2章 後編


吉田が言っていたことを頼りに屋上に辿り着く。
鉄で出来た見るからに重たそうな扉だが、両の手で押してみると少しの力だけで案外簡単に開いた。
ギィィィ……、耳障りな音を立てながら重たい扉を開けると、7月の少し雲の多い青い空が目いっぱいに飛び込んで目を細める。
目が慣れて改めてその場を見てみると、吉田は湖越の言葉をちゃんと聞き取れていたようで湖越がそこにいた。

「湖越……いた。大丈夫、か?」

もうひとり、そこにこの暑いなか淡い色のカーディガンを羽織っている男子がいた。
湖越がここにいて話しているのだから、きっと、この人物が皆の言う『梶井信人』であると察した。
緩く巻いているのかパーマなのか判断はつかないがふわふわとしたこげ茶色の髪型で、温和に見える垂れ目。……どこかで見たような気もするが、どうだっただろうか。皮肉にも記憶力には優れているほうなので一回見れば忘れることはないのだが……。
笑っていればきっと取っ付きやすいんだと思う。ほんの少し見ただけでそう思えるほど顔立ちが優し気に見えた。実際笑えばどうなのかは俺には分からない。

「……またあんたか。」

口角を下げて眉を寄せて冷たい目で俺を射貫いた。
俺が屋上に来て反応したのは湖越が先だったが、口を開いたのは梶井が先だった。声だけでも苛立っているのが分かった。

「……邪魔、したか。それは悪かった。」

湖越が屋上に行ったのだと言う絶対的な確証は無く、梶井がそこにいる可能性も低いと勝手に思っていたから、いたとしても湖越しかいないだろうと高を括って屋上を開け放ってしまった。
万が一話し込んでいるようだったら様子だけ見るだけにしようと思ってはいたが、こんなに屋上の扉が音がするとは思わなかった。音のせいで話の腰を折ってしまったのなら申し訳ない、そう思い梶井に謝罪する。

「そうだよ。本当に……一ノ瀬って僕の計画の邪魔しかしないよね。」
「……計画?」

不貞腐れたようにそう返す梶井の言葉のなかに『計画』という単語が出て来て首を傾げる。どういうことなのか分からなかった。だって、俺はこの梶井とはたぶん初対面で、もし初対面ではなくとも話したのは今が初めてだ。
梶井の言葉に違和感をおぼえる。

「おい、一ノ瀬を巻き込もうとするな!」
「巻き込む気は無かったけどさ。一ノ瀬が自ら巻き込まれてくるんだもん。仕方ないよね。」

普段温厚で怒るときは叶野を傷つけられたときだけの湖越が、焦ったように止めに入るが梶井は聞いてはいるもののその訴えを流した。
梶井の言うなにかに俺は巻き込まれている気は無かったのだが。……俺は梶井にとって都合の悪いことばかりしているようだ。
後ろ手に腕を組んで猫背の姿勢で俺のほうへゆっくりと歩み寄る。
じっとりと俺を見てくる。相変わらず表情は穏やかとは言えず、敵意を向けられていると思っても過言ではない。
梶井の瞳の色は遠くから見ていると黒だと思ったが、こうして対面して良く見てみると暗い紫色をしていた。不思議な色だった。
俺も変わった瞳の色と言われてきたが、そうか、こういう気持ちになるのかと思った。

「はじめましてぇ。おれ梶井信人っていうの。ああ、おれは一ノ瀬のなまえどころか多少はきみの過去も知ってるから二度手間だし時間の無駄だから自己紹介はいらないよ~。
あー、一ノ瀬はいいよねぇ。伊藤くんって言う甘やかしてくれる人がいてさぁ。
一ノ瀬はなーんも覚えてないのに。伊藤くんもすごいなあ、一ノ瀬は自分のことすべて忘れてるのに。それでもとなりにいられるって。ほんっと、怖いくらい忠犬だねぇ。」
「……」

呆けた気持ちのまま、俺のなにもない過去をさらっと突然突き付けられた。
驚きを通り越して目を見開くこともできず、静かに梶井を見つめるしかできなかった。視界の端で湖越が驚いた表情をしていたのがどこか遠くで見えた。

「伊藤くんがなにも言わないで甘やかしてくれるのを良いことに、それに胡坐かいて罪悪感をおぼえることなくそのとなりに普通にいる一ノ瀬もすっごいけどね!伊藤くんをよっぽど信頼してるんだねぇ。
ま、それは良く言えばのはなしで、実際はとんでもなく甘ったれてるだけだね!!いいなー俺もな0んも考えずにだれかに甘ったれたいな~」

嘲笑うように冷たい……いや、怒りを乗せた瞳でそうわざと楽しそうに言われる。目の前のその紫色の瞳は暗くよどんで『俺を傷つけたい』そう訴えていた。
そう言われて……言い返せない自分がいることに気が付いた。ぐっと突き刺されたかのように心臓と鳩尾が痛んだ。甘やかされているのは、俺も痛感していることだったから。図星を突かれてなにも言えない。

「あら、傷ついちゃった?めんご~!おれってばついほんとうのこと言っちゃうんだよねぇ~。」
「おいっ梶井……!」

何も言えずにいる俺に特段悪いとは思っていない言葉だけの謝罪を梶井は告げるのを、いまいち俺のことを把握できずとも梶井が俺に対するものは失礼な態度であると認識して小室のときと同じように怒りを露わにしようとしたのは分かった。
「なあに、誠一郎くん。」
「……っ」
だが、梶井が湖越のほうをふりかえると、その勢いはすぐに消えて俯き梶井から目を背けた。
「……まだ、僕を見てくれないのかぁ。」
そんな湖越に梶井はポツリと途方に暮れた子どものようにそう呟く。

「あーあ、ほんと。一ノ瀬が転校してこなければ計画はうまくいってたのに。鷲尾くんも叶野くんもおれが傷つけたいだけ傷つけることも出来たし、伊藤くんもあのまま自主的に中退してたのに。
なんでもう1年ぐらい遅れて来てくれなかったの?」
「……悪かったな。梶井のその計画は、俺がいなかったらどうなってたんだ?」
「えーそれ聞いちゃう?まあいいけどさぁ。」

梶井の言う『計画』に、今までの行動と言動を察するに禄でもなさそうだとは思うが、邪魔者である俺に対して「いなくなれ」とは言わず『もう少し後に来てよ』と言うから何となく憎めない気持ちになって、どうしてこんなことをしているのか知りたくなった。
俺の問いかけに驚き茶化しながらも答えてくれた。さっきみたいな不貞腐れた顔でも笑っていないのに笑顔を貼り付けているものでもなく、心底楽しそうに笑いながら。

「僕のことを誠一郎くんに刻み付けたかったから。もう二度と忘れさせないためにね。」

自分を抱きしめながら、心底愛おしそうに笑う梶井。

「……そのために?」
「……そのためだけ。それ以外あるわけないじゃん。僕の行動する理由なんて一つしかない。」

ついオウム返しをしてしまう俺に苛立ったように睨みながら、突き放すように梶井はそう答えた。

「ま、自分が忘れてもそれでも一緒にいてくれるひとがいるとんでもない人格者の一ノ瀬と万年ボッチの人格破綻者である俺はちがうんで~!
理解しようと思わなくてもいいけどさぁ。一ノ瀬も伊藤くんのことを頭の中で殺してるわけだし?
おれを軽蔑するようなこと言えるたちばにないと思うんで責めたりするのはやめてねえ?それされたらおれもおこっちゃうから~!」

口調は穏やかで茶化すように喋るが、梶井の瞳は確かに俺への『怒り』と『警戒』の色を持っている。
言葉が足りず勘違いさせてしまった。俺はただ。

「……そんなつもりは、ない。ただ、梶井のこと知りたいと思っただけ。」
「……。」

そうだ。俺は知りたい。
何故湖越を自分の存在を刻み付けようとして、どうして本人ではなく叶野を傷つけるようなことをしたのか。
梶井と湖越とはどんな関係性なのか。こうして聞く限りでは、彼らはここ最近の付き合いでは無さそうだ。
……友だちである叶野を傷つけて、伊藤を追い込んだりしたり、そう言うのを聞くと俺も梶井におもうところがない訳ではないのだが……。
小室のようにただ自分のために誰かを傷つけて追い込もうとするのであれば、問答無用で問い詰められたのだが。
梶井も言動と行動を見ていると小室によく似ているように見える。だが『同じ』と言うには、どうにも梶井には複雑な事情があるようにしか見えない。
そう言った事情を捨て置いて、ただ俺の感情のままに梶井を責めることは俺には出来ない。
責めるにしては俺は梶井のことをあまりに知らない。
梶井からすると分からないけれど、少なくとも俺にとってたった今初めて梶井と知り合い話したのだから。
相手のことを知らず責めたりなんてしたくない。話し合えて、分かり合えることもあると思うんだ。
伊藤が、俺にしてくれたように。

「ふ、ざけんなよっ……!」
「……湖越?」

俺のことを驚きに目を見開いてじっとこちらを見つめている梶井に逃げることなく目を合わせていると、今まで無言だった湖越が声を荒げた、かと思えば。

「!?湖越、落ち着け!」
「うるせえっ!落ち着けるかよ!希望を……『親友』を傷つけられたんだぞっ!」
「怒りはもっともだと思うし気持ちはわかる、だが梶井の話も聞いてやれ。」

あきらかに梶井に掴みかかろうとする勢いの湖越に、俺は止めに入る。体格も身長も湖越に負けているが、それでも何とか肩を掴んで止める。
湖越に比べると細身であり体格差のある梶井が湖越にぶっ飛ばされたら怪我をする。そうすれば湖越だって騒ぎになってしまう。
さっきの今では冷静になるのは難しいかも、とは思う。俺だって伊藤を傷つけられたらいやだと思う、だが……せめて少しぐらい話し合えるのなら話し合った方が良い。
湖越からは何も聞いていないが、梶井の話を聞く限り短い関係ではないと思ったからなんとか冷静に、と願った。

「なんでこいつの話を聞いたりしなきゃいけねえんだよ!こんな、頭のおかしい奴っ!どうせ大した理由なんてねえよ!!」

だが、湖越は拒絶した。
確かに、叶野は梶井によって傷つけられたのだから怒りはもっともで『俺が梶井の話を聞いてやれ』と言うのは湖越からすると理解できないことかもしれない。
「一ノ瀬だってこいつに失礼なことを言われていたんだぞ?しかも伊藤まで傷つけてよ、そんなやつの話をお前は冷静に聞けるのかよっ」
「……難しいとは、おもう。だが……」
湖越の立場として考えてしまうと俺もなにをするか正直分からない、言葉に詰まって考えてしまう。理性ではちゃんと相手の話を聞くべきだと思っていてもその場の感情でどうなるのか俺にも分からなかった。だが、今の俺の立場は違うし、そもそも梶井と湖越はどんな関係性なのかも、梶井自身のことすら全く知らないのだ。
どう返すべきなのか悩んでしまった。

「……そっか、誠一郎くんの中の『親友』に、僕はもういなかったんだね。」

暫くの沈黙の後、静かに。
穏やかな優しい口調で、でも諦めと自嘲が入っているようにも聞こえる声音だった。

梶井のほうを振り返ると泣き出しそうな子どものような顔をしていた、かと思えばすぐに目が笑っていない笑顔に戻った。いや、貼り付けている。


「……もういいや。はいはーい、おれがぜんぶわるかったでーす。みんなで慣れ合っててくださいな!おれはもう干渉しません!もうおれがなにをしたって意味ないんだってよーくわかったのでご安心をくださいませ~。
一ノ瀬もずーっと何も考えずただ甘やかしてくれる伊藤くんに依存していればいいよ!」

誤魔化すようにそう言った梶井の言葉は確かに突き刺さる。
ぷらぷらと振り向かず手を振って屋上から出ていく梶井の後姿を俺と湖越は呆然と見ていた。
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