2章『結局のところすべては自分次第。』
だけど、伊藤はそれをしない。
俺がこの手を開けるのを待っているようなぐらいじっくりとゆっくりとじわじわと指先が入ってくる。
どうしよう。
開けてしまってもいい。別に、いやではないのだから。嫌なら、また握りしめればいいのだ。俺の意思次第なのだ。
俺の意志を伊藤は待っている。
すでに伊藤の第一関節まで入り込んでしまっている。ずっと密着していた指と掌の間に差し込んでいるのだから、手汗が滲んで湿っているだろうから、きっと不快だろうし、伊藤にそれに触れられているのがかなりの羞恥を煽っている。
いっそ、強引に伊藤が開いてしまってほしい。進むことも戻ることも出来ないこの状況をどうするべきなのかどう反応するべきなのか分からなくなってしまった。
開けてしまえば、いいんだろうか。でも、どうしてか……ひどく恥ずかしい。
どうして恥ずかしく思っているのか俺にもわからない。誰に言われたでもなく自分自身の意志で開けてしまえば、後戻りできない気持ちになっているせいだろうか。
伊藤にされることで嫌なことはない。俺も開けるのも嫌な訳でもない、そもそも伊藤はきっと俺の異変に気が付いて俺の手を開けようとしているのだから、今自分の意志で開けられそうなのだから抗うことなく開ければいいのに。
頭の中ではそう分かっている。
そもそも何に恥だと思っているのかもわからない。どこに恥ずかしく思うことがあるのだ。伊藤が俺の異常に気付いてそれをなんとかしようとした。その異常は俺の意志で何とかできる。
何も、迷うことはない。
自分に言い聞かせながら、何も恥ずかしくないと呪文のように脳内で唱えながら周りに気が付かれないよう深呼吸をする。
意を決して、指の力を抜いて握りしめていた手を解いた。
解いたと同時に伊藤の手が俺の手をしっかり握った。マッサージをするように俺の手をぎゅっぎゅっともまれる。きっと、あまりに力を入れていたから痛くなっていないかを案じているだけだと思う。
俺のことを、労わってくれているんだと思う。
頭では分かっている。そう分かっているんだ、何も恥ずかしくないとあんなに脳内で唱えていたのだ。これは、恥ずかしい行為ではない。
呪文は唱えたけれど効果はなかったようで俺の顔はやっぱり熱い。見なくてもわかる、俺の顔は今真っ赤なのだと。
恥ずかしくて逃げ出したい、今なら奇声を発しながら逃げられると思う。
だけど、そのぐらい同じように。
このまま握られていたい、暖かい気持ちいい、離れたくない、とそう思ってしまうのが尚更質が悪い、と思う。
ドクドクと自分の心臓の動きが早くなっているのが聞こえた。握られている手から、俺の心臓の音が伊藤に聞こえてしまったらどうしようと馬鹿みたいなことを思った。
あんなに冷えていた手が、今では熱いとも感じるほど温まった。
もう大丈夫そうだな、と言わんばかりにポンポンと叩かれて伊藤の手が離れていった。
漸く離れたことに安堵したような、少し残念な気持ちになった。浅く深呼吸をしてやっと黒板のほうを見た。すでに先生は解説していた、俺らのことには気が付いていないようだった。
すっかり温まった左手をそっと右手で添えてみる。温まれた左手のほうが熱いと感じた。ジンジンと熱を持っている、自分の右手が冷たくも感じるほど。
……。恥ずかしくて、でも嬉しいと思うこの感情は友情なのだろうか。よく分からない。けれど悪いものではないとは分かった。
自分のなかに溜まった熱を吐き出すように息を吐く。
とにかく今は先生に指摘されないうちに思考を授業に切り替えなくては。たまたま先生に気が付かれなかったようで指摘されなかったけれど、あまりにぼんやりしていたらさすがに気付かれると思われる。半ば無理矢理黒板の問題に集中する。
あとで叶野に見ていなかったところのノートを見せてもらおうと算段する。
さっき俺のことを話していた話したこともないクラスメイトに視線を向けてみたけれど、もう話していないしこちらをチラチラ見ていなかった。かと言って授業に集中しているわけじゃなくてノートをとっている様子もなくなにか落ち込んだように下を向いていた。
どうしたのか、とも思ったけれど一番最後の授業だから眠くなったのかも、と思い直して黒板を見た。
正直言うと神丘学園ではもうやっていた内容ではある。
鷲尾が俺に発した言葉が脳内で木霊する。神丘学園にいただけ普通とは違う、とそう言われた。……俺は、俺自身を特別なんて思わない。
記憶喪失のくせして、俺の脳は勉強が出来るようで。
なんて皮肉なのだろうと何度思ったか分からない。
桐渓さんにも、祖父にもそこを突っ込まれたことがある。あのときの俺も、きっと本当はさっきみたいに感じていたはずだ。
感情に蓋をしていたから、自分が傷ついていることにも気が付かないでいたけれど。
俺は客観的に見たら、満たされているように見られるのだろうか。
俺の中身なんて、空虚なもののほうが多くて、欠点ばかりで。伊藤が俺を受け入れてくれなければ到底俺として生きていこうとも思えなかった臆病者なのに。
……でも、これを訴えるのもおかしな気もする。人が人を完全に理解なんてできないと思うし、話したこともないクラスメイトに自分を決めつけられたところでなにも傷つくことなんてないだろう。
俺も、彼らを理解出来ていないのだから。それだけ、だ。冷静に考えればどうってことはない。
鷲尾の後姿を盗み見る。猫背気味の背中ばかりのなか一人ピンっと姿勢よく堂々と座っている。
今、鷲尾はどんなことを考えているんだろうか。
普段通りのしかめっ面なのだろうか。それとも、叶野を見ていたのと同じように傷ついているような表情を浮かべているのだろうか。どう足掻いても鷲尾の顔を見ることは出来ないので予想しかできないけれど。
ほんの少しでも鷲尾の世界には俺がいるのだろうか。もし、いるとして俺は鷲尾のなかでどこにいるのだろうか、さっき言っていた通り他と違う人間とでも思われているんだろうか。
それは、いやだな。否定し尽くしたい。話したこともないクラスメイトみたいに理解が出来ないのはお互い様なんて言葉だけでどうしてか済ませられなかった。
俺もまだ鷲尾のことを理解できていないのに。それでも、否定したい。
俺は、ほかのみんなと何も変わらない、ただの『人』なのだと。
そんなに言われるほど、特別なんかじゃないんだって。そう言いたい。
どうしてそんな意固地になっているのか、そんなの俺にもわからない、ただ俺がそうしたい。それだけだった。
でも、それをいつ告げるとまでは決められなかった。
また桐渓さんと同じような目で鷲尾に見られたら……と思うとそうしようと思っても行動には当分移せそうにない。
やっぱり俺は弱いままだ。自分が自分で嫌になる。
弱い自分に溜息を内心吐く。いつまで俺は捕らわれたままなのだろうと悔しくも感じる。
情けなくて仕方がない自分に嫌になっていた俺は、案外すぐに鷲尾に自分の気持ちを告げることになるとは露ほども思わなかった。
「はい、今日はここまで。」
最後の授業の終わりを告げる鐘が教室のスピーカーから流れてくる。それと同時に先生は授業を切り上げ、起立礼をしたあとすぐ教室を出ていった。
先生がいなくなったことで緊張が抜けたようで、終わったーとホッと安堵の声を上げたりテストどうだった、と焦ったように他の奴に聞いている声も聞こえてくる。
俺の方を見ながらも誰もテストの点数のことを聞こうとしないクラスメイトの気遣いに感謝しつつも、視線が苦手でそれに逃れるようにしているとまた俯いてしまう。
「……伊藤」
「ん?」
「……突くの、やめろ。」
そんな空気を読んでいないのかあえて読んでいないのか俯く俺の頬を伊藤は何故か突いてくる。さっきの優しい手が嘘のように痕になりそうなぐらいの結構な力で。割と痛い。
「いや、透の肌白いなーと思ったらつい。」
理由がよく分からない。
とりあえず頬を突かれるのは良い気がしないので、伊藤の手を掴んでこれ以上突かせないようにした。
がしっと握手するよう伊藤の手を掴んで、自分の親指で伊藤の親指を制した。
「12345……はい、俺の勝ち。」
「いや、これはフェアじゃねえ。無効だ、無効!」
勝ちを宣言してみたけれど、伊藤から苦情が入る。なら、正々堂々と勝負しようと目で訴えれば伊藤はそれに乗って、合図すると同時に俺の親指を追いかけてくるのでそれから俺は逃げる。
一回伊藤に制されれば俺の負けは確定するので、なんとか一瞬隙を見つけるため避け続ける。
「……なんか、伊藤といる一ノ瀬って面白いよな。」
「それなー。ああいうの見てると美形も人間なんだなって安心するわ。」
「つか鷲尾の言ったこと二人とも気にしてないんかね?」
「あー…気にしないことにしたんじゃね?まぁ本人たちがそれでいいなら良いだろ」
「まぁ、な。仲が悪くなるよかいいけどな。なんとなく、あいつらって良い関係だよな。」
「見た目は正反対だけどな。」
沢木と沼倉が俺らを見てそう話して笑っていたのは、伊藤と指相撲に集中していたから気が付かなかった。
あと、沢木たちだけじゃなく、ほとんどのクラスメイトは俺らのほうを見ていて、鷲尾にああいわれてどうなるのかっていう好奇心と、あいつら仲悪くなっていないよなと言う心配の目で見られていたことには気が付くことはなかった。
いやそのことを気が付こうとする前に、気付くことの出来ない状態になってしまったのだ。
「どういうことだ、叶野!!」
突然、俺らとは関係のないところ……前の席でそう叫ぶように問い詰める声が聞こえてきて、指相撲に熱中していた伊藤と俺も、俺らを見ていたクラスメイトも声の聞こえたほうを見る。
呼ばれた名前も叫ぶ声にも聞き馴染みあったから、なおさら。何があったのか、と注目してしまう。
叫ぶ声は予想通りやっぱり鷲尾で、呼ばれていた叶野も想像していた通りの叶野だった。今日鷲尾の様子がおかしかった。だけど、叶野はいつも通りだったはずだった。
珍しく鷲尾は叶野の両肩を掴んで責めるような困惑しているかのようなそんな声で叶野を問い質している。
また珍しくいつも鷲尾に対し飄々としていていじるぐらい肝の据わっていたはずの叶野は、鷲尾の目を合わせようとせず顔を真っ青にしていた。
「お前が、そんな点数な訳ないだろう!」
「……鷲尾くんは、俺を期待して評価しすぎだよ。俺はこんなものだよ。」
真剣に真っ直ぐ叶野を見てそう問い質している鷲尾とは裏腹に叶野は視線を合わせずへらりと笑いながらそう言う。鷲尾は怒りのせいか興奮しているようで頬が赤い、叶野は緊張しているのか怯えているのか、顔が真っ青だ。
対照的なふたりだ。そんな感想がすぐに浮かんだ。
普段から対照的だと思っていたけれど、いつも思うそれとは違う。
ふたりの間にはあきらかな『壁』が見えた、目には見えないだけど確かな鷲尾と叶野の間にある『壁』が、存在していた。今、俺は初めて知った。
もしかしたら、叶野が見せようとしなかったものだったのかもしれない。