2章『結局のところすべては自分次第。』
バスを降りて、歩いて数分のところに僕の自宅はある。いつ降るかと思った雨がバスを降りるとふっていたので鞄にあった折りたたみ傘を取り出した。
いつもより早く教室を出たが、一ノ瀬と話し込んでいたから帰宅時間はいつも通りだった。
「和季さんおかえりなさい。」
「…ただいま。」
「あら……顔色悪いですね?」
出迎えてくれた母は僕のことを見て熱でもあるのかしら、と額に手をやって自分の体温と比べていた。
普段のときにそれをされると鬱陶しくその手を振り払って塾に向かうべく着替えるために急いで部屋に駆け込んでいたのだが。
「……熱はない。
けれど……今日は塾、休んでもいいか。」
今日は……加害者である僕が言えることではないのだろうけれど……疲れてしまった。
いつもは煩わしいとしか思わない母の手を優しさと感じて振り払うことを躊躇するほどに、いつもではないことばかりの連続に、今日一日だけは休みたかった。
今のこの状態では勉強に身に入ることは出来ないと判断した。今日だけ。今日だけは……勉強のことを考えたくなかった。
常とは違う僕の様子に、母は驚きに目を見開いて僕をまじまじと見つめた後。
「……わかりました。私から連絡しておきましょう。」
そう言って、僕に微笑んだ。
普段ならば母が休むかと聞いても、実際体調が悪かろうと正直熱があるかもしれないと思っていても、それでも塾に行っていたし家庭教師を辞めにすることもしたことなんてなかった。
勉強しか、なかったからそれで平気だった。嫌なことがあっても、勉強に逃げていたから。
でも、今日は違う。勉強は一番大事だと長年思っていたから、今もそれは抜けないけれど……勉強を第一に思っている僕のなかに、一ノ瀬たちが入ってきたのが奇跡とも言えるのかもしれない。
今日は記憶を少しでも整理して……明日、叶野たちにどう謝るべきなのか考えたい。1人で。僕自身がしでかしたことの責任をとるのは当たり前のことで……1人が怖いからって一ノ瀬に着いて来てもらうなんてこと、出来ないししたくない。
傷つけられた方はもっと苦しんだ。それなら僕もっと苦しみながら謝るべきだ。罰ではなくて……せめてもの罪滅ぼしとして。
僕の異変に気付きながらも母は何も言わず、微笑んでいる。
いつか……僕のことをいつも案じてくれる母に僕はなにか出来るのだろうか。昨日まで母のことを頭の悪い煩わしい存在としか思っていなかった。けれど、本当に僕のことを受け入れて僕の味方でいてくれたのは母なのだと、今実感したのだ。
気遣っている人を僕は知らずに昨日まで……いや、今日まで生きてきた。鈍感で空気の読めない、そのうえ恥知らずなんて僕は今まで見下していた馬鹿以上の大馬鹿者だった。
「……頼む。」
こんなとき、僕はなんていいのかまた分からない。母でさえ僕はコミュニケーションを取ろうとしてこなかった。
不愛想に簡潔にそんなことしか言えない僕に母……母さん、は、気にした様子を見せず笑って頷いて「ゆっくりおやすみなさい」とだけ言って二階に向かう僕を見送ってくれた。……むずがゆく思った。
自室の扉を後ろ手で閉めて、個室僕一人だけの空間になる。
薄暗い部屋の中、電気も付けず鞄も適当にその辺に置いて制服も脱がずにベッドに横たわる。
目を閉じて今日のことを思いだす。
一ノ瀬に嫉妬していたこと、梶井に醜い感情を持ってその感情のままに行動するのも有だと言われて、その感情のままに行動して、一ノ瀬と叶野に伊藤そして湖越さえも傷つけて。
傷つけたのは僕なのにその場から逃げ出して、一ノ瀬が僕を追いかけてくれて、自ら望む罰はただの自己満足と切られて……醜い僕を『友だち』と言ってくれた。
誰かを傷付けたときは謝るのだと教えてくれた。
今日は色んなことが起こりすぎた。
頭痛がしそうなほどの目まぐるしさに無意識に額に掌を押し付けていた。
僕の頭のなかでは色んな顔がぐるぐる回る。テストが終わって打ち上げとして行ったラーメン屋での皆の空気感と会話を思い出して……すぐに一ノ瀬の悲し気な顔、伊藤の驚愕に満ちた顔、傷ついた叶野の顔、冷たく僕を見つめる湖越の顔が出てきた。
すべて。僕が行動した結果だ。
僕が、醜い感情のままに行動してしまった結果。
梶井に唆された結果。でも、唆されたのが事実であっても実際行動に移したのは僕だ。僕の行動の結果は梶井が一つの理由ではあるが、それを辞めようとしなかった僕の弱さのせいだ。
梶井だけのせいにするのは僕が楽になるのだろう。
僕が原因じゃないと逃げにすればいいのだ。けれど、これ以上僕はもう逃げたくない。絶対に、これ以上僕のせいで誰かを傷つけないように。きっと梶井に言われなかったとしてもいつか違う方向で一ノ瀬たちを傷つけていたのだと思う。理由が分からぬままに、醜い感情のままに。
明日。僕は、謝る。
だれのことを言い訳になんてしない。
僕のせいで傷つけてしまったのなら無駄な言い訳なんていらない。
情けなく手が震えるほど怖いと思う。許してもらえなかったらどうしようと言う、どうしようもない私利私欲。
それでも、僕はこういうときどうするべきなのか、答えの分からない奴ではなくなった。それなら、もう何も逃げる要素はない。
どう謝るべきか、呼び出して二人になった方がいいのか、それとも皆の前で言ってもいいことなのかも僕には分からない。それでも僕なりに誠意を尽くして、謝りたい。
雨音しかしない静かな部屋の中、考えこむ僕の呻く声が響いていたことに気が付かないほどに集中していた。
一通り考えつくして、漸く自分なりにどう謝るべきなのかの答えにこうしようと決まったころ、僕は一ノ瀬が言った言葉をふと思い出した。一ノ瀬に僕の本音を指摘されて、憤りのままに一ノ瀬に掴みかかったときに言われた、あの言葉。
「俺がそうだったから。」
そう言えば結局、その言葉の真意を聞く前に一ノ瀬は話し出してしまって聞きそびれてしまったが……、後悔しているような雰囲気なのに嬉しそうにも見えたのはなぜなのだろうか。いつか、聞けるだろうか。
傷付けずに、ただの一ノ瀬の身を案じる……『友だち』として。
一ノ瀬の微笑んだ顔を思い出してまた胸が締め付けられるような感覚。もしかしたらこれを『友情』と呼ぶのだろうか。
いつか、答えのない『友情』を僕にも定理出来る日が来るかもしれないことを……僕は、少しうれしいと思う。
ああ、そうだ。一ノ瀬と別れる際、僕の傘を貸してやればよかったな。
いつ降るか分からない天候だったのに僕のことを気にかけ身一つで追いかけてくれたのにそこまで気が回らなかった。何たる失態。もし、今度の機会があったら絶対に貸してあげよう。そう決めた。
一ノ瀬はあの後濡れずに無事に学校に戻れたのだろうか。