2章『結局のところすべては自分次第。』


勉強会する許可を岬先生からもらう際『鐘が鳴るまでなら残っていいよ。』と言われていたのを、チャイムの音を聞いてやっと思い出した。
それまで熱中しており、時間を気にすることも忘れていた。
「ん……?チャイム鳴ったのか、随分早い気がするな……。」
「え、もうこんな時間ですと!?」
2人も俺と同じように集中していて、チャイムの音が鳴ったことによって時間の経過に気付けたようで顔をあげて時計を確認していた。
時刻は17時半。この間のときと同じように長くいてしまったらしい。時間って1人でいると長いのに誰かといると短く感じるのはなんなのだろうか……。
帰りの準備をしていると

「お、まだいたか。よかった。」

ガラッと図書室の扉を開けてひょいっと顔をのぞかせていたのは叶野たちと勉強していたはずの伊藤だった。俺がまだいたことにホッとしている様子だ。俺もすでに伊藤は帰ってしまったと思っていたから、うれしい。
胸あたりが暖かくなってふわふわとした感じになる。
伊藤、どうした?と嬉しいくせにそう聞こうとしてしまう寸前、

「あっやっほー!すずたん、ひさぶ~!」
「すずたん、どう、し……あ。」

吉田も伊藤がそこにいることを認識して勢いよく手を振りながら吉田命名のニックネームを叫ぶものだからついつられて伊藤と呼ぶつもりがすずたんと呼んでしまった。
口が滑った。なんて呼んだのか自分の口がなにを言ったのか理解した瞬間に口を抑えたが、すでに言葉は発した後で普通に伊藤に話しかけるつもりだったからそれなりの声量でのままするりと言ってしまったものだからこの場にいる全員聞こえてた。
帰りの用意をしていた鷲尾が固まって吉田はじっと俺のほうを見て、こちらに来ようとした伊藤の足が止まってしまった。
さっきも吉田の伊藤の呼び方が衝撃的過ぎてオウム返しのように呟いてしまったが、そのときは本人が目の前でもなく吉田の付けたニックネームを復唱していただけだったので特に誰も突っ込むことはなかったが、今は違う。
思いっきり伊藤のほうを見て、そう呼んでしまったのだ。

「おぉ?イッチもすずたんのニックネーム気に入った?気に入った系?ならばイッチもそう呼ぼうずっ!だれもおれのつけたニックネームで呼ばないんだもん~!」

どうしはっけーん、と目を輝かせて嬉しそうに言う吉田以外の二人は沈黙を保ったままである。
俺も無言で、伊藤の顔を見れない。
俺の発した言葉は暴言を吐いたりなにか失礼なことは言っていないし、傷付けるような言葉でもない。好意的に捉えるなら親しい友人に対して親しみを込めてあだ名で呼んだともいえる。
そう、別に何のことはない。伊藤の苗字ではない名前を少しもじって呼んだだけ。そもそも命名は吉田であり、誰も呼ばれないそのあだ名を呼ぶのも有なのかもしれない。
落ち着かそうとして宥めるような声もある。落ち着け、別に恥ではないだろう、親しい友人に親しみを込めてあだ名で呼んだだけ、そうだろう。と、自分を弁護する声が聞こえるし、その通りだと思う。

だがその通りだと言い聞かして冷静になろうとする頭とは真逆に、自身の顔が真っ赤になっているのを自覚する。
(この湧き上がる羞恥はなんなのだろうか……!)
心のなかでそう叫んだ。
ドッドっと心臓の動きが早まるのを感じる。
事実だけを言えば伊藤のことを吉田命名のあだ名を呼んだ。それだけの話で堂々としていればいい。そう落ち着こうとする理性と相反する気持ちが理性を上回るのを感じる。
すぐにそう呼んでしまったことを謝るなり堂々と振る舞うなりすればよかったのに、今自分はそのどちらもしていない。今視界には床しか見えていない。
それでも何か言わないと、とそう思って「……すまない」と乾いて張り付いてしまった喉から絞り出した。
変な空気になってしまっていることを肌でビシビシと感じている。伊藤がどんな顔をしているのか気になるが、知りたくない。恥ずかしい。
吉田がなにか言っているけれど何も聞こえない。顔を上げられずにいる俺を哀れに思ったのか鷲尾が口を開いた。

「……まだ残っていたのか、すずたん。」
と、俺が事故でそう呼んでしまったのが無かったことのように鷲尾が伊藤に向かってそう聞いた。
いつも通りを装うとしているのは分かったが、どうしても違和感があるのかその声は少し震えていた。

「……っは!?」
「おおーかっちゃんも気に入ってくれたんだね!」

少しの間があったあとに固まっていた伊藤が反応し吉田の歓声が響く。
そこまで聞いてようやく顔をあげられた。瞬間思いっきり伊藤とばっちりと視線が絡み合うことになって、不自然なまでに後ろに顔を逸らしてしまう。

「かっちゃんは辞めろ。いいじゃないか。すずたん、良い響きじゃないか。」

鷲尾はしっかり吉田の自分の呼び名を拒否しながらそう続ける。
……ちなみに、鷲尾はさっきの俺と同じように伊藤の顔を見ず下を向いている。手で自分の顔を隠すように眼鏡のフレームを抑えていてほとんど見えないけれど、隙間から見える顔が赤くなっている。
やっぱり伊藤のことをああ呼ぶのは普通恥ずかしく思うのだ、そう分かって安堵する。
決して吉田のネーミングセンスに文句を言うわけではないが『すずたん』という響きのせいなのか、恥ずかしくなるのだ。
2人ともおれのつけたニックネームを気に入ってくれた!と喜んでいる吉田には申し訳ないのだが……。
鷲尾は伊藤のほうをチラッと見た。俺も伊藤のほうを見る。うっかり呼んでしまった俺とそれを庇ってくれたのだろう鷲尾のなにかを訴えるかのような視線に伊藤は戸惑ったようにたじろいで『なにを言ってほしい』のか察してくれたようだ。

「……あ”ー!すずたんって言う呼び方は辞めろ!いくら透が気に入っても無理だ!呼ばれるこっちの身になってくれ!」

これでいいか!と言わんばかりにこちらを睨む伊藤に俺は頷いた。
俺の蒔いた種を結局伊藤によって回収してくれた、あとで伊藤に謝るとして今は感謝する。もちろん俺を庇って伊藤に突っ込みやすくさせる空気を作ってくれた鷲尾にも感謝しないといけない。

「ええーおれのことヨシヨシでもヨシリンでもさっちんでもなんでも呼んでもいいからさぁ~!すずたんで呼ばせてよ~!」
「断る!つかてめえがそう呼ばれてえだけだろっ」
「ばれちった~」

伊藤に拒否されてもなお食い下がろうとする吉田に、そして別に怒っているわけではないが凄みのある伊藤に特に恐れるでもなく自分のペースを崩さない吉田に畏怖を覚えたのであった。

「……鷲尾、ありがとう。助かった。」
「あのままだとこっちも面倒だったから構わない。」

2人から目を離さずに鷲尾に感謝を述べれば素っ気ない返事が来た。
鷲尾のほうを横目でみる。
……その表情はまた手で覆い隠されていて眼鏡ぐらいしか見えなかったが耳が赤くなっていた。嬉しくなったがあまり突くと鷲尾はきっと照れてしまうから、見られていると感づかれる前に自分の視線を伊藤たちのほうへと戻した。
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