2章 後編


「また明日な、透」
「ああ。気を付けて。」

いつも通り俺の家に来てだらだらして夕飯を食べ、帰ると伊藤を見送ったのは午後8時。夜になっても暑い。しんどい。
夕飯もこれまたいつも通り伊藤に作ってもらって食べたし(今日はシーフードカレーだった、うまかった。)とりあえず風呂に入るべく、掃除をするため風呂場へ向かい浴槽にお湯を貯めている間にそのまま洗濯機を回す。
ここにやって来て約2ヶ月強、1人暮らしもだいぶ慣れてきたと感じる。
それは俺1人の力ではなくて伊藤の助けがすごく大きいけれど。
食材費はもちろん俺が払っているけれど、それでも手間がかかっているものを作ってくれている。
……恥ずかしいことだが、前の家にいるときは俺は何もしていなかった。
勉強は出来たし一応中学のときは家庭科の授業もあってテストは出来ていた。だけどそれは知識だけで実践ではしたことがなかった。
知識だけは頭に入れていても身体は何一つやったことがないことばかりで慣れていなくて右往左往していた。
洗濯機を回す方法も洗濯物の干し方も畳み方も、食材の買い物も料理の仕方も掃除だって、俺は何一つしてこないで生きていたんだとここに来て酷く実感する。
頭に入っているだけでは意味はないのだとよくわかった。
それは、家のことだけではなくて。
誰かと関わったり誰かを頼ったり笑い合ったりぶつかったり仲直りしたり、そういったこともここに来てぜんぶ、初めてだ。
初めてのことばかりの、約2ヶ月だった。

「……伊藤の、おかげだな。」

記憶がないのに。初めて会ったときには俺がただ忘れてしまっているだけという可能性の方が高かったのに。
伊藤は俺に向けて何の壁もなく、ただ笑って『おかえり』と言ってくれたから、俺はこの気持ちでこの場所にいられる。
伊藤のおかげだ。全部。俺にとって初めて邪気なく笑って受け入れてくれた優しいひと。甘やかして甘えさせてくれるひと。
……でも、ただ甘えているだけは、いやだ。
一緒にいたいけれど依存するだけなのはやっぱり違う、よな。
ただ伊藤に甘えるだけなら全部伊藤に頼り切ってしまうだけなら、きっと傷つかなくて済むし伊藤も俺に応えてくれると思う。
だけど……それはたぶん『親友』とは言えない。ひとりがもうひとりに寄りかかるだけなのはそれはもうただの依存だ。傷つきたくないからって籠って助けを待つだけというもの間違ってる。
記憶も無くて、それを思い出す気持ちも無いのに、それでも俺のことを『親友で良かった』と言ってくれた伊藤。
泣いてしまうほど嬉しくて、哀しくなるほど苦しくなる。
伊藤が俺に向けてくれる穏やかな笑顔を思い浮かべると胸が少し締め付けられるような痛みが起こるのはなんでだろう。いやなもの、ではないとおもうけれど。

……とにかく、俺が伊藤に甘えるだけなのは伊藤にとっても俺にとっても良くないことだ。
伊藤にすぐ頼るのではなく少しは自分で考えてみよう。とりあえずそこから始めることにしよう。
自分のなかで結論が出て、ふと時計を見るとそろそろ風呂のお湯が溜まるころだったので、家についてすぐ部屋着に着替えていたので替えの下着だけ持って行った。



髪から滴ってくる雫を適当にガシガシと音が出そうなほどタオルで拭う。
伊藤がこの場にいれば『もっと丁寧にやれ』と言われてしまうだろうが、今はひとりなので特に気にすることはない。
髪が痛む、とか言われたりするがそもそも痛むと言うのがよく分からず首を傾げる。伊藤と会う前はドライヤーとかしたことないと言えば口をぽかりと開けられてしまった。
知人のお古、と伊藤から真っ赤なドライヤーを貰った(どんな知人なのだろうか)が、いかんせん今の時期暑くて使う気になれず、それから見ないフリをして座って携帯電話を開いた。
新着メールがきていたのでメールボックスを開く。
見慣れた伊藤と叶野(ふたりはメールの頻度高く、鷲尾や湖越とはたまにやり取りをする。)のなまえに紛れて登録されていないアドレスからメールが届いていて首を傾げながらとりあえず開いてみた。

「……あ。」

思わず間抜けな声が出た。
件名にその名前が書かれていてすぐに誰かが分かった。
こっちに来てから全く音沙汰が無かったので……失礼ながら、もう縁が無くなったものだと思っていたひと。

『お久しぶりです、お元気でしょうか?
九十九静紀です。
長らくご連絡が出来ず申し訳ございません。
突然の健様の訃報に加えて急な引っ越しをさせてしまった上、何一つフォローが出来ず大変申し訳ございませんでした。
現在どうお過ごしでしょうか?風邪などはひいてはおりませんか?
厚かましいとは思いますが、来月頃透様の様子を見に行かせて頂けたらと考えておりますが、可能でございますでしょうか?』

祖父の秘書だった、九十九さんからのメールだった。
突然の思ってもいない人からのメールに驚いたのもあるが……俺と、またこうして繋がっていてくれることに驚きを隠せなかった。
九十九さんは記憶の無い俺に記憶があったころのことを九十九さんが知る限りのことを教えてくれたし、何かと俺の異変に気が付いては対処してくれた優しいひとだ。
笑ったりするところは見たことは無かったが、いつも淡々としていて怒鳴ったり暴力を振るったり不快なことをしなかった、多分他のひとと同じように接してくれていた。
だけど、それは俺が祖父の孫であり世話をしていた女性の息子だからだ。
祖父が亡くなってここに引っ越してきて、この2ヶ月何の音沙汰も無かったから。
桐渓さんには聞けなかったし、もうここで繋がりは消えたのだろうと少しだけ虚しく感じながらも仕方のないことだと処理してた。
だからこうして九十九さんからコンタクトをとってくるなんて思いもしなかった。
……少し、嬉しいな。
彼にとって義務的なものでしかないとしても、それでも俺のことを仕えていた人の孫でそのひとが亡くなったからもうどうでもいい、と放っておかれなかったことが嬉しい。

『お久しぶりです、こちらは元気にやっています。
九十九さんはいかがお過ごしでしょうか。
こちらに来て慣れないことや他にも様々なことがありましたが、なんとかやっています。
是非会いたいです、久しぶりに九十九さんに会いたいです。』

そう打ち込んでそのまま送信。
九十九さんが、俺のことを色々考えてくれていたことをここに来て実感した。
だからお礼を言いたかったし、祖父のことや何故ここに俺が引っ越すことになった経緯も知りたかった(簡単に桐渓さんから教えてもらったが詳しいことは聞ける様子ではなかったし今も気まずい)。
それに、前の家のときは九十九さんはいつも忙しそうで深い話はしていなかったから、九十九さんのことを知りたいと思った。会えるのは嬉しい。
前のことを思い出していると意外と早く返信が着た。

『お元気そうで安心しました。
こちらは少し忙しかったですが今は落ち着きました。ご心配ありがとうございます。
上手くやっているようで何よりです。
こちらの予定が確定次第また改めてご連絡させていただきます。
またお手数ですが透様も都合の良い日や逆に悪い日が確定しましたらお知らせして頂きたいと存じます。』

義務的ながらこちらのことを気遣っていることが分かった。
九十九さんだけが、俺のことを不遜に扱わずにいてくれた人だからこういう対応はきっと普通のことなのだろう。
そう言えば、病室で会った際には多分祖父や桐渓さんに言われて知っていたのだろうが、九十九さんは俺にどこまで覚えているかも知ろうとせずに、ただ俺の知りたいことを教えてくれた。
……ふと疑問を覚える。

『俺が記憶喪失であることを、九十九さんはどう思っていますか』

感じた疑問のままにメールを打ち込んで……直ぐに消して、九十九さんからのメールにただそれを受け入れる返信だけして一回携帯電話を閉じた。
まだ、聞く勇気はなかった。自分の両手を広げると震えていた。俺は臆病だな、と自嘲する。
それにこの話題はちゃんと直接聞いた方が良い気がした。
俺は伊藤に甘えてばかりで、伊藤がいなかったのなら鷲尾を追うことも叶野を庇うことも、湖越の後をついていくことも多分出来なかった。
俺のことを信じて甘やかしてくれる伊藤がいたからこそ、俺はああいった行動が出来ていた。
これが良いものなのか悪いものかは分からない。
今は良いもののように感じるけれど、いざとなったら伊藤に頼ると言う選択肢が無意識に俺のなかにあるのも事実だ。
……それは、自分でちゃんと選択肢て決めている、と言っていいのだろうか。そんな疑問も生まれた。
自分の思う以上に梶井に言われたことを随分気にしているんだな。

『ずーっと何も考えずただ甘やかしてくれる伊藤に依存していればいい』嘲笑いながら言われた梶井からの言葉。

きっとその通りなんだ。
今まで誰にも自分の存在を肯定されず泣くことも笑うことも許されずに来た俺を、伊藤は全部肯定して許してくれて受け入れてくれたから。
だから距離感を見誤ってしまったんだろう。
俺はずっと人との関わり合いを避け続けてきたから、どこからが甘えててどこまでが自分の意志での行動なのか分からないんだ。今もまだやっぱりわかんないや。

だけどせめて、俺が自分の記憶を思い出すときはちゃんと『自分の意志』で決めよう。
誰かに強要された訳でも無くて、誰かの顔色を窺って決めるのではなくて『俺が』思い出したいときにちゃんと思い出したい。
今はまだ難しくて誰かに俺のことを聞くのも怖いし、今も思い出そうとすると頭痛が起こって辛いけれど、その怖さや痛みがあってもそれでも思い出したいと思えたときがきっと、ちゃんと俺の意志で決めたと言うことになるだろう。

とにかく今は……伊藤に全面的に甘えるのを辞めよう。
2ヶ月前と比べて今の俺はあまり変わりは無いのかもしれないけれど、それでも気持ちはちがう。
それに、人との関り合いを良く知れたのだから、俺はすでに前とは全く違うんだ。
状況はあまり変わりはなくても気分が違うだけでこんなにも俺の視界は広くなった。
俺のことをひとりの人間として、ただの高校生の『一ノ瀬透』として見てくれる友だちが今の俺には沢山いるんだ。
俺は俺なんだと胸張って言える。ちゃんと俺が『一ノ瀬透』と受け入れられるようになったのは、きっかけは伊藤でありみんなのおかげだ。
だけど最終的に自分を認めるのはやっぱり『自分』なんだ。
俺は『一ノ瀬透』だ。
今の俺は過去はないけれど今はあるんだ。
昔の俺も今の俺も未来の俺も『一ノ瀬透』であると、そう言えるぐらいには自分のことを受け入れられてると思う。

「それは、人として生きているって思って良いんだよな。」

答えは返ってこないけれど、それでいい。
少しでも両親と伊藤の願いに近づけたんだと俺はそう思ってるから、自己満足と言われてしまうと否定できないが俺が満足しているし誰に聞かれている訳でもないので言いたい放題だ。
誰かに言うのは出来ないけどな。
自分のことが少し好きになれたと思う。そうは思っても桐渓さんに何も言えないのだからやっぱり本当の意味で自信はないのだろうけれど、な。

でも、人として生きていく心構えだけは出来た。

いつか笑って両親の写真を見れるようになるまで、あとどのくらいか分からない。
けれどその日その日を後悔無いように生きていければいつかは辿り着けるそう信じたい。

結局のところは、自分のことは全部自分次第なんだろうな。

この2ヶ月で人の綺麗なところも醜いところもよく見えてしまった。
人として生きていくのが嫌になるほどの醜い部分。
それでも人として生まれたからには人として生きていくしかないんだ。
綺麗なだけではいられなくて自分の醜いところももっとよく見えてしまうときが来ても、それでも、俺は。

『人』として生きていくよ。

解決できていないことはまだたくさんあるけれど、どんなことがあろうと明日はやってくる。
今日も布団に入って目を閉じて明日の朝を待った。
朝になればみんなに会える。それを楽しみに今日も眠りについた。

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