2章 後編


最寄り駅に着いて、そのまま階段を上り改札をくぐる……ことはなく、電車を降りてすぐホームの近くにあったベンチに座った。
目の前を俺と一緒に降りた乗客は通過し、電車も行ってしまった。何人か乗り遅れた人たちが走ったがその努力も虚しく電車は行った後で頭を抱えている人たちが数人。
嘆いている奴らを視界の端に収めながらふと目を向けたのは、踏切の信号。カンカン、と規則正しく音を鳴らしている。踏切が開くまで待つ社会人や主婦、高校生や……中学生が見えた。確か、希望が通っていた前の中学校の制服と同じのを着ている子も見えた。冷房のない駅のホームのベンチの上にいるから、汗が滴りそれを雑に拭うついでにそのまま自分の顔を手のひらで覆う。
そして思い出す。あの日踏切の前でうずくまり小さくなって震えている希望の背中を。


転校してきたばかりな上人見知りで頭が悪くて他の生徒と比べて背も小さいのに他の生徒よりも太っていてどんくさいといじられる俺のことを、希望だけは他のクラスメイトと同じように接して親切にしてくれたことを今だってすぐに思い浮かべられる。
あのときは木下が何をしても愛嬌があるからという理由で何でも許されていたころだったから、特に木下に気に入られていた希望にも立場があって俺のことを全面的に庇えなかったが、それでも木下が見ていないときには普通に話しかけてくれて、木下が俺をいじっているときにはそれとなく話をずらしてくれたりしてくれた。
希望に親切にしてくれたとき、思ったのは純粋な感謝と……少しの打算。
その打算から、俺は木下に責められたときには怖くても何でも全面的に希望の味方をして庇った。そうすれば希望は俺を信頼してくれる、そう考えた。

いつからだろうか。
俺は希望を親友と謳いながらもあの子のことばかりを考えていたのに、いつの間にか希望を言い訳にあの子から逃げるようになったのは。
顔色悪く俺にいじめられていることを打ち明けた日なのか、中学校で出来た友だちに裏切られて変な奴に好意を抱かれていじめられて家族以外俺しか信じられなくなったと言われたときだったか。
今では思い出せやしない。
いつからだろうか。
純粋だった友情が歪な共依存になっていたことに。
このままではいけない、そう思うと同時にこの場所はとても居心地が良かった。
過干渉になるわけではない、ただただ癒されたいときにとなりにいる。
俺は希望を傷つけない、希望も俺の傷を広げようとはしない、暗黙の了解。
そうすれば希望の笑顔は曇らない。そして俺も平静を保てる。そうして俺らは均衡を保ってきた。
だが……それはもう終わる。
いつだってアンバランスでいつか俺と希望が爆発するか、その爆発をうまくやり過ごしてずっと日常を過ごすか、均衡は保っていたがそれはいつ崩れておかしくないものと互いに把握はしてた。
終わらせなければ、希望の笑顔は曇らなくても晴れることはなく俺は心に靄を残すこととなるのだからいつかは立ち向かわなければいけないことだった。
弱虫で臆病な俺は立ち向かうことをいつも希望を守らないといけない、と言い訳して先送りにしていた。
『大丈夫か』そうかけてきた言葉は希望の身を案じるだけではなく『まだいいか』の確認になっていった。作った笑顔で『大丈夫』と言う希望を心配したと同時に安心していた。
だが、今日。

「うん、大丈夫だよ。」

小学生のとき、木下からかばった俺に向けたときのことを彷彿させる笑顔でそう言い切られた。
今目の前にいるのは小中で起こったことに怯えて、俺以外信頼できないと顔色悪く伝えてきた俺ののぞんだ希望じゃなくて、過去のことも小室に言われたことも傷つきながらも受け入れて彼なりに折り合いをつけた穏やかに笑いながらも覚悟を決めた希望の姿だった。
陰が無く笑う希望に戸惑ってしまう俺。
そんな俺のことを置いて、背中を見せて鷲尾とともに歩いていく希望の後姿を見送る。
なんとか適当に希望に返せたけれど……『叶野希望』そんな名前にふさわしく胸を張って俺から背を向けて前へ進んでいく後ろ姿に焦燥感に駆られる。

依存し合う関係から抜け出そう、そう言われた気がしたんだ。
進む希望と、未だにその場から動けずにいる俺。
『置いて行かないで』
そう喉まで出てきた言葉を飲み込んで、身長としても体格としても俺の方が大きくて希望の方が小さいはずなのに、大きく見える背中をずっと見た。
希望は……やっぱり強い。
迷いながらも苦しみながらも、それでも前へ進みたいと意志が見えていて、俺は希望のそんなところに昔から憧れてて。
いつかは自分もそうして過去のことを受け入れて前を進めるようになりたい、と思っていたのに。
身長も体格も希望に勝っているのに、普段希望が騒いでいるのを俺が窘めるような空気感を見れば周りの奴だって俺のほうが落ち着いているように見えるだろう。
だが、それは見た目だけ。見た目だけの虚勢だったんだ。

自分は昔から変わらない、情けない、ずっとずっとおれは昔も今も変わらない、弱虫だ。
希望が立ち直ったことを素直に喜べない俺は最低な人間だ。
悲しい。情けない。苦しい。そう思いながらも、傷つきたくないと願ってしまう自分に吐きそうになる。
自分が悪い。でもあっちだって悪い。
そう思ってしまう自分の器の小ささが気持ち悪い。

「アハハハハ!」

顔を覆った手から伝った水滴は、暑さからくる汗だったのかそれ以外だったのかは判断が付かなかった。
ただその水滴は嫌にべったりと手のひらに張り付いているのを感じて、きもちわるかった。
俺は何が正解だったのか。何が不正解なのか。これからどうするべきなのか。
なにひとつ分かりもしない俺を、何も知らない名前も知らないただ雑談して笑い合っている女子学生の声が俺を嗤っているように聞こえて思わず舌を打った。
俺の舌打ちは、通り過ぎる電車の音で聞こえることはなく、俺がそこを去るまでただただ彼女たちは楽しそうに笑っていた。
30/33ページ
スキ