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2章『結局のところすべては自分次第。』


「……でも俺だけじゃなく叶野には言わずもがな、伊藤にもちゃんと謝ってくれ。」
「あ、ああ。」

一ノ瀬は無表情に戻る。
さっきまでの表情が嘘のようにいつも通り静かで穏やかな海のような表情だ。
嘘のよう、と一瞬思ったが確かに一ノ瀬は僕の目の前で笑みを浮かべていた、いつもの表情と同じように静かに微笑んでいた。
伊藤と話している際に笑みを浮かべているところを遠目から見てはいたが、目の前となると違う。
鈍感だとか空気が読めないやら、人に興味ないなど良く言われるが、いくら僕でも美しいと思うこともある。
……一ノ瀬の顔に感想を抱いたのは転校してきて2週間ぐらいだったが。
空気が読めないと言うのは…………別に自分に害が無ければ別に他人のどう思われるのかどうでもいいとそう考えていたけれど。
今はそう思えない。
自分に害は無くとも……だからと言って他者を傷つけていい道理はない。空気が読めないと言うのはこういうふうに他者を不快にさせ、傷付ける行為なのだと思い知った。

「……」
「……伊藤は、そんなに怒ってないと思うぞ。」

黙り込んだ僕に一ノ瀬は筋違いなことを言ってくる。
タイミングとしては確かに伊藤を怖がってつい黙りこくってしまったと思われてもおかしくはない。おかしくはないが。少し癪だ。

「別に、伊藤を怖がっている訳じゃない。」
「……それなら、叶野に謝ることが怖い、か?」
「……。」

一ノ瀬の鋭い質問に今度こそなにも言えなくなった。
なんて答えていいのかわからなかった、言葉が出て来なかった。否定したいのか肯定したいのかさえも分からない。
怖い、なんて。今まで思ったことがあっただろうか。今、叶野と対峙してもいないのに名前を聞いただけで説明のつかない感情に襲われる。
いつも僕に話しかけてくる笑顔を思い出すと、少しだけ落ち着く。
さっきの泣き出しそうな顔を思い出すと、落ち着いた心がかき乱される。ぐちゃぐちゃで今まで勉強をしてきたのに、答えは見つからない。
逃げ出したい。でも、あんな顔をさせてしまったことに謝りたい。なんて思われてしまっただろうか。ただ、疑問に思っていただけだったんだ。

実力があるのに、何故発揮しないのか。

「……。」
「……一緒に謝るか?」

いつまでも口を閉ざす僕に、そう問うてくる一ノ瀬。
一ノ瀬はいつも通りの無表情なのに、僕の目の錯覚か心配そうにも見えた。僕の願望なのかもしれない。
よくわからない感情は、きっと恐怖なんだろう。勉強しかしてこなかった僕には知らずにいた感情だった、本音を言うと父に……抱いたものと似ている気もするけれど。
あれも僕のせいだと思っている。大事な日に限って実力を示すことのできなかった自分が悪い。自己管理がなっていないせいなのだから。
父は謝罪を求めたことはない、起こってしまったことに謝る暇があれば挽回するために努力しろとそう言われ続けてきた。
幼いころから、ずっと。
父の望む結果を得られなくて、望む結果を取ることが出来なくて悲しんでいたとき、何度も言われた。

『謝罪なんて、何の意味もないものだ。結果さえ出せばそれでいい。結果を出せなければそれまでだ。』

そう教えられてきた。そう、冷たい目で命令されてきた。
謝ること…それは自分が満足したいためだけの無意味なものなんだとそう思っていた。

「……これは僕のけじめだ。」

父と違う意味で、逃げ出したくなる。
でも一ノ瀬は罰されることを待つことこそが自己満足だと言う。
父と真逆のことを教えてきた。正直混乱していないと言えば嘘になる。
だから、謝ってみた。
一ノ瀬に、僕が言った酷いことを謝罪した。醜く汚い感情のまました自分の発言に。

侮辱することを言ってしまったことを。心の込め方を僕は知らない。謝り方も今までしたことがないからこれが正解なのかもわからない。
それでも自分が悪かった。と言う気持ちだけは込めて、一ノ瀬に謝った。
するとどうだろうか。
一ノ瀬は『いいよ』と言った。そう、言ってくれた。
僕の見たことのない、僕に向けられてきたの事のない笑顔で、許してくれた。もう無様なところを一ノ瀬に見せたくない。そう思った。
それに、叶野に謝るのは僕自身がしなくてはいけないことだ。一ノ瀬が一緒に、なんて。叶野に対しても失礼だろう。

「そうか。」

一ノ瀬は僕の返答が分かっていたようだった。

「それより。お前は僕が伊藤に言ったことは怒らないのか。」
「……怒ってほしいのか?」
「いや、そういうわけじゃなくてだな……。」

どこかずれた回答が返ってきたことに僕が言い淀んでしまう。一ノ瀬は僕の反応がおかしかったようで、おもしろそうに笑う。
……どうしてか、さっきから一ノ瀬が笑うたびに胸あたりが落ち着かない気持ちになるのはなんなのだろうか。一ノ瀬になにか思うところが僕にあるのだろうか。

「……鷲尾が言ったことが事実なら、俺は責める理由はない。むしろ、俺が本当はずっと聞きたかったことを鷲尾が答えたことになるから。伊藤がどうしてあんなに怯えられていたのか。
ずっと、気になっていたことだからな。」

事実を僕は確かに言った。でも、それは決して一ノ瀬が知りたかったから親切心で教えていたわけではない。

「それでも、僕が」
「……確かに。伊藤が俺に言いたくないことを他者である鷲尾が言ったことになる。クラスメイトが気を遣って言わなかったことを、な。」

ほんの少しだけ僕を見る一ノ瀬の目が、鋭いものになる。
冷静に客観的に、責められるであろう理由を一ノ瀬は淡々と告げる。まるで、いけないことをしたことを怒る大人のような顔をしている、その表情が父を思い浮かんでしまって自然と視線が足元の方へと向かう。

「……でも。鷲尾はなにが悪かったのか分かってるし、次どうするのかもきっとわかっているだろう。鷲尾の発言で伊藤と俺の仲が悪くなった訳でもない。
俺から望むのは叶野だけじゃなく伊藤にも謝罪してほしい。それだけ。」

そう言う一ノ瀬の口調は穏やかだ。表情も静かながらに優しい顔をしている。
その顔は、どこかで見た気がしたけれど。思い出せなかった。

「……わかった。」

僕が言えるのはそれだけだった。
一ノ瀬は、僕の返答に頷いただけ。素っ気なくも聞こえる抑揚のない声で無表情。僕の知るいつもの一ノ瀬透だ。
でも、それが何故か何よりも心強い、声にも表情にも出ない一ノ瀬の優しさを、確かに感じた気がする。



一ノ瀬とその場で別れた。
身一つで僕を追いかけてきたから今何の荷物もないから1回学校に戻るのだとか。……胸あたりがどういうわけかかゆくなった気がした。

「鷲尾、また明日。」
「……また、明日。」

別れる前に一ノ瀬は僕を真っ直ぐ見て言う。初めて、明日会う約束をする。まるで『友だち』みたいだ。他人事のようにそう思う。
バスに乗り込んだ、少しだけ帰宅時間とずれているおかげか人はまばらにしかおらず、適当なところで座ると同時にバスは発車する。
いつも通りの窓の風景を見ながら、いつも通りじゃない今日のことを脳内で再生する。

……決して、傷付けたいわけではなかった。一ノ瀬も、叶野も。

僕には、一ノ瀬のような脳を持っていない。まるでスポンジのように教えられたことを吸い込みすべてを理解できてしまうような、そんな脳を。
むしろ良くないのかもしれない。努力でカバーしているだけで、僕は天才ではないただの凡人なんだと思う。
しかも、空気も読めず鈍感の……なにかとつけてタイミングも運も悪い人間だ。
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