2章『結局のところすべては自分次第。』

話し終えても何の反応がない伊藤を呼び掛ても何か言ったかと疑問に思うほどの小声だった、少し待っても何の反応のない伊藤にお茶を飲んだらもう一度呼びかけようと思ったと同時に

「殺してくる。」

物騒な言葉が聞こえて来た。
聞いたことのないほどの冷たく無感情な声に背筋が凍った。
俺へ向けた言葉なのかとギクリと腹の底から冷えてくるのを感じた。お茶なんて飲んでる場合じゃないか。何とか気管に入らず飲み干して慌てて伊藤の顔を見ると、そこには完全な『無』の表情の伊藤がいた。
いつもの楽しそうで嬉しそうな笑顔でもあの日怒って叫んでくれた表情でもなくて、ただ酷く冷めた目で無表情で明確な殺意が見て取れた。
その殺意は俺も感じたことがないものだ。それを俺に向けているのかと思ったがどうやら違って、伊藤は冷たい目で俺を見ることなく無表情ゆらりと立ち上がり玄関へと向かっていった。
そのまま玄関に行くのを目で追いかけていたが、ハッとなって慌てて伊藤を呼び止める。何か物騒なことを言っていたことを思い出して嫌な予感がした。

「伊藤っ」
(少し、怖い。)

思ってしまったが、すぐ俺も立ち上がって声を張り上げ彼の名前を呼んだ。
そこにはドアノブに手をかけて今にも外に出ようとする伊藤がいた。

「どこに、行くんだ?」
「殺しに。」
「……だれを」

物騒な言葉が耳に届いたのは空耳ではなくしっかり伊藤本人が言っていた言葉だったようだ。
伊藤は俺に背を向けたままだが、俺の声は届いていてちゃんと受け答えしてくれる。伊藤のほうへと気付かれないようにゆっくり歩み寄る。このままいかせてはいけないと、そう思った。
その殺意を誰に向けるのか、何となく察したが一応聞いてみる。

「桐渓を。」

俺の問いに伊藤はすぐに返してくれた。
『そんなことしなくていい、俺は気にしていない。』と、言ってもきっときかないだろう。
淡々としているのにどろりとした殺意に溢れている声と雰囲気にそう察する。
……言っていなかったことがもうないように、もう隠し事をしないように、伊藤を傷つけることがないように、全部を伝えた。
今まで伝えていなかったことと保健室でのことをすべてを。伊藤がどんなことをするのかあまり考えていなかった。俺のために怒ってくれるだろうなとふわっと思っていたけれど、まさか桐渓さんに殺意まで芽生えるとは思わなかったんだ。
確かに、俺は傷ついていた。けれど桐渓さんが俺のことを知ろうとしなくても、俺は知ってしまった。親友が失う理由が目の前にいたらその怒りをぶつけざる得ないことを。
そして……伊藤もまた俺を親友を傷つけた桐渓さんを許せない気持ちになったと思われる。殺意さえ覚えてしまうほど。俺も伊藤がぞんざいな扱いをしている桐渓さんに怒りをぶつけたこと伊藤を過剰に怖がる周りに苛立ちを覚えたこともある。
こういうのはあれなのかもしれない。
俺のために殺意さえ覚えてくれることを。そしてそれを俺が止めなければ本当に実行しようとする伊藤に。俺は狂っているのか、ただ性格が悪いだけなのか分からないけれど、ただ純粋に「うれしい」と思ってしまった。
あれだけ岬先生が桐渓さんに掴みかかっているのを見たときは不安になったのにそれがない。むしろ喜んでいる俺はどこかおかしくなってしまったのだろうか。
分からないけれど、ただただ本当にうれしくて胸が熱くなった。

でも、このまま伊藤を行かせることは出来ない。
「伊藤。」
呼びかけてもこちらを振り返ることはないけれど、出て行こうとしていないから俺の声は届いていて次に続く言葉を待ってくれている。
「夏、海に行こう。ああ、その前に期末テストか……勉強もしよう。で、夏休みは出かけよう。文化祭も一緒にまわりたい。学校に行こう、そして帰ろう。放課後どこか寄るのもいい。休日には遊びに行こう。冬休みには少し遠出するのもいい、で年明けたら初詣に行こう。
俺といっしょに……伊藤といっしょに。」
初めて俺から色んな事を誘う。いつも伊藤から誘ってくれていることを自発的に誘う。
いきなりいろいろなことを誘う俺に驚いたように目を見開いた伊藤が振り返る。その顔は驚きつつも嬉しそうで胸がぎゅうっと締め付けられたように苦しくなる。でもあたたかくて心地よい苦しさだった。あたたかくて、泣き出したくなるほどに。
もっと、もっと……

「伊藤と、一緒にいたい。伊藤といると嬉しい、伊藤といると楽しい。
だから……行かないでほしい。
俺のために、ここにいてほしい。俺のとなりにいてほしい。できることなら、わらってほしい。」

俺を想ってくれるのは嬉しい。
だけど、俺はなにより伊藤が隣にいてほしい。伊藤が本当にそんなことしたらもう学校にいられなくなってしまうから。
伊藤が誰かを傷つけるのも見たくないと言う気持ちや桐渓さんが本当に殺されてしまうという恐怖も無くはないけれど…俺はこんなに自分本位だっただろうか……俺のためにとなりにいてほしい。
もう遠くに行ってしまうのは嫌なんだ。伊藤と離れ離れなんて俺は本当に生きていけないんだ。伊藤の手も汚してほしくない。
ぐっと伊藤の手を握ってどうかと懇願する。
どうかその優しい手が俺のためでも汚されないように。どうかそのままの伊藤でいてくれますように。

「お願い。」
「……ああ、そうだな。
俺も、透ともう離れたくねえよ。これから、一緒に色んな事しよう。
やくそく、な。」

いつもの俺の好きな笑顔で握られていない手で俺の頬を撫でられた、くすぐったくて身動ぎながらもいっしょにいてくれることがうれしくて笑う。
さっきまでの殺意を纏っていたのが嘘のように穏やかな空気に安心した。
しばらく玄関で2人で穏やかに笑い合う。




「そういや、鷲尾どうなったんだろうなぁ。」
「……どうだろうか。」
「教室出て行った後叶野と湖越いたんだけどよ、どこかぎこちなさそうだったんだよなぁ……。」

ようやくいつも通りに戻って夕方の空をボーっと眺めているとテレビを見ていた伊藤が気になったことを口に出したので俺も反応した。
ちゃんと叶野に謝れただろうか。謝れたとしてどんな答えが返ってきたのだろうか。叶野は、ちゃんと自分の意志を言えたのだろうか。伊藤が会ったときぎこちなかったようだったから言えなかったのかもしれない。疑問は絶えない。
気になって携帯電話を開いて……すぐに思い直して閉じた。

「……俺らから言えることはない、な。」
「俺らからは聞けねえよな。……こういうのってもどかしいよなぁ…」
「そう、だな。」

心配だ。鷲尾はちゃんと謝れたのか、叶野はそれにどう答えたのか。正直すごく気になる。特に叶野は今日不安定そうだったから傷ついていなければいいのだが……俺らが口出して良いものではないのだ。
聞きたいけれど聞いてしまうのは申し訳ない。俺らにはこれ以上できることはない、それでも気になる。もどかしい。

「どんな結果になっていようが、俺らはあいつらにいつも通りにしよう。」
「ああ。」

もちろんだ。俺にとって2人とも、大事な友だちだから。

……もう皆で放課後集まって勉強会は出来ないのだろうか
もう皆で一緒に打ち上げとしてラーメンを食べることもできないんだろうか。
それは……少しだけ、さみしい。
自分で思った以上に皆で店で食べに行くのが楽しかったんだ。現に今俺はこんなにがっかりしている。
一つ溜息を吐いた。
溜息は橙色から濃紺へ染まっていく空に消えていった。


これから、どうなるんだろうか。
先の見せないこれからが不安になる、けど……。
伊藤のほうに視線だけ向けて、目が合う。
「なんだよ」荒い口調に反して優しい物言いに嬉しくて笑って「なんでもない」と答えた。

伊藤がいるのなら、なんとかなる気がする。

確証なんてないのに。
なんとなくそんな自信が芽生えた。
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