててねぇ~!」

厨房にいるみっちぃさんに聞こえるぐらいの大声で伊藤とそれに負けじと遠くからみっちぃさんの大きな声が響いて驚いてさっき考えていたことが飛んでしまった。
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