2章 後編


「おはよう!一ノ瀬くん、伊藤くん。」
「……おはよ……。」
「おう、はよ。」
「うっわー……いつにも増してテンションひっくいねー。」
「……あつい、死ぬ……。」

朝から元気のいい叶野の挨拶を聞きながら、席に着いてそのまま自分の頬を机にくっつけた。
今日になって気温が一気に上がり、クーラーの付いていない部屋で扇風機もまだ買っていないので今でも死にそうなのに8月になったらどうなるのか、と内心怯えている。
起き上がるのもだるくて顔も上げられる元気もない。となりの伊藤が持参したうちわで扇いでくれるのが心底ありがたい。……そのうちわの色が真っピンクで奇抜なデザインをしているのか気になったが言葉にするほどの元気もない。
伊藤と叶野の雑談を聞きつつぐったりしながら周りの様子を窺う。
あれだけのことがあって、何人かはこちらに視線を向けてくる奴もいるが、堂々と聞くようなひとはおらず水面下は『日常』を各々過ごしているようだ。
視線は気になるがそれに答えるような言葉はない。言うつもりもないから視線は無視して後ろの方へ視線だけ向ける。

そこは小室の席で、今誰も座っていない。あれ以降彼の姿を見ていないしたぶん今日も来ないと思われる。
……小室に対して憎みというかあまり良い感情は無くとも、誰が見ても彼に非があって陥れられる形になって、彼がしてきたことを知ってそれを考えると自業自得でしかない。伊藤は同情しても俺は同情までは出来なかった。
ただ……誰も小室が来ていないことを気にも留めず、いつも通りの日常を過ごしているのを見ると何となく複雑な気持ちになった。名前を付けるまでには至らない靄が胸にとどまった。これに名前を付けてしまうとさらに小室が哀れな男になってしまうだろうから。
俺は彼にとってムカつくヤツであり、俺にとって彼は嫌味で性格の悪いヤツ、とだけ思うことにした。
意識的に彼のことをシャットアウトして、視線を前の方へ向ける。

普段なら、いやまあ互いにそれぞれの友人がいるのだからいつでも一緒とまでは言わないが、朝HRが始まる前までは基本的に叶野と一緒にいるはずの湖越が今日はどういうことか別々にいる。
湖越も沢木たちと話しているからひとりでいる訳ではないのだが。
常であれば朝は叶野とともにいて一緒に挨拶してくれていたはずの日常が、少しずつずれて行っている気がした。気がするだけ、かもしれないけれど。
あれから、梶井の件を詳しく湖越に聞いたことはない。
きっと湖越にとって言われたくないことなんだと思う、湖越はなにも言わないけれど前のように言いたくないことがあるとこちらに背を向ける癖を知っているし叶野も時折湖越のほうを様子を見つつも、そっとしている。
親友である叶野は……伊藤と話しながらも湖越のほうを見ては少し困ったかのような表情を浮かべて視線を外す、を繰り返している。
……正直言えば。俺からすると湖越の態度がどうしても解せない気持ちになる。
湖越と梶井がどんな関係なのか、梶井が湖越を具体的にどう思っているのかも分からないし湖越が梶井になにかされたのかもしれないけれど、説明もなくただ梶井を拒絶する湖越だけを俺は見ているとなんだか少しだけ嫌な気持ちになる。
梶井のしたことは確かに最低なことである、それは理解しているけれど……。
ああ、もう。分からない。
とても気になる。だけど、それを踏み入れてしまっていいものなのか躊躇う。
せめて軽くでもいいから俺に説明してくれれば……いや、それはただの自分勝手になる、か。
むずかしいし……もどかしい。あと、あつい。

「……あ”ー……。」
「なんか唸ってる……大丈夫?保健室……」
「駄目だ。」
「な、何故伊藤くんが即答するの……。
……ああ、一ノ瀬くんって消毒液の臭いとか苦手なタイプなんだ?」

頭のなかで考えすぎているのと暑さのせいでショートしそうなのを唸ることで誤魔化そうとする俺に暑さでついにおかしくなったことを心配した叶野が保健室に行くことを勧めようとするのを伊藤がすぐに止めた。
あまりに険しい顔をする伊藤に、いつも俺に気遣ってくれるのを知っている叶野は少し驚きながらも、ひとつの可能性が出てきたようで俺にそう聞く。……本当の理由は、別にあるけれど。

「……まあ、な。」
「保健室って薬品があって独特なにおいするもんねー俺も得意じゃないや。前も嫌って言ってたもんね。理科室は割と平気なんだけど、なんでだろうね?」

明るく話しを繋げてくれる叶野に何となく罪悪感をおぼえる。
嘘、ではない。
あの消毒液の臭いを嗅ぐと、病院でのことや桐渓さんにされたことが思い出されるから嘘ではない。
だけどすべてを本当とは言えない、だから罪悪感を覚えてしまう。
伊藤には言って叶野たちには言えなかったこともあった。それは『桐渓先生』のことだった。
そも桐渓さんと俺の関係のことは学校の中でも一部でしか知られていないことだ。桐渓さんが叶野たちと全く関り合いの無い人物であれば何も考えず話せていたかもしれないけれど。
桐渓さんはこの学校では『桐渓先生』だ。保険医。職員室で桐渓さんとのやり取りやたまに見かける桐渓さんはよく生徒に囲まれているのを見る限り、慕われている人だ。
叶野も、この間親しそうに話しかけていたから桐渓さんのことを快く思っているんだろう。
俺は、桐渓さんにされてきたことは痛くて悲しくて辛いものだった。桐渓さんとの記憶が鮮明に残っている場所が病院だったからだろうか、連想させてしまう場所となって病院がとても苦手に思う。
保健室に行けないのは、桐渓さんがいるから。それだけだ。それだけだからこそ叶野の気遣いが苦しいものだった。

「じゃあもし一ノ瀬くんが具合悪くなったときには先生を単品で呼んだ方がいいかな?」
「……ん。」

何も知らない……いや、あえて知らせなかったのか。きっと叶野のことだから俺が桐渓さんにされてきたことを伝えれば俺を心配してくれて優しくしてくれて、桐渓さんへの態度を邪険になることは無くとも少し硬くさせてしまうんだろう。
言うのは簡単だが……それは、俺が望んでいることではない。

俺にとって、桐渓さんのことを思うと連想させるものはどうしても痛くて悲しくて辛いものしかないけれど、周りの人からすると違うんだろう。
きっと正反対のことが返ってくると断言したって良い。
桐渓さんは恐ろしいもので俺にはそれしか向けられることはないけれど、他のひとに向けるものは人当たりもノリ良くて面白くて優しい『桐渓先生』だ。
俺の言葉一つで周りのひとを乱すことは出来る。だけどそれはしたくない。俺は、陥れたいと思うほど周囲のひとを荒らしたいと思うほど、桐渓さんを憎んでも恨んでもいないからだ。
それに……桐渓さんがこうなったのは、確かに俺の『記憶喪失』が原因であることは事実だからだ。元々がどんな人か知らないけど、周りの反応を見る限り俺の印象より数十倍は良い人みたい。
わざわざ事を荒立てたいと思えなかった。
だから、今のところは叶野にも誰にも知らせるつもりはない。

叶野は先生を呼んだほうがいいか、と聞くのに少し言葉に詰まったが頷いた。
本当は呼んでほしくないけれど、でもこれで嫌だと言えば何かあったのかと結構感の鋭い叶野に察されてしまうかもしれない。
2人きりになるよりは周りに人がいるほうがまだまし、か。
そう思ってのことだった。

「駄目だ。あいつは信用なんねえ。呼ぶなら岬先生か五十嵐先生だ。」

伊藤がそれに否を出す。それも、結構な大きな声で。
それに驚いてしまった。そう言ってしまえば俺と何かあったんじゃないかと勘繰られてしまう。唯一俺のことを知っているであろう伊藤がいきなりそう言うものだから焦る。
伊藤に目で訴える。だけど伊藤はじっと俺の目を見るだけで譲る気はないようだった。
どうしよう。
途方もない気持ちになる俺に、叶野は

「あー……伊藤くんって前々から桐渓先生嫌いだよね。なんで?」
「うさんくせえ。」
「直球だー……うん、伊藤くんは譲る気はないようっすねぇ……というわけで」
「一ノ瀬が調子悪かったら岬先生か五十嵐先生、これを犯したもの伊藤の逆鱗に触れるってよー!」
「まじかよっまさやせんせーのほうが良いんじゃねえの?」
「あいつは駄目だ。あと牛島も。それ以外ならまだ良い。」
「伊藤チェックの基準わっかんねえなー。牛島が駄目なのは分かるけどよー」
「桐渓も牛島も駄目だ。」
「へいへいー。」

伊藤が大きな声で言っていたから、叶野はそれを聞いていたクラスメイトに即伝達する。
俺が目を白黒している間に、俺が具合悪くなった場合は桐渓さんと牛島先生には伝えないと、クラスで浸透してしまった。
そう、か。
伊藤は俺が桐渓さんの話をする前から……苦手、というよりも嫌いだったのか。
クラスメイトは伊藤に疑問を感じながらも、一貫した態度にこれ以上言うつもりは無く不承不承ではあるが納得してくれた。

「……伊藤。」
「……謝らねえからな。」
「いや……ありがとう。」

言い出せなくて弱虫な自分が見つかって嫌になるけど……俺のことを知ってくれる人が目の前にいるのが嬉しくて。
俺のことを知らないときも、あまり快く思っていなかったのを聞いて、性格悪いけれどホッとした。

「随分騒がしいな……?」
「お、わっしー!おは!一ノ瀬くんが具合が悪いときには保健室にはいかず、桐渓先生と牛島先生は絶対呼ばないで可能であれば岬先生と五十嵐先生を呼ぶ、いなければ最初に言った2人以外なら可とする。
たった今ルールが出来たところよー!」
「?おはよう……?」

早口で今起きたことを述べる叶野に脳が処理しきれていない鷲尾はぽかんとした顔をしたままとりあえず挨拶を返した。

「伊藤くん的にどうも牛島先生と桐渓先生が信用できないんだってさー。」
「きりたに……って、誰だったか。」
「そこからかー!」

何とか思い出そうとしたが、やっぱり無理だったようで素直に叶野に聞く鷲尾に突っ込みが入った。
興味のないものにはとことん関心を持たないのを徹底しているのは、なんだかすごいと思う。でも、そう考えると鷲尾にとって俺たちは『興味のないもの』と判定されていないと言うことだから、喜んでもいいのかもしれない。
「保健室の関西弁の先生だよー。」
保健室の、関西弁。そう言われてようやく納得したようにうなずきながら
「……ああ、あの……まぁ確かに信用できないな。」
予想外にも伊藤の意見に同感していた。

「えーわっしーまで……。」
「わっしー言うな。」
「なんか理由とかってあったり?」
「知らん。何となく胡散臭いと思っているだけだ。」
「わっしーって結構直感タイプなの?」
「さあな。というかわっしー辞めろ。」

特に表情を変えることなく淡々とそう言う。
叶野やクラスメイトの反応なんて全く気にもしていないようだ。
堂々と意見を言えている。
伊藤も鷲尾も。
自分の思っていることをそのまま伝えている。

「……伊藤と鷲尾は、似てると思う。」
「似てねえよ!?」
「いや、似てはいないっ」
「ううん~真逆なところはあるけど意外と似ているところがあるのでは、と最近思い始めている俺が通ります!」
「通るな!」
「ぎゃ~!ギブギブ!」

羨ましい。
ただ単純に、にぎやかな伊藤たちを見てそう思った。
俺は……やっぱり伊藤たちみたいにはなれない、かな。
一緒の価値観になれなくて寂しいような……それでいいと何故か安堵しているような、不思議な気持ちになった。
似てないと否定する2人の隙間を何故か叶野が通ろうとしてそれを鷲尾が羽交い締めにする。
それを見て伊藤はカウントをとり始めクラスメイトは笑って見ている。
俺は、笑えなかった。
やっぱり弱虫のままの自分を知ってしまってほんの少し落ち込んだ。

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