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2章『結局のところすべては自分次第。』


「一ノ瀬くん、はいどうぞ。」
「……どうも」

いつも通りにしようとしたけれど、どうしても視線が俺に向かってきているのを感じてしまって肩に力が入る。
50音順で言えば俺の苗字は前のほうですぐ配られるのだが、転校生だから一番最後に俺が来るのもあって目立つ。特にさっきの岬先生の授業とは違って英語の先生は『自分が配り終えても席を立っているのは駄目です、静かに待っていなさい』と言うのと……あまり言いたくないけれど、鷲尾がさっきのテストを堂々とクラスで口外したのもあると思われる…。
「一ノ瀬の点数、やっぱさっきみたいに良いんだろうな。」
「まあ名門入ってるって言ってたし、こんぐらい普通に出来ちまうんだろうな」
「いいよな、頭の良い奴って。人生楽じゃん?俺も楽してーなー。」
……小声だけれど、そんな話をしているのが耳に確かに入る。

どんな目で俺は今見られているのだろうか。また、桐渓さんのような目なのかもしれない。また……物珍しい動物を見るような目、なのだろうか。
軽く俯いて、だれとも目を合わせないようにしながら早足で自分の席に戻る。こういうとき、一番後ろで良かったと思うべきなのか、前の方が良かったのか……いいや、どこでも、きっと視線はついて回るんだ。
さっきテストを帰してもらうために教卓の前にいたときと同じよう一番前でも後ろからの視線は感じるし、中間でも前からも後ろからも見られて挟み撃ちで、今一番後ろでもこうして俺の様子をチラッと見るクラスメイトが良く見えて、居心地は良くない。でも、前者二つよりはまし、かな。
最近になってようやく俺のことを物珍しさとかそう言ったのと無縁の普通に男子高校生として接してくれたクラスメイトも、今はまた転校してきたのと同じぐらいのときと同じ感じになってしまったことを察してしまう。
不幸中の幸いと言うべきか、英語の先生は誰が上位とか最高得点どうでだれが取ったとかは言わずに、優しい物言いだけど淡々と引っかかりやすいところを黒板に書いている。

……まぁ、あまり先生の話は聞いていないみたいだけれど。
グッと拳を握りしめる。痛みがあるぐらい、手が白くなるぐらいに。そうでもしないとこの視線に耐えられそうにない。
テストはすぐ机の中にしまってしまった。テストの点数を誰にも見られたくなかった。また変に視線を集めたくなかった。万が一にも見られたくなかった。いっそ破って捨てても良いとも。
見られて恥ずかしいものではないと思っているのは本当のこと。だって、英語は間違っているところはない。三桁の点数だ。
確かに、俺は鷲尾の言う通りここの高校の人たちと少し違うのかもしれない。前の神丘学園が俺にぴったりだった、なんて思いもしないけれど。
普通よりは勉強が覚えやすい頭をしている、かもしれない。伊藤たちに教えていたとき、薄々気が付いていたけれどこうしてあからさまに他人に言われるのは違う。
でも、決して勉強をしていない訳じゃない。楽している訳ではない。ひそひそ、先生に聞こえないぐらいの音量だけど、俺からは聞こえてくる声。

「いつも余裕そうな顔で問題解けてるし。」
「一ノ瀬が焦っているとこ見たことねえよな、それに愛想も悪いし。あれか?一般市民が通うとこなんて余裕で俺らみたいなのとかかわりたくないってかんじか?」
「それちょう嫌味だなー」

クスクスと俺をチラチラ見ながらそう言うクラスメイトは話したこともない。
……俺のことを勝手に予想しているようだ。

きもちがわるい。

彼らたちが、とかではない。自分のなかが、気持ち悪い。
俺のなかに無理矢理異物をいれられた感覚がする、胃のなかに流し込まれているようだ。
余裕なんてそんなものいつもないし、愛想が悪いのは表情筋がうまく機能していないだけだ。一般市民、なんて。そんな思いもしなかった。
だって、俺も彼らも先生も全部同じ人間じゃないか。嫌味のつもりなんてない、のに。どんどんクラスメイトが俺を決めていく。俺じゃないことを俺だと決められていく。

俺じゃない誰かに『俺』を造られている気分だ。
前の、ときみたい。
顔を隠すなにかが欲しい。見たくない、誰の視線も見たくない。

こんな風になるなら。
俺は、真剣にテストに取り組むべきではなかったのだろうか。もっと、手を抜いていれば鷲尾にあんな目で見られることもなかったんだろうか。

「さて、このぐらいでしょうか?なにか他に質問したい人はいらっしゃいますか?」

気付けば解説が終わっていた。
左手は拳を作ったままで右手は無意識に胃を擦った。
作った拳を戻そうとするけれどうまくいかない、力が上手く抜けない。深呼吸をしようとするけれど、深く息を吸うことも出来ない。
苦しい。
息が苦しい、胃の中が気持ち悪い。
誰の顔も見たくない。誰にも見られたくない、辛い、いたい。
俯いた顔を上げられない。はやく、上げないと。先生がこのまま質問の時間を終えてしまったら、通常授業になるんだろう。
そこで、俺が俯いていたら気にかけてしまうかもしれない。さっさと力を抜いて、拳を解いて胃を擦るのを辞めて……顔を上げないと。
鎖を全身に巻き付かれたように動かない。自分の身体でさえ言うことを聞いてくれない。
どうしよう、どうすればいい。混乱で目がまわりそうだ。

俺のこと、すべてを理解しなくていいから。
せめて俺のことを、決めないでくれ。
ハッ、と不規則な呼吸音が漏れた。

だれか、たすけて。

拳を作ってしまったままの左手をトントンとだれかに軽く叩かれた。
2回、俺の様子を見るかのように軽く叩く、俺の反応がないからかまた2回叩かれる。しばらくそれが繰り返される。
なんだろうと左手を恐る恐る見た。

俺のとなりの席はだれか、なんて冷静な頭で考えればすぐにわかることだったけれど、でも軽く混乱状態になっていた俺には誰なのかもわからなかった。
隣の人間が誰だったか分からなくなっていたけれど。

でも、この俺よりもゴツゴツしている男らしい手の主が誰かはすぐに分かった。
俺のことを信じてくれる暖かくて優しいその手。俺が知っているその手が誰かなんて、すぐに分かった。


力の抜けない手の甲をずっと、伊藤は人差し指と中指で規則正しく叩いてくる。
どうして叩いてくるのか、咎められているにしてはあまりにもその叩いてくる力は優しい。
呼吸をうまくできるようになって、いきぐるしさを感じなくなってきたのが分かって、ようやく伊藤の方を見る余裕が出来た。
席に着く前の頼りなさそうな雰囲気は嘘のように、今は穏やかに俺を見つめている。俺がやっとこっちを見たのに気が付いたようだ。
(こっちの手、ひっくり返してくれないか?)
(……?)
俺の左手を見ながらそう口パクで伝えられた。こっちの手、と言うのは伊藤が何度もたたいている力を抜くことを忘れた左手のことだと分かった、
どういうことなのか、なんでひっくり返さなきゃいけないのか、内心疑問は尽きなかったが言われた通りひっくり返した。
力が入りすぎて、爪が皮膚を破りそうなぐらい握りしめている手。
痛い、と思う。だけど、どうしてもこの力だけは抜けなくてどうしていいのかわからない。

諦めにも呆れにも似たような感情で自分の左手を眺める。
そこに、暖かい伊藤の手が覆いかぶさってきた。
伊藤の手は、あたたかい。
俺の手が緊張とかで冷たくなっているせいか、伊藤が人より体温が高いのかは分からないけれど、でも伊藤の手は暖かくて心地が良い。

冷たい俺の手に驚いたように一瞬震えたけれど、そのあと冷たい俺の手を温めようとしているのか痛みを感じない程度にぎゅうっと握ったり、擦ったりされる。
俺の手と伊藤の手が触れ合っているのをじっと見ているとなんだか、恥ずかしく思う。
手は冷たいのと反して俺の顔が熱くなった。
叫んでこの場から逃げ出してしまいたいような、このままずっとしていてほしいのか、もうよくわからない。
さっきとまた違う意味で混乱する、これ以上見るのはなんとなくいけないような気がして俯いた。顔は真っ赤になっていると思う。

そんな俺を知ってか知らずか手全体を使ってなだめるように数回叩いた後、
(……っ?)
握り込んでいる指の隙間に伊藤の指が入ってくる。
強引に、ではなく少しずつ少しずつゆっくりと、伊藤の指が入り込もうとする。優しく、入り込もうとするのを俺は止められない。
先ほどから冷えた手を温められて自分でも知らず知らずのうちに徐々に力が抜けていたようで、あんなに強固に握りしめていた手がいつの間にか軽く握り込んでいる程度になっていて、伊藤の意志だけならすぐに入り込むのはたやすいことだろう。
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