2章 後編


水張ったバケツに顔面を突っ込まれたのはさすがに命の危機を感じて暴れて、バケツをひっくり返して水がかかったとかでまた腹を蹴られて咳き込んでも忌々しそうに唾を吐きかけられても、その次の日も学校に行った。
帰るころにはすでに夕方で急いで鞄の奥にしまっていたタオルで拭いて帰路に着いて、父さんが帰ってくる前にはいつも通りの俺を演じて笑みを絶やさなかった。
学校では価値のない人間以下の俺だけど、それでも家族では『進学校に通っている息子』という価値が俺にはあるんだ。


「最近学校はどうだ?」
「楽しいよ。仲の良い友だちも出来たからさ。」
父に聞かれて友だちがいると答えた。満足そうに笑みを浮かべているのを俺はそれに微笑み返した。
『勉強はどう?何か困ったことはない?』
『順調だよ。先生も良い人だよ。』
母にメールで心配されて上手くやっていると伝えた。嘘吐いてでもこう返すのが正解なのだと言い聞かす。
『お兄ちゃんッ今度勉強教えて~!英語が全然わかんないよ~!』
「うん、もちろんだよ。いつなら空いてそう?」
弟の勇気とそんななんでもない会話をする。通常を装っていつも通りの声音を意識して話した。
『家族に心配かけたくない』そんな一心で家族の誰にも相談せず、悩んでいるようなそぶりも見せずに、毎日学校に行った。



酷い子なんて年単位でいじめを受けている子だっている。
俺はまだ3ヶ月も経っていない、もっと酷いいじめを受けている子だっている。
俺だけが不幸なわけではない。俺以上に不幸な子だっていっぱいいるんだから……俺は、大丈夫。

いじめられる度、学校に行く度、家に帰る度、そう思うことでギリギリのところまで踏ん張っていた。出来る限り絡まれても淡々とするようにした。そうすればいつか飽きる。
きっと2年生になれば飽きているだろう。そう望みをかけて休むことなく通学する。
俺の考え通り、俺の反応が乏しくなってきたせいか少しずつ絡まれる回数が減っていった。相変わらず俺に話しかける子もいないけれど、それでも絡まれないだけましだった。最近ではちょっと絡まれただけでは動じなくなったし……このままいけば飽きる日も近いだろう。




そう高を括り始めてきたころ。
みんなが次の期末テストの準備に取り掛かろうとして余裕がなくなってきたころの秋口。
いじめられる前と同じ時間に出て、いつも通りギリギリまでトイレで過ごしてから教室に入ると皆が俺に視線を向けた。
「……?」
俺をいじめているグループ以外のクラスメイトには無視されているので視線を向けてくること自体珍しいことだ。
しかもその視線がどこか気まずそうな雰囲気だった。いつもは俺のことなんていないかのような扱いなのに。今その視線はどこか同情的にも思える。
……なんだろう。嫌な予感がするのは気のせい、だろうか。
気のせいだったらよかったのに。

「へぇ、叶野のとこって親別居してるんだー。しかも父親と2人で今暮らしてるんだ?知らなかったなぁ。」

まるで俺がいるのを察したかのように羽佐間くんの大きな声が教室に響いた。
(どうして、知ってるの?)
第一に思ったのはそれだった。
自分の家庭事情は誰彼構わず話していないことだ。小学校のときは木下くんのことがあってそのまま学年の全員に知られてしまったからどうしようもないことだ。
けれど同じ小学校の子がこの進学校に通っているのは俺以外いないのは確認済みだ。
……もしかしたら、この学校で通っている子のなかに俺の小学校の同級生の知り合いでもいたのだろうか。一瞬浮かんだ考えを取り消してそんな可能性に行き当たる。今では話さなくなったあの子を疑いたくなかったんだ。
無理矢理かもしれないけれど、誰かが親戚とか友だちの友だちとかそう言うのでたまたま俺のことを知ってしまったんじゃないか。そう思ったんだ。

……そうだったら、良かったのに。それなら傷ついてもきっと耐えられたのになぁ。

「本人から聞いたから間違いないよ。それで僕、誘い断られたこともあったからさ。」
「えーまじで?」

期末テストの前まで良く聞いていた声が聞こえてきた。前に聞いた声よりも、上擦っていて甘く聞こえたけれど同じ声だ。
羽佐間くんと向かい合って楽しそうに、俺のことをすらすらと話す声。
前まではそうやって俺は彼と笑い合っていたのに。信用していたから、信用できると思えたから、信じられるとそう思っていたのに。そう思っていたから俺は、全部話したんだよ。
どうして、そんな楽しそうに話しているの?羽佐間くんと彼の周りにいつもいる4人に囲まれて少し頬を染めて笑みを浮かべて。
俺の秘密を彼らとクラスメイトにも聞こえるぐらいの大きな声で話しているの?
どうして。

「ど、うして、三木くん……っ」

久しぶりに学校で言葉を発した。
出席をとるときの返事と授業で指されたときと、泣き声と呻き声以外ではかなり久しぶりのことだった。
信じたくなかった。期末テストの結果が出て以降三木くんと話すことは無かったけれど、それでも積極的に俺を虐めようとしていなかったから、三木くんのなかで少しでも俺へ情があるんだと思いたかった。
俺の声は意外と教室に響いた、羽佐間くんたちと三木くんも俺の方を見た。俺の姿を捉えたときの三木くんが一瞬青ざめたような顔をしていたのは俺の都合の良いように脳が置きかえていたのだろうか。

「……っこの際だから言うけどさ!ずっと、叶野くんのこと鬱陶しかった!嫌いだった!!」

俺のことを一直線に睨みつけながらそう大きな声で三木くんはそう言う。

「……え?」

思わぬ三木くんの言葉に俺は間抜けに目を見開いて彼を見つめて固まっているしかできなかった。そんな俺にたかが外れたように、俺以外にも見られているのも構わず続けた。

「聞いてもいないそんな重いことを、僕がどれだけ気まずい気持ちになったか知らずにっずっと話続けてさ!話を聞いてほしいだけだったんでしょ!?否定されずに何も遮られずに、話聞いてくれるなら誰だってよかったんじゃないの!?」
「そんなこと……」
「どうだか!その叶野くんの話を聞いていたせいで俺全然テストに集中できなかったのに!なのに、叶野くんはなんで俺より順位高いんだよっ」

否定しようとしたけれど、それは三木くんの叫びに遮られた。
俺の、せい?
俺が三木くんを信用して話したことは、三木くんにとって……重荷になってて、それでテストに集中出来なくなった?
俺だけが話してすっきりして、て。

俺は、

「本当、いい迷惑だった!」



彼にとって『俺』は、ただただ迷惑な存在だったんだ。

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