2章『結局のところすべては自分次第。』


母さんが自分よりも小さい弟の勇気を連れて行ったのを俺は見ていた。それを、見送った。

「希望、お母さんと勇気は買い物に行ってくるからお留守番よろしくね。」

家を出る寸前、母さんはしゃがんで俺と同じ目線になって目を真っ直ぐ見てそう言った。
いつも通りを演じる笑顔を貼り付けて、でも目が潤んでいたのは俺の願望だったのかは分からないけれど、惜しむように俺の頭を撫でている手が妙に記憶に残った。
『母さんは、うそついている』小学校4年生だった俺にも分かるほどの違和感がそこにあった。
ただの買い物だったら、いつもなら俺も連れて行ってくれるか勇気とともに留守番しているかのどっちかだった。
いつもの買い物なら、母さんはそんなに大きな荷物を持っていくなんて見たことない。そんな大きな荷物を持っていくときは、旅行ぐらいだったけれどあきらかに旅行のときより量が多くて、家の中にある母さんと勇気のものが少なくなっていることを俺は知っていた。
いつもと違う雰囲気にあきらかに母さんが嘘ついていることを知りながら。

「……分かった。行ってらっしゃい、気を付けてね母さん。」

笑顔で母さんに騙されたふりをして俺は頷いた。
勇気は気が付いていないようで「おもちゃ買ってー!」と母さんにねだっていたのをどこか遠い意識でそれを聞いていた。

「いってきます。」
「いってきまーす!お兄ちゃんの好きなチョコも買ってね!ね?」
「……そうね。」
「……いってらっしゃい。」

なにも気が付いていない勇気に俺は複雑な気持ちになった。母さんに選ばれて羨ましい。だけど留守番を言い渡された俺のことも気遣ってくれる弟に、なんだか悲しい気持ちになった。
俺もいっそ、気が付かなかければよかったな。

「はやく、帰ってきてね。」

分かってる。勇気はともなくもう母さんは帰る気がないのを。
それでも、せめてもの訴えとしてそう告げた。母さんは曖昧に笑ったままなにも答えず玄関の扉を開けた。
二個下の無邪気な勇気の笑顔と悲しげな母さんの笑顔のふたりの姿を玄関先まで見送った。
「ごめんね」そう母さんが俺を見ながら口パクで告げられ、扉は閉められガチャリと鍵をかけられた。
母さんと勇気がいなくなって静かになって。母さんが最後なんて言ったのかを脳が理解したと同時に……その場にへたり込んでしまった。

「…かあさん、勇気。」
「いかないで。おれを、おいていかないで。」

すでに扉が閉められて聞こえていないとは知りながら、力なくそうつぶやいた。
母さんが思い直して引き返して、扉を開けて、俺を抱きしめて『ごめんね』と言ってくれることを願った。
願いだけで『おいていかないで』と泣いてその腕や足に絡みついて喚きちらして引き留めればよかったのかな。
でも、俺はお兄ちゃんだから。弟の前で泣くなんてみっともない。母さんに、迷惑な子と思われたくなかったから、そう願うことしかしなかった。

結局父さんが帰ってくるまで玄関の扉は開くことはなかった。
帰ってきた父さんは玄関先でへたり込んでいる俺に驚いていた。動けずにいる俺を抱えてリビングへ移動した。
俺のことを心配していたのか早足でリビングへと向かっていたけれど徐々にその足取りが重くなった。
俺以外人の気配がないことを察したんだ。
ソファに座らせて、すぐ父さんは俺を抱きしめた。

「すまない、希望。すまない…。」
「……おれは、だいじょうぶだよ。父さん。」

不仲だったから。本当は俺分かってたんだよ。家のなかの母さんのものと勇気のものが少なくなっていたの。
でも、言えなかった。
だって、俺の荷物は減った様子なんてなかったから。
俺が置いて行かれるなんて、わかりたくなかったんだ。
母さんが勇気だけ連れて行ったのは、きっとまだ小学校1年生で平均より身長も低くて身体もまだそんなに強くて自分がいないといけないと思っていたから。
俺を置いて行ったのは俺は『しっかりしたお兄ちゃん』と思われていたから。そう、思われるようにしていたから。
甘えたいの我慢して弟に譲って、母さんの手伝いをして、父さんとも仲良くお出かけしていたから。学校生活もそれなりに順調で身体も丈夫だったから、俺は『置いて行って大丈夫』と判断された。

心底申し訳なさそうに謝る父さんを宥めるようにその背をトントンした。
ここで一緒に泣いていれば、もう少し父さんも俺を見てくれたかな。心配、してくれたかな。

俺、素直って言われるけど案外こういうとき意地張っちゃうから。
特に家族には心配されたくなかったから。泣きたいの我慢して笑う。俺が泣いちゃうと、迷惑になっちゃうから。
父さんのほうが、きっと辛いから。
自分が辛いのなんてどうってことない。自分の傷を見ないフリして目の前の父さんの気分を少しでも上向いてほしくて懸命だった。

小学校4年生、夏休み明けすぐ母さんは勇気を連れて県外に住む祖父母のもとへ行ってしまった。
置いて行かれた俺はいつも通り小学校があった。

残酷なまでに、誰にでも平等に朝はやってくる。
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