このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

2章『結局のところすべては自分次第。』


そのあと一ノ瀬は、僕には到底結論付けれないことばかり言った。
心配されるような関係でもないと言う僕のことを『友だち』と言ったり、丁寧に勉強を教える一ノ瀬だったのが嘘のように唐突に前に僕に言った『良い関係』を『友だち』と定理すると言われたときは本格的に脳が混乱した。
自分は良くても相手はどう思っているかわからないじゃないかとぐだぐだとぬかす僕に一瞬考える素振りを見せたものの、すぐに「それは、そのときになってから考える。」と真っ直ぐ僕の目を見て言った。

悪天候、いつ雨が降ってもおかしくないほどの曇天で夕方と呼ぶにもまだ早い時間でもすでに外は薄暗いのに、僕の眼にはそう言い切った一ノ瀬はどうしてか眩しく感じた。

僕からすると無茶苦茶としか言えない、理性も欠片もない理論を一ノ瀬は告げる。人間の特権である考えると言うことを放棄したものを一ノ瀬はあえて僕に言うのだ。たまには何も考えずに決めつけるのも有だと、そう笑った。
ぐっと一ノ瀬の笑みに胸が締め付けられながらも到底僕だけでは考えもしない理論に苦言を呈すると、一ノ瀬は叶野に教えてもらったのだ、そう言った。

叶野の名前を聞いて……さっきのことを思い起こした。無意識に叶野の名前を呟いて俯いてしまうことにも気が付かなかった。
僕は、僕の汚い感情のままに叶野を傷つけた。いや、叶野だけではなく……湖越も伊藤も、目の前の一ノ瀬だって。
僕は湖越に矛盾を突かれて、責められて、逃げ出した。あのとき、僕はなにをすればよかったのだろうか。そして、これからも僕はどうすればいいのだろうか。
自ら望み、罰されるのを待つのは自己満足だと一ノ瀬に言われた。相手の意志なんて何の関係のない、ただ自分が楽になりたいだけの……逃げなのだと。
もう、逃げるのはやめにしたい。けれど、それなら僕は何をすればいいのか分からない。喧嘩をするような相手も今まで僕にはいなかった。
喧嘩……と呼ぶにはもっと重たいことをしてしまった自覚はある。けれど、少しでも勉強だけじゃなくて他人に目を向けられていたら、こんなもどかしく思うこともなかったのだろうか。
情けないと思いつつも、すでに幾度となく情けない醜態を晒してきたのだから、今更だ。感じる恥もすでに僕にはないのだから、一ノ瀬に聞くことにした。
これ以上、僕は僕を見放したくない。
そう思って、聞いた。
罰される以上の苦しい思いをしてしまってもいいから、それでもいいから、こういうとき何をすればいいのか何を言っていいのか、教えてほしい。その一心だった。

そんな僕の覚悟とは裏腹に一ノ瀬は

「謝ろう。」

シンプルな答えを一瞬脳が理解できず、

「あやまる……?そんなことで許されるのか?」

そう聞いてしまった。
謝罪。父にしようとして無意味なものだと切り捨てられて、僕も切り捨ててきたものが、一ノ瀬の答えだった。確かに、一ノ瀬の口から発された言葉だった。もっと、合理的なものを求められると思ったら、あやふやな答えだった。
そんなことでいいのか、それだけで許されるのか、そう聞く僕に少しだけ一ノ瀬は首を振る。
「……謝って許されるのかどうかわからない。」
謝罪するべきだと言う口で、また少し矛盾したようなことを言う。どうして。
「それなら、そんなことしなくてもいいじゃないか」
許されるべき行動を示さなければ無意味なものじゃないか。そんなもの。何故、わざわざそんな無意味なことに時間を費やさなければならないのか。それなら、罰を受けて結果を出していたほうが合理的じゃないか。
そんなことを考える僕に、一ノ瀬は少しだけ困ったような、怒っているようにも見えるが、どちらかは分からないが眉を少し上げて、つづける。

「……人を傷つけたらまずは謝る。許すか許さないかは謝られた方がが決める。謝る側が求めるものじゃない。
とりあえず、誠意をもって謝れ。本当に悪いことをしたと思っているのなら……まずは謝れ。」

一ノ瀬の理由を聞いて、少しだけ分かった気がする。そもそもの僕の前提は間違っているのだと。
許されたいから謝るのではなく、自分が救われたいから謝るのではなく、傷付けてしまったことをとにかく謝るべきなのだと。
そして謝ったからって許される訳ではないのだと。許すも許さないも叶野……被害者側が決めることであり、加害者側がそれを求めるのは可笑しなことなのだと。
一ノ瀬は僕にそう話ながら、どこか遠くを見ているような眼をしていた。いや、僕のことを見てはいるのだが。僕を通して違う誰かを見ているかのような、そんな瞳だった。
その瞳は苦し気な陰りが見えた。責めているような瞳。でもそれは僕のことだけなのかは分からなかった。
もし、こんな目をさせたのが僕があんなことを言ってしまったのが原因だとしたら。

自分は、どれほど馬鹿なことをしてしまったのだろうか。

「……一ノ瀬」
「ん?」

そんな可能性に至ってどうしようもない気持ちになってつい、何も考えず衝動的に一ノ瀬を呼ぶ。
静かな広場では僕の今までにないほどの小さな声さえも一ノ瀬の耳は拾い、首を傾げて聞き返される。
謝らなくては、と思ったもののなかなか謝罪の言葉が僕の口から出せなかった。
今まで無意味だと切り捨ててきたものを、言おうとして切り捨てられてきたものを僕はなかなか口に出せなかった。
怖かった。
謝罪の言葉なんていらないと言われた、あのときを思い出す。
結果を出さなければ意味がないと。そんなものは、価値のないものだとそう教え込まれてきた。また、謝罪しようとしたら否定されてしまうのではないかと。
そんなことをぐるぐると頭のなかで考え、あのときの父の眼を思い出して苦しくなる。数回、謝罪を口に出そうとしてはあのときの光景を思い出しての繰り返しをした。
何度も今も逃げ出したくなる、どうしようも、なく……怖い。

……そうだ。僕は、怖かったんだ。

父が、怖かった。
好きだとか尊敬しているだとかそんなものは、すでに僕の中では過去のもの。いつの間にか父が恐怖でしかなかったのだと、今気づく。
謝ることを拒否されて、僕のことも拒否されたあのときからきっと。今度こそ、父の信頼をと足掻いてきた。僕のことを、また好きになってもらいたかった。
好きになってもらいたかったから謝った。だけど否定された。謝れば、否定される。そんなことを植え付けられてきた、そんなことをされたくないか謝罪は無意味なものと断定した。
好かれたかった、許してもらいたかった、勉強が出来なくても愛していると言ってほしかった。すべては、自分のためだけだった。自分のためだけの、謝罪だった。僕の自己満足のための、謝罪。
でも、でも……今は、ちがう。


「………………悪かった。お前を……伊藤をも蔑むようなことを言った。すまなかった。」


僕は、本当にさっきのことを謝りたい。謝罪したかった。
心から……一ノ瀬の努力を否定するようなことを、嫌味を言ってしまったことを、傷つけようとして吐いた言葉をぶつけてしまったことを……傷つけてしまったことを。
許してほしい、なんて言えない。そんなことを思いも出来ないほどの後悔に今更苛まれている。
楽になりたい訳でもない。傷つけたのだから傷付け返されたって良い。ただ……今になって後悔して傷つけてしまったことを、謝ることを許してほしい。

父の冷たい目が脳内に流れながら、一ノ瀬の瞳を見た。
一ノ瀬は驚いたように目を見開いていて僕のことを見返していた。
けれど少しずつ緩やかに瞳は優しい色を帯びて、その優しい瞳と同じように穏やかに口角をあげて

「いいよ。」

そう、短くでも優しい声で僕の謝罪を受け入れてくれた。
梶井のようなただ口角をあげているだけの冷たい表情とは全く違う、雲一つない青空の下にいるかのような気持ちになるほどの穏やかな表情を僕は間近に見た。
申し訳ない気持ちは一瞬どっかに行くほどの衝撃を僕の中に感じた。今までにない……でも、きっと『綺麗』な部類に入る感情が僕の中に芽生えた。その感情の名前を僕は未だ知らない。
僕の謝罪を受け入れて、こんな僕のことを『友だち』とまで言ってくれる一ノ瀬に、僕は梶井に感じたのとは全く違う……本当の意味で、救われたように感じたのだ。
54/100ページ
スキ