このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

ここから始まる『俺』のものがたり。


 伊藤からなにも問い詰められることなく、たまに沈黙しながら伊藤が好きなときに話しているのを俺が聞いて反応を返すだけだったけど、伊藤は終始楽しそうで、俺は話を聞きながら伊藤の表情が変わるのを見ていた。
 俺の意識が伊藤に夢中になっていたおかげで、出たときよりも帰りのときのほうが時間が早かった、あっという間に家の前だ。
 男子高生2人が錆ついた階段を上るとかなり不安な音が鳴る。後ろからやばいな、この階段。と伊藤の呟く声が聞こえた。
 鍵を取り出して、どうぞ、と家の鍵を開けて伊藤を招いた。
「お邪魔します」
「……うん」
 靴を脱いで家のなかに入るのに続くように伊藤も入ってきた。

「おー懐かしいな、こんな小さかったけか…。
もう大体引っ越しの準備終わってるんだな」
「……荷物が少なかっただけ」

 荷物はこれだけ、と積み上がった段ボール二個を指させばまじか!と驚いた声がかえってくる。

「え、こんだけって足りるのか?」
「……足りなかったから、さっき買った」
「あっそうか……服とか興味ねえのか?」
「……ないよ」

 がさがさと袋を開けて品物を取り出してあるべき場所に置いて行く。
 調味料や調理器具まではさすがに持ちきれなくてそろえなかったので、今日のところはスーパーで売っていた弁当、明日の朝と昼の分でいくつかパンを買ってきた。
 伊藤はカレーを買っていた。レンジだけは買ってもらっていてよかった。温めて折り畳み式のちゃぶ台を広げて、ご飯を一緒に食べた。
 誰かと一緒にご飯を食べるのも初めてだ。前の学校のときは友人と呼べる人もいなかったのでいつも一人で学食を食べていた記憶がある。
 とりあえず明日はやかんやフライパン、なべなどをそろえていこう。
 テレビはつけず、相変わらず伊藤が話したいときに話して、たまに沈黙があるぐらいの静かな食事だった。
 いつ俺のことを細かく聞かれるのか、どう答えるか考えていたけれど、聞く素振りはなくていつしかご飯も食べ終わってしまった。

「そういや、透の新しい高校どこ?」
「……水咲(みさき)高校、だ」
「え、俺と一緒の高校か!同じクラスになれたらいいな!明日学校、一緒に行こうぜ」
「……うん」

 いつ出るか聞かれて予定していた時間を言うと、じゃあそのぐらいにさっきの公園で待ち合わせな!と笑顔で言われて頷く。

「……」
 なんで、嬉しそうにするんだろう。
 なんで何も聞かないんだろう。
 いくら時間が経っても、そんな素振りが無くて思わず伊藤をじっと見つめた。
 その目に、ああ、と納得したように携帯電話を確認して「もうこんな時間だったな、悪いな。」そろそろ帰るな!明日また、と俺の目線がまだ帰らないのかと催促だと勘違いして帰ろうとする伊藤に、思わず呼び止めた。

「……なんで、なにも聞かないんだ。
 俺は、伊藤のこと、忘れているのに。」

 そう聞いてしまった。
 あえてなにも言わないでいてくれたのかもしれない、気を使ってくれたのかもしれない。
 それでも聞かざる得なかった。
 だって、前に聞かれて正直に俺が分かりませんごめんなさいって言ったら、頬を平手で叩かれて泣きながら返してくれ、と言われて、冷たい目で俺を見られた。
 だから伊藤の行動が理解できなかった。
 いくら親友だったからって、忘れてしまったと言う俺にそんな風に友だちのように接せるのかわからない。
 さっきは言えなかった『忘れてしまった』の言葉もつい、言ってしまった。
 てっきり人目のないところに行って俺に言いたいことややりたいことをやるのだと思っていたら、そんな素振りなんてなくて、ただただ伊藤は優しかった。
 どうしてなんだ、と伊藤の目を見ると、さっき謝ったときと同じ眼で俺を見返している。
 切なげに眉を寄せた、と思ったらまた笑顔で

「だって、記憶とか関係なく、お前は『透』だからな!」
 そう言い切られてしまった。


 頭を軽く撫でて、じゃあ明日公園で!と言い残して家を出ていった。
 俺は固まってしまってドアの閉まる音が聞こえるまでその場を動けなかった。
 ばたん、と言う扉が閉まる音が聞こえて、思わず肩が跳ねた。後ろを振り返ればもう伊藤はいなかった。
 なんだかまるで夢のような、でもゴミ袋には伊藤が食べていたカレーのプラスチック製の容器が入っているし匂いもある。『伊藤鈴芽』は実物する。

「……お前は『透』か……記憶も、関係なく……。」

 伊藤に言われたことを復唱した。
 テレビも付けず、伊藤がいない今俺しかこの家にいない。俺の声がこの狭い部屋に響いた。

 初めて。初めてのことばかりだ、今日は。
 初めて俺を心配してくれた。
 初めて誰かと買い物をした。
 初めて、俺が『透』だって言ってくれた。
 記憶とか関係のない『一ノ瀬透』なのだと。

 よっぽど、伊藤は『一ノ瀬透』を信頼してくれているらしい。
 彼のためには思い出さないといけないと思う、でもまだ思い出すのが怖い。
 ……どうして、怖いと思うんだろう。記憶はない癖にこれだけは拒否しようとするんだ、脳が。辞めてくれと悲鳴をあげているかのように、無理矢理思い出そうとすると頭痛と耳鳴りが止まらない。
 そんなに、『一ノ瀬透』は両親を失ったことが苦しかったのだろうか。思い出すことを拒否するぐらい。
『俺』には分からない。
 ……いろいろ考えていたらなんだか、疲れてしまった。
 いつもは誰とも喋らず誰とも顔を合わせずにいたし、きっと新しい高校に行っても変わらないんだと思っていたのが、今日は普通の人に比べたら少なくても俺にしてはかなり話した方だ。
 勉強とは違うところの脳を使った感じがする、頭もガンガン痛む。
 明日は初登校となるし、今日のところはもう風呂に入って寝よう、そう決めて風呂場へ向かう。
 携帯電話が点滅を繰り返しているのが視界の端に見えたが、今はスルーしよう。明日早めに起きて確認すればいい。

 きっと、彼からの連絡だろうから。初めて味わう高揚感を冷ましたくなかった。今だけは許してほしい。

 いつもは明日を待つだけだったけど、今日はちょっと違う。
 伊藤に買ってもらった薄いグレーの硝子のコップが目に映った。
 それを見た俺は、少し口角が上がっていたことに俺は気付かないままだった。


 ほんの少しだけ、『今までと違う』明日が来るのが待ち遠しく思った。

6/8ページ
スキ