2章『結局のところすべては自分次第。』
「一ノ瀬。前よりテストの結果良くなったわ。ありがとうな。」
「……どうも、だけど国語は教えていなかったと思うが。」
国語の授業が終わり、次の授業が始まる間の休み時間に湖越にお礼を言われた。
確かに俺は湖越に勉強を教えていたけれど、それは理数教科だけで国語や英語は叶野の方が理解していると思ったからそっちはノータッチだったはずだ。
テストの結果が良くなったのなら湖越の努力の結果だ、俺は関係のないことだと指摘したが前の席の俺と湖越の会話に入ってきた。
「一ノ瀬くんがちゃんと教えてくれたおかげかね、やった分だけちゃんと結果が出ることに気付いた誠一郎のやる気スイッチが入ったみたいでさー前までは俺が国語とか教えようかって言ってもあんま頷かないし、頷いてもすぐ寝ちゃってたんだよ。
もうね、世話やけるのよ。でも、今回はとても意欲的で、誠一郎くんは良い子でしたね~。」
「うるせえよ。」
「いだ!暴力は反対ですぞー!」
叶野がそう茶化しながら湖越が俺に礼を言った理由を教えてくれた。恥ずかしくなったのか湖越は雑に叶野の口をべちっと音が響くぐらいの勢いで掌で抑えた。
叶野が言ったことにまさかと思ったけれど湖越は否定はしなかったから、本当のことらしい。
「……でも、ちゃんとやったのは湖越の意志だろ?…それに、実際湖越に教えたのは叶野だ。」
俺のおかげだとそう言ってくれるのはうれしいと思うけれど、きっかけが本当に俺であっても国語もちゃんとやろうと意欲的になったのは湖越自身のおかげで、国語のテストで良い点数を取れたのは国語を教えてくれた叶野のおかげだ。
俺に礼を言うのは間違ってはいないかもしれないけど、でも本当にその力になってくれた人にも礼は言うべきだと思う。それは親しき仲にこそ、適応される、と思う。
ならば叶野に礼をいえ、なんてことは先ほどの俺と伊藤のやり取りが微妙な空気感になったつい先ほどの出来事があったので、強要するつもりはないけれどそれでもちゃんと教えてくれた人のことも思い出してほしい。もしかしたらもうちゃんと礼を言っているかもしれないけれど、な。
「じゃあ、誠一郎の自分のおかげってことで!俺は手伝ったけど、結果出したのは誠一郎だもーん。」
「俺は俺を礼を言えと?……いや、どんなナルシストだよっ」
「あはははは!」
「のぞみ、笑うな!」
叶野はそう湖越に返した。
やっぱりうまいこと空気を読む力に長けているな、と感心する。
湖越が叶野に礼を言ったらさっきの俺と伊藤みたいになってしまうだろうことを察したのだろうか。いや、叶野はさっきの時間テストの返却のとき他のクラスメイトのもとにいたから俺らのことを知らないと思うが。
少し前まで人との関り方を放棄してきた俺ときっと違って叶野は今の今までたくさんの人と関わってきて色んな空気を味わっている人何だと思う。たぶん元来の気質もあると思うけれど。
俺はきっと、もしもすべてのことを克服したとしても、叶野のようにはなれないと確信している。伊藤のはなしを聞く限り、前の『俺』もそこまで変わっていないようって言っていたから、叶野のように愛嬌のある皆から慕われる人間ではないと確信する。
なれるなれないとかそう言ったのを取っ払った上で叶野のその空気を読む能力を長けているのは尊敬するべきところだと思う。
叶野のようになれないとしても、そう言った姿勢を忘れないようにしたい。…俺は、あまり空気を読むことに長けていないのを最近学び始めているから。叶野のそう言ったところは少しだけ、そうだな、羨ましいのかもしれない。
楽しそうに笑う叶野と顔真っ赤にしてそれを止めようとする湖越を眺めながらぼんやりとそんなことを考えた。
「おい」
「……?」
しかたねえやつらだなーと呟く伊藤とともに叶野たちを眺めていると、唐突に誰かに話しかけられた。
名前は呼ばれなかった。でも、俺の近くで強い口調でそう言われたからたぶん俺のことを呼んだと無意識下に認識して反射的に声のした方を顔を向ける。
いつの間にか俺の席のそばに鷲尾は立っていた。俺は席に着いているから、立っている鷲尾を自然と見上げる。その声で鷲尾と言うことは分かっていたけれど、驚いてしまう。
驚いたのはいつの間にか俺の近くにいたことにもだったが、立っているせいで自然と俺を見下ろし鷲尾の目が酷く冷めているような気がしたから。その目が少しだけ桐渓さんを思い出して、怖い、と思う。
「さっきのテスト見せろ」
鷲尾は声が大きくてなんというか有無を言わせなくて、かなりはっきりしていて冷たさを感じさせることが多々ある話し方をする。でもそれも鷲尾の特徴だと思っていた。普段の鷲尾には特に俺として思うことはなかった。
だけど、今の鷲尾はずいぶんと高圧的な気がする。
鷲尾の言う通り特に見られて困るものではなかったから、机にしまっていた先ほどのテストを鷲尾に差し出した。それを乱暴に俺の手から奪い取るような雑さで手に取った。手がジンジンと痛んだ。
「……98点か。」
……さっきも言ったけれど、鷲尾の声は大きい。そして通る声をしている。
すでに呼び掛けた地点でクラスメイトがこちらに注目してしまうぐらいには。そんななか点数を呟かれたら、な。
「まじか、やっぱり神丘学園にいるだけあるのか。」
「へー。一ノ瀬ってすげえな。」
クラス中に俺のテストの点数が知られてしまうのである。たぶん、目に入ったから無意識に言葉にしてしまったんだと思う。
「おい!突然こっち来たかと思ったらなにしてやがるんだっ」
「……伊藤、俺は気にしてないから。」
気分が良いとはちょっと違うけれど、気にしていないのは本当だ。見られて恥だと思っていないし、前の学園のときは上位50まで掲示板に貼られていたから。
そのつもりで言ったのだが。
「ああ、さすがだな。神丘学園にいたやつはやっぱり少し違うのか。まぁ一ノ瀬は天才だからな。一般とは違うと言うわけか。」
「……そんなつもりは。」
まさかそういう風に解釈される思わなくて、咄嗟に声が出なくなる。辛うじて小さな声で否定したけれど、酷く冷めていてそのうえ大きくて通る声でかき消されて
「羨ましい限りだな。」
そう言って、鷲尾は嗤った。口角だけ上げて、そのくせその冷たい瞳で俺を見下ろした。
目の前の鷲尾が脳内にいる桐渓さんと被って見えて、ヒュッと喉が引き攣って声が出せなくなった。
「てめえ勝手に透のテストの点数を読み上げておいてよ。透が悪いような物言いは何なんだよ。」
「そうだな。そこは謝るさ。悪かったな、一ノ瀬。
ああ、でも一ノ瀬は気にしていないんだよな。さすが、あの名門の出のお方は育ちも何もかも違うんですね?」
「鷲尾!」
鷲尾の棘のある言い方についに伊藤は勢いよく立ち上がり、鷲尾に掴みかかる。
このまま鷲尾を殴ってしまいそうな雰囲気の伊藤に、さっき言われたことも忘れて詰まりそうになりながら伊藤の名前を呼んで制止しようとしたのとほぼ同時に、鷲尾は伊藤に怯まず言い放つ。
「なんだ?伊藤。先輩や先生らを殴ったあとは次は僕か。」
そう、鷲尾は言った。その言葉に伊藤はその振り上げかけた拳は鷲尾の顔間近でピタリと止まる、クラスのみんなもシンと静まり返る。
そんななか唯一俺は何のことか分からなくて首を傾げる、いや、鷲尾がいった言葉がうまく理解できなかった。
伊藤が?先輩や先生を、なぐった?
……予想が出来ない。
だって、伊藤はあんなに優しい。
昔からの親友なのに、伊藤のこともすべてを忘れてしまった俺を伊藤は笑って受け入れてくれた。
過去のことを話したとき涙を拭ってくれた、生きることをあきらめないでくれと叫んでくれた。そんな伊藤が人を殴ったなんて、鷲尾の言ったことと俺の脳内の伊藤と上手くリンクしてくれない。
だけど、たぶん……鷲尾の言っていることはきっとほんとう、だと思う。
その証拠に、クラスのみんなは気まずそうにこちらと目を合わせず静まり返っていて……何より、伊藤は否定していない。鷲尾が言い放った言葉に、なにも……反応すら見せない。
俺に背中を向けているから伊藤の表情は分からない。固まってしまった伊藤に「離せ。」と鷲尾は掴まれた手を振り払う。力なくだらりと伊藤の腕が重力に逆らわず腰あたりに揺らめくのが、目についた。
「へえ。一ノ瀬の反応を見る限り自分がしたこと言っていなかったのか。あんなに一緒にいるくせに。ともだちってそんなことも言えない存在なのか。
友達ってやっぱりただのじこまんぞ…」「っ鷲尾くん!」
小馬鹿にしたように嗤いながら静かな教室で鷲尾の意見が響いていたけれど、誰かが名前を呼んで制止する。
悲鳴にも聞こえるような、悲痛な声だった。
そんな声をあげたほうを見ると、眉を寄せて声と同じような苦しい表情を浮かべる。
呼ばれて叶野の方を見た。
伊藤に凄まれても怯まなかった鷲尾が、止まる。
「鷲尾くん、どうしちゃったの。どうして、そんな傷付けるようなことを…。」
「……これが本来の僕さ。」
これ以上は話すつもりはないといわんばかりに、切り捨てるようにでも這いだすような自嘲しているようにも聞こえる声でそう言って自分の席に戻っていった。
わしおくん、弱弱しく叶野は名前を呼んだけれどタイミング悪く次の教科の先生が来てしまった。
「こんにちは。眠いと思いますが授業を始めますよ。…あら、どうしましたか?」
普段は騒がしく和やかなのに反して、今酷く空気の悪い教室に英語担当の上品な女性教師が戸惑いがちにそう首を傾げて聞く。
「なんでもないです。ほら、のぞみ。みんなも席に着け。」
「……うん」
湖越に促され席に戻っていく。
伊藤は、固まったままだ。今どんな表情を浮かべているんだろう。
「…伊藤。」
俺の声に反応して、振り向いた。どんな顔をしていいのかわからないような、複雑な表情を浮かべている。この場から逃げ出してしまいたいような、そんな顔。
一瞬どう声をかけようかと迷ったけれど
「……さっき、俺のために怒ってくれてありがとう。授業、始まるから。座ろう?」
あえて今伊藤が浮かべている表情に反応せずさっきのことをお礼と座るよう促しただけにした。
鷲尾の言ったことは本当だとして…俺のために怒ってくれたのも本当だと思う。
それはさっきのことだけじゃなくて。
もう1ヶ月半も前の話になるのか。生きようとしない俺に怒ってくれたのも、心配してくれたのも、泣いてくれたのも。
クラスメイトが気軽に俺が引っ越してくる前の伊藤の話をしようとしないのも、湖越が話そうとしたのを止めていたのも分かった。
伊藤も、確かに話しにくいことだとおもう。どういった経緯でそんなことが起こったのか分からない。
だけどクラスメイトが伊藤のことを話そうとしているのを止めた後『伊藤は何も悪くない』そう湖越は言っていた。
結果はどうあれきっとなにか伊藤にも事情があったんだ。伊藤は俺の記憶喪失のことを受け入れてくれた、うそじゃないと責めもせず信じてくれた。なら、俺も伊藤のことを信じたい。
疑わず俺に言わなかったことを責めず、伊藤のことを信じる。伊藤から言いたくなるまで待つ。言いたくなったら、真剣に聞く。
伊藤が、俺にそうしてくれたように。
それが、きっとたぶん『親友』と呼ぶんだ、と思う。
「…………ああ。」
たっぷり間が合って伊藤は頷いた。
事件のことをすぐにでも伊藤が俺が話すのを待ってくれたように俺も伊藤が話してくれるのを待つから。
それまで、俺はいつも通りを演じるから。
クラスが妙な空気になっているのも俺のことを気にする伊藤の目線をあえて気付かないふりをしていつも通りに授業が始まった。