2章『結局のところすべては自分次第。』


進学校じゃないけれど、やっぱりテスト前だからか先生たちはちょっとピリピリしているようだった。中間テストより期末テストのほうが範囲も広いしね、それに先生たちも俺らに期待してて分かってほしいからピリピリしているんだろう。
牛島先生は『ここはこうだ、どうせお前らみたいな低能には分からんだろうが!』と言って笑っていて、分からないことを笑いものにしようとするのより断然ピリピリしているほうがいいな。
その言い方に苛立ったのかこのまま補修になって牛島先生と夏休みに顔を合わせるのが嫌だと感じたのか元々神丘学園にいたというのもあってそれなりに頭が良いと分かっていてこの間のテストの点数で実力をみんな知っていて、かつ伊藤くんと誠一郎の成績を向上させたという実績を持つ一ノ瀬くんに数学を教えて欲しいと乞うクラスメイトが続出した。
ほとんどのクラスメイトに『数学を教えてください!一ノ瀬様っ』と頭を下げられたり手を合わせられたりして、戸惑った様子を見せながらも嫌な顔することなく断る理由が見つからなかったようで頷いてくれた。
やっぱり、一ノ瀬くんは優しい。
目の惹く顔立ちはあまり表情は変動しないし一般的な男子高校生にしては口数が少なくて、正直第一印象は冷たそうだなと思ったんだ。
近寄りがたい、そう思ったのはたぶんほとんどの生徒が思っていただろう。しかも初日から伊藤くんと一緒にいたから警戒されていたところもあった。
でも、一ノ瀬くん自身が静かで穏やかだった。波のない海のような優しさがあった。
裏表などない隠したりしない、誰かを貶したり悪口を言ったりしない人。
一緒にいていく中で一ノ瀬くんはその容姿に見合うほどその中身まで気高くて美しかった。楽しいときは楽しそうにして怒るときは本気で怒って……俺とは違いすぎて、羨ましい。
俺のなかの劣等感を一ノ瀬くんといると、見ないふりしていたところが浮き彫りになっていく気がする。
俺が勝手に八つ当たりして嫌な思いさせちゃっただろうに、それでもいつも通りに接してくれる一ノ瀬くん。それでも友だちと言ってくれる、優しいひと。
(俺も、あんなふうになりたい)
羨ましい。俺にないものすべてを持つ一ノ瀬くんが。伊藤くんが。鷲尾くんが。自分自身の本当を出せる彼らに嫉妬している。自分が勝手に閉じこもっているくせに。
……俺も、あんなふうになれるだろうか。分からない。だけど、せめて彼らの隣にいても胸を張れるようになりたい。
そのための一歩を明日こそ踏み越える。あした。怖いけれど……楽しみ、かな。
恐怖のなかに確かに、ワクワクした気持ちがあった。嫌に心臓がドクドクするけれど『大丈夫だ』と自分に言い聞かせた。
勇気を出す準備のための今日だった。

明日から、俺は変われる。
明日から胸張れる自分でいられる。
明日からなら、いける。
そのために今日という日は精神統一して明日に備えようとしていた。心構えを造るための時間だった。
けれど。

「よっす、叶野。」
「うわっこ、小室くん?」

昼休み。
一ノ瀬くんはほとんどのクラスメイトたちにもみくちゃにされ(時折伊藤くんの少しは透任せにせず自分でやれ!という怒号が聞こえてくる、一ノ瀬くんに対してとんでもなく優しい)鷲尾くんは明日に備えてなのか塾の宿題なのかは分からないけれど一人マイペースに勉強しているのを誠一郎のところでそれらを眺めつつ教科書を開き一緒に明日の英語を復習していると、突然肩を組まれて小室くんが親し気に話しかけてきた。
……俺は、小室くんのこと嫌いではない。
だけど、その笑みは……うまく説明できないけれど嫌な感じがする。
ニタニタ…漫画だったらそんな文字が小室くんのとなりに書かれていたのだろうかと思う笑みだ。

「どうした、小室が話しかけてくるなんて珍しい」

強張った顔をしながら誠一郎が小室くんに問う。
普段の小室くんならまず有り得ないことをしているし、俺も朝の小室くんのことを話さなかったからなお不審に感じるだろう。俺も慣れていない小室くんから接し方でなんだかぞわぞわしてしまう。

「ちょっと叶野に聞きたいことがあってさぁ」

不信感を募らせている俺らなんて見えていないのか小室くんは上機嫌のままにそう言う。

「……?俺?」

俺に聞きたいこと?
勉強のことかな?普段なら勉強せずボールを持って教室を出ていくクラスメイトも現在一ノ瀬くんに数学を教えてもらっている。そんなクラスの雰囲気のせいか一ノ瀬くんに近寄ろうとしないクラスメイトも教科書を見ている人が多い。
一ノ瀬くんに聞けないから俺に聞きに来たのか。そんなことを思った。
肩を組まれたままで顔が近いなぁと思いながらも小室くんの質問を呑気に待った。
小室くんからすればこれからなにを言われるのか分からない俺の顔はさぞ間抜けに映ったんだろうなぁ。


「お前さぁ、人間不信のくせによくそんな風に人が好きですーて顔でいられるよな!そんなに人気者でいてえのか?誰からも嫌われないように必死に縋ってる自分が嫌になったりとかしねえの?!」


突然クラスのみんなに聞こえるような大声でそう言う小室くん。
大声でそう耳元で言われた俺は小室くんの声はよく聞こえている。耳が痛いほどに。なのに、言われたことが上手く理解できない。
俺はここにいるのにどこか意識が遠くにいて、無性に目の前の誠一郎がこれでもかって言うぐらいに眼を見開いている顔と、覗き込む小室くんの歪んだ口角が妙に記憶に残る。
小室くんの唐突の不自然なまでの大声に教室がシンと静かになって何事かとクラスメイトの視線がこちらに向いたんだと思う。視界の端に、鷲尾くんがこちらを向いているのがわかる。おれをみないで。

「あー湖越だっけ?こいつ以外だーれも信じれていないんだろ?ああ!そういやお前実は中学のとき進学校だったんだよなぁ?それなりに出来るくせしてできないふりするのってなんで?ほんとうは出来るけど出来ないフリするのに酔ってる感じだったり?そうだよなぁ、出来ちまうと嫉妬されちゃうから安全なところいれなくなっちゃうもんな!
無害そうな笑み浮かべて結構腹黒い感じ?ま、誰からも嫌われないように誰にも自分を傷つけられないようにするためには手段を問わないか。賢い生き方ってやつ?いじめられないようにいじめないようにそんな安全圏にいたいよなぁ。
周りに囲まれて誰にも嫌われない人気者になりたいんだもんなぁ?
信じていない奴らに囲まれてお前っていつもどんな気持ちでいるんだ?なぁ叶野??」

何も言わずにいる俺を畳みかけるように、クラスメイトに説明するかの如くそう言う。
「これは小室くんのまったくのでたらめ。俺はそんなこと思っていない、勝手なこと言わないで。」なんて、言えたらよかったのに。言い方や考え方は違えど
なんで、小室くんは俺のこと知っているの?疑問すら浮かべることができない。それよりも、どうしよう。そう思った。

「あれって小室の嘘、か?」
「いや、でも叶野否定してないよな。」
「じゃあ小室の言っていることってまじ?うわ、なんかショック。」

徐々に教室がにぎわっていく。それとは逆に俺の血の気が下がっていく。
どうしよう。
おなかに不快感がひどい。怖い。吐き気がする。逃げ出したい。身体は冷えていくのに背中と知らず知らずのうちに握りしめた手のなかに汗が溜まっている。
小室くんの言うことを肯定はしていないけれど、否定の言葉も出さない俺にクラスメイトの視線は突然大声を出した小室くんから、俺へと移っていく。
俯いていても痛いほど視線を感じているから分かる。ああ、あの日に戻ったみたい。いや、だな。

「は……小室!お前いい加減にしろよ!!」

立ち上がり今にも掴みかかりそうな誠一郎に臆することなく小室くんは首を傾げる。

「えー?俺間違ったこと言ったか?なぁ叶野?どっかまちがってる?それともほんとうのこと?どっち?」

顔を見なくてもなんとなくわかる。きっと楽しそうな笑顔なんだろうな。
呼吸が乱れる。あの日のことを思い出す。小室くんも……あのときの彼と同じように俺のこと……良い子ちゃんぶって癪に触ったと思っているのかな…。
誠一郎が怒ったことを逆手にとってさっき言ったは間違っているのか本当のことなのか、俺に答えを求めてきた。
俯き、制服のズボンをグッと握りしめる。もう7月で暑いぐらいなのに俺の身体は冷えていて、恐怖から震えている。
じわりと涙が零れそうになるのを我慢する。

このまま、何も感じない石になりたい。

心からそう思った。

本当のことを本当だなんて言いたくなかった。
だって俺は、本当のことを本当と言いたくないほどに、俺の『本当』に吐き気がする。
自分が否定したくて仕方がないことを他のひとに言われて。ああ、今まで自分の本当を無視してきたつけがたった今回ってきたんだろうか。

否定できないことだった。本当のことだった。おれが、誠一郎以外の人たちをクラスメイトを同級生を心の底から、怖がっていたこと。途中編入したとは言え進学校に通っていて、テストも本当は分かるところを分からないふりした。
誰からも嫌われたくないし嫌いたくない。その場の空気を読んでその場に合った発言をして楽しそうに演じてた。
誠一郎以外の人のこと怖くて仕方がないのに、自分を偽って笑顔の仮面を貼り付けて……苦しかった。本当の自分はどこにいるんだろう。本当じゃない自分の傍に来てくれて申し訳ないと思った。
俺の手が震える。怖い。こわいこわい。逃げたい。ここから、駆け出してしまいたい。

そのまま、嫌なものから逃げてしまいたい。
今の俺の都合の悪いものをすべて閉まって新しくやり直したい。中学のときのように。

心からそう思う。

だけど、それと同時に湧き出る気持ちがあった。
だけど……俺はもう、逃げたくない。情けなくても、醜くても、みっともなくても、いい。
情けなく震えてしまう手(足まで震えてしまう)のままに俺は言葉を吐き出した。

「……っだ、よ。」
「え?なんだって~聞こえない。大きな声で言ってくれよ!」

俯き詰まって上手く声が出せなくて答えがざわめきにかき消され、小室くんに聞き直される。
俺がなにか言おうとしている。そう皆に認識されひそひそと話す声は聞こえるけれど、さっきより静かになる。
「もう一回!ほら、言えよ!」
言い出しにくいようなことを言う小室くん。さっきだってかなりの勇気をもった行動だったのに、聞こえないと言われてそれをもう一回やれと言う。
俺は小室くんのことは嫌いじゃない。
だけど、煽るようなことを言う小室くんにイラッと来た。俺のことを面白がりやがって、俺のこと踏みにじろうとしやがる小室くんに勝手ながらカッとなった。

「、ほんとう……のこと、だよ!」

その苛立った高揚した気持ちのままに、椅子から立ち上がりギッと目の前の小室くんを睨みつけ怒鳴りつけるようにそう言った。
興奮したせいで溜まった涙が頬を伝い多少視界がクリアになる。
そんな視界に移ったのは、さっきまで黙りこくって震えて怯えていたのにいきなり勢いよく立った俺に吃驚したのか歪んだ口元はそのままに目を点にする小室くんと、静まり返り口を開けて俺を見るクラスメイト、そんななかで表情を変えずにそれでも俺のことを静かに見ている一ノ瀬くんといつも通りの調子ででも俺へ視線を外さない伊藤くんがいた。
2人と目が合う。特に何のリアクションは無かったけれど、なんだか安心した。
情けなく足震えてて今にも崩れそうだけど。俺の『本当』を言って嫌われるのは……怖いけど。
それでも。
俺はここで言わないと、この先多分一生後悔する。
あの日。俺は『本当』を言えずにいた。
後悔は今でも続いている。そんな後悔は……一度だけで良い。
そう決めたけれど、鷲尾くんに見られているなんて意識したくなかったから、視界にいれず今だけは鷲尾くんのことを忘れることにした。




俺はきっと恵まれているほうだ。
父さんはちゃんとした社会人でおおらかでギャンブルはしていないし、母さんは厳しくも優しくて俺らを放置して出かけるなんてことなかった。
弟の勇気は中学生で俺に懐いてくれている。……離婚の危機があって別居していた時期もあったけど。
信頼できて裏切らないと信じている友だちの誠一郎がいるし、この水咲高校に来れてみんな俺のことを認めてくれる。
ちゃんと担任の先生がこっちの話をちゃんと聞いてくれる岬先生だった。いじめられてもいないし不良に絡まれることもない。

分かってる。今何の不安に思う必要のない恵まれた環境にいるってことは。
分かってる。本当に辛い思いをしている人から見れば幸せなところにいるってことは。

分かっては、いるんだ。頭では。


俺の気持ちだけが、編入前の中学校のあの日々のまま置き去りにされている。そんな、俺の心だけの問題なんだ。



俺こと叶野希望は両親のもとで普通に病院で叶野家の第一子として生まれた。
お金持ちでもなければ貧乏でもない一般家庭で普通に何の障害も事故もなく俺は生まれて、何の異常もなく五体満足に特に騒がれるほどの頭脳や特技も容姿でもなくかと言ってドン引きされることもなくのんびり生きていた。
小学生になって、俺は特別勉強が出来る訳ではないけれど新しく何かを学ぶことが楽しくて勉強は結構好きだった。図書室に行くのもドッチボールするために校庭に行くのもどっちも楽しかった。
家でも勉強して後々もっと学びたいそう思って塾に行きたいと母さんにねだったおかげか点数は結構良いところまで行っていた。
両親も褒めてくれたし、周りもすごいって言ってくれるのは気持ちよかった。自分が本気でやってその分の結果が出てくるのが今思えば楽しかったのかも。両親も俺に対して過剰な期待をするわけではなく、良い点数とれたのなら今度良いものを食べに行こう、ぐらいだった。あのころは、家族全員よく笑ってた。俺も『本当』に楽しかったのは覚えてる。
でも少しずつ俺が2年生3年生と上がっていく毎に徐々に両親の仲が不穏になっていった。
4年生になったころにはほとんど会話なんてなかった。笑顔なんて家のなかではもうなかった。そのぐらい、からかな。いや自覚したのはそのぐらいだったけれど実際はもっと前かな。

『作り笑顔』を覚えたのは。

少しでも父さんと母さんの間にある空気を穏やかにしたくて無邪気を装って笑顔作って二人のもとへ話しかけて、何とかして仲良くならないかと思考錯誤してた。
それでも良くならない二人の仲に弟が泣き出しそうになるのを宥めたりして。「おれがなんとかするから」ってそう慰めた。弟にも、自分にもそう言い聞かせた。
弟を安心させるために、また笑顔を作った。泣きそうになっている弟がいるのにお兄ちゃんである俺が泣くなんて許せなかった。結局その努力は実らなかったけれど。

誠一郎に出会ったのはそんな小学校4年生のGW明けた時期。
誠一郎が俺のいた小学校に引っ越してきたんだ。
『小学校4年生』というのは意外とシビアな年頃だと思う。下級生ではないにしても上級生だと胸を張れるわけでもなに4年生。
自我が大分ハッキリしてくる、そんな年頃だ。
たぶん皆と違うことをする子や皆とは違う容姿の子を異端と感じ始め、クラスメイトが良い点数をとった子や体育で活躍している子を「すごい」という純粋な尊敬から「羨ましい」という感情が芽生え始めてくる時期、だって俺は勝手に思ってる。
少なくとも、俺らはそうだった。

今でこそ誠一郎は筋肉質でガッチリしているけれど、出会った当初は見てすぐわかるぐらいに全体的に肉付きが良くてむちむちと柔らかかった。
周りの子は普通体型から痩せ型の子が多くて誠一郎は目立っていた。そして今では面影がないぐらい酷い人見知りで誰かの目を合わすのも苦手なようでいつも下を向いているような子だった。
周りとは少し違う容姿と周りとは少し違う立ち振る舞いをしているだけで、目を付けられた。いじりやすいと思われたのか攻撃してもいい理由が出来たのかわからないけれど、誠一郎をからかうようになった子が増えた。
全員が全員誠一郎をからかったりしていないけれど、からかう人がまったくいないというわけでもなかった。数人が誠一郎を囲んで意地悪なことを言っているのを俺は何回も見ている。
俺もそのとき家族のことがあったからあまり元気じゃないのに笑みを作るのに必死になっていたから絡まれているのを見て常に庇うことができなくて、申し訳ないことに何回かは見て見ぬフリをしている。

何とかいじめにはならないようにからかうぐらいに留めるようには出来たけれど、からかうこと自体を辞めさせることは出来なかった。
誠一郎も酷い人見知りだったから二人で一組を作るときに一人余ってしまう結果となってしまったり、教室で居心地が悪そうにしているのを見て自分が手が空いてて声をかけるぐらいの余裕があるときにしか話しかけることが出来なかったのも申し訳ないと思ってる。
一人でいる彼に対して後ろめたい気持ちになりながら、それでも俺はどうすれば前みたいに両親が仲良くなれるのか考えることに一生懸命で……自分のことで手いっぱいになってしまう自分に苛立ちを覚えながら、結局何もできやしない自分に半分気付きながらもそれを無視して俺は生きていた。

どうすれば前のような家族になれるかばかり考えていた俺はなにも気付かなかった。
勉強も運動もそれなりに出来ている俺のことを周りがどんな目で見ていたのか。
何もできない、出来ても自己満足程度のことしかできないそんな罪悪感を覚えていた誠一郎が俺のことをどう見ていたのか。

ようやく家族以外の他人がみる自分のことをみる目に、気が付けたのはついに母さんが弟を連れて家から出て行って父さんと2人で暮らすようになって間もなくだった。
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