2章 後編


現実逃避のように夏休み明けのことを考えないようにして、誠一郎や木下くん、連絡を取り合った同級生と遊んだ。
夜、誰もいない家に帰ってきてもボーっとすることもできなくて(そんなことしたら現実と直視しなくてはいけなかったから)ギリギリまで寝ずに宿題して。宿題が終わってしまっていたら勉強した。
他のことをしていれば、現実を見ずに済んだから。

夏休み最終日の夜も、同じように目が霞むまで勉強してからようやく布団の中に入った。
大丈夫、大丈夫大丈夫。怖くない。学校も、クラスメイトも怖いものじゃない。
もう、みんな普通になってる。もういじめなんて無くなってるはず。三木くんも俺に話しかけてくれるはず。
おなかが痛くなりながら、そう自分に言い聞かせてから眠りについた。

始業式が始まる前の教室。
教室に入る俺を一瞥しただけで誰も挨拶さえしてくれなかった。
三木くんと、目が合った。
だけどすぐに逸らされてしまったことによって『まだ終わらない』ことを察してしまった、分かってしまった。
「……っ!」
泣きそうになるのを堪えて、自分の席に着こうと歩みを進めると座っていたクラスメイトが思いっきり俺の脛を蹴ってきた。突然の痛みに悲鳴を上げることもできなくて、でもなんとかこけずに踏ん張った。

「んー?なんか俺の足に当たったんだけど。」
「れいげんしょーってやつ?こわー」

俺の存在は空気と同じものという設定らしくて、あきらかに故意で蹴ってきたのに足になにか当たったとそう話している。
相手のほうもそれが分かっているんだろう。チラッと俺へ視線を向けながら笑っている。彼は話したことはないけれど髪を赤に染めていて目立っていたし顔立ちも整っていてノリもよさそうなクラスメイト、周りに人が集まっていて楽しそうにしていた。今俺に笑みを向けているけれど……いつも通りの笑みを浮かべているのが、鳥肌が立った。
痛みと悲しみで、目じりに勝手に涙が溜まる。でもそれを見られたくなくて俯いて、痛む脚をそのままに引きずるようにして席に着いた。
どうしよう、どうしようどうしよう。
終わらない。俺への扱いは夏休み明けてもなお続く。むしろ悪化しているように感じる、どうしよう。
嫌だ。この空気は、いやだ。空気がうまく吸えない。
とにかく、今日が終わったらすぐ帰ろう。
明日から怖いけれど……でも今日はすぐ終わるから、とにかく逃げないと。
帰りのHRが終わったら、すぐ……。
そう決めていた。胃を痛めながら先生の話を聞いて誰にも絡まれないように休み時間はギリギリまでトイレにいた。
その甲斐あって誰も俺のほうへ来なかった、このまま今日帰れることを願った。
だけど、それは叶わない。
帰りのHRが終わって先生が行って、俺もそれを追いかけるようにすぐ教室を出ようとしたけれど。

「おい、待てよ。」
「!?あぐっ!」
「わぁ、だっさいねぇ。」

さっき足を蹴ってきたクラスメイトが下を見ずに早足だった俺の足を引っかけてきた。そのまま顔面から床に突っ込んだ俺をわらう。笑っているのは彼だけでなく複数人。
……俺の気にしすぎだと思いたいけど、たぶん、三木くんのわらい声も聞こえた気がする。

「なぁってば」
「いっ……!」

無様に床に転がっている俺の前髪引っ張って前を向かされる。
痛みで目が閉じてしまって、生理的な涙が出た。
ぼやける視界のなか、目の前のクラスメイトの楽しそうな笑顔が見えて、俺は心底ゾッとした。
なにをされてしまうのか、わからなかった。俺を虐めることが楽しくて仕方の無さそうな彼の笑顔が怖かった。

「そんな怯えなくてもいいんじゃね?……あーでもその顔いいな~……」

後半は俺にしか聞こえていないぐらいの音量だった。小さな声だったけれど心底嬉しそうな声に鳥肌が立って、自分の生命に危機感を覚えた。

「っはなして!」

さっきまで全身を床を強打した痛みで動けなかったのが嘘のような俊敏な動きで彼の手を振り払って教室を出た。明日のことなんてなにも考えず、今の自分の身を守ることを優先させた。

「うっわー…いったー」
「あいつ最悪だな!明日謝罪してもらわないと!」
「そうだなぁ。」

振り払われた手をわざとらしく痛そうにクラスメイトに見せつけて、俺へのヘイトを溜めていた彼……羽佐間くんは

(……うん、叶野ってやっぱり可愛い。欲しいなぁ。)

誰にも気付かれないように愛おしそうに振り払われた手を見つめていたなんて、俺は知りたくも無かった。

次の日からいじめは激化した。
羽佐間くんはあの日以来直接俺に手を下すことは無かったけど、いつも楽しそうに傍観していた。
トイレで何度も胴体部分を殴られて、掃除用具のモップを顔に押し付けられて、水かけられて。
昼用に買ったパンをゴミ箱に捨てられた。教科書やノートを引き裂かれた。
体育が終わった後、制服に着替えようとしたけれどYシャツを盗まれてしまったことも何度もあった。
無視されることはなくなったけれど、次は俺が触れるものが腐るとか菌扱いされた。……これなら無視のほうが何倍も良かった気がする。
先生が見ていないところをやってくるし、殴るところも見えないところと徹底されて、クラスメイトはおろか巻き込まれたくないようで他クラスの子も俺のことは見て見ぬフリだ。
心配かけてしまう、そう思って父さんに言えなくて。母さんにも勇気にもそんなこと言えないし今会えば何を言ってしまうか分からなくて会えなくて……もう、無理だ。
夏休みが明けいじめが激化して2週間、ようやく先生に言う決意をした。
俺さえ何も言わず耐えていれば何も問題ないクラスだったから、それが面倒ごとになるのが嫌だったみたいで『気のせいじゃないか』と再三言われてきたけれど、引き裂かれたノートや教科書、自分の殴られたおなかの痕を見せれば渋々ながらもやっと重い腰を上げてくれた。
……机に書かれていた落書きのこととか気が付いていたくせに。授業のとき教室をぐるっと回るのだから気が付かないわけがないんだ、机に油性で書かれた『死ね』などの暴力的な言葉があるんだから。
責めたくなるのを抑えた。けれど、そんな先生が動いてくれたことで安心してしまった俺も俺かもしれないね……。


「叶野をいじめてるやつは誰だ?主犯は?」
「んーそれ俺が指示したー。直接やってはないけどね。主犯は俺でーす。」

帰りのHR、俺へのいじめの主犯は誰なのか聞く先生に羽佐間くんはすぐに挙手した。

「かのうー、ごめんねー。」

頭を下げることもなくそれどころか立ち上がることもなく、ただへらへらと笑いながら砕けた体勢で椅子に座ったまま簡単に謝罪される。
あのときの木下くんと違う、何の重みもないただの言葉だけの謝罪。
全く悪いと思っていない、反省も後悔もしていない、そんな形だけの謝罪。
『……許したくない、いや許せない。』
初めて強くそう思った。何一つ誠意を見せず悪びれることも無く、いつも通りの笑みを浮かべているそんな羽佐間くんも。俺に直接手を出したのに羽佐間くんを「うわまじかよー」と笑っている彼らのことも。
腸が煮えくり返りそうな気持ちになって(そんな謝罪受け入れるはずがないだろ!?)そう心のなかで強く思い、その心のままに叫ぼうとする。
そう叫ぼうとするのを止めたのは、

「……羽佐間は謝ったからもういいよな?叶野」

心底面倒くさそうに俺にそう言った、先生の声だった。
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
だって、あの謝罪と言うのもおこがましいただの言葉を、謝ったと先生は認識してしまったのか信じられなかった。
目を見開いて先生を凝視していると

「羽佐間が謝ったんだからもういいだろ?」
「早くしてよ。私塾あるんだけど。」

今まで静かにしていた他のクラスメイトもざわざわし始める。
どうしていいのか分からなくなった。
なんで。
俺はなにも悪くないのに。悪いのは、そっちじゃないか。
どうして何一つ誠意なんて込められていない言葉を放ったのは羽佐間くんなのに。いじめられているのは、俺なのに。
本当じゃない謝罪に俺の意志じゃない嘘で返さなくてはいけないの?
なんで、どうして。
どうして、おれを責めるの?

「いやぁ俺言葉軽いじゃん?そりゃ叶野も納得いかないんじゃない?」

どういうことなのか羽佐間くんが俺を庇うそぶりを見せる。きみが、せめて普通に謝ってくれさえすれば俺は素直にその謝罪を受け入れられたのに。どうして元凶が俺を庇うそぶりをする。善人ぶっているのか。そう、か。

「それひどくねー?」
「差別じゃーん。叶野くんはぁ、そんなことしないよなぁ?ただ反応が遅れただけ、そうだろ?」
「許してくれるよな?」

クラスメイトの1人が俺へ視線を向けて問いかけた。
逆らうなんてしないよな?そう馬鹿にしたような軽薄な笑みを浮かべて。
少しだけ冷静な頭が、教室の状況を把握する。
誰も彼もが、俺のことをクラスメイト……いや人として見ていないそんな冷たい目をしている。
この教室に俺の味方なんて一人もいない。そう、思い知らされてしまった。
俺を虐げて楽しんでいる目と関わろうとしないように目を伏せている人と早く帰りたいと訴えている冷たい目だけ。

三木くんが楽しそうに笑っているのを見て……あきらめた。

「……うん。そう、だよ。もう……いいよ。許す、よ。」

抗うことを、あきらめた。

「そうか。羽佐間もうするなよ。」
「はーい」
「それじゃあHR終わり。号令」

起立、令。HRが終わる。
各々放課後を過ごすべく立ち上がるなか俺は呆然と椅子の背に持たれて力なく座った。
ショックだった。
庇ってくれる人はいなくとも誰かしらは内心心配してくれたんじゃないかとそんな期待は粉々に砕け散り、自惚れた自分を恥じた。俺は、少なくともこのクラスで何も価値のない人間なのだとそう思い知った。

「せっかく勇気出したのにね。残念だったね。」
「……」

ひっそりと俺にしか聞こえていない小さな声でだけど楽しそうにそう言う羽佐間くんに俺は何も反応を帰すことができなかった。

「叶野くん~チクったな?」
「お仕置きだな。」

ほら立てよ。
そう腕を引っ張られてされるがまま連れられる。またトイレで水かけられるか。雑巾を顔につけられるか。サンドバックもあるかな。
なんだか、どうでもよかった。価値のない自分なんかなにされたっていいや。
ああ、でも。
この場に誠一郎がいてくれたら違ったのかな。なんて。
いつまでも他力本願な自分が馬鹿らしくて勝手に笑みが零れた。自分が愚かで哀れで悲しくて、色々な感情を通り越して思わず笑ってしまう。


(その諦めた暗い笑顔もいいねぇ。ああ、でももっと泣いてほしい。……あ、そうだ。あいつを使おうっと。なんだか最近俺に気に入られようとしてるし、たぶんうまくいくっしょ)
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