2章『結局のところすべては自分次第。』


前に悪戯されたときは、先に俺を掴んだのは叶野で伊藤は悪ふざけとして乗っていただけだった。
確か、そのとき伊藤は笑っていたと思う。侮辱とかじゃなくて、ただおもしろがってじゃれているだけだと分かるそんな笑顔、あの空気感には確かに戸惑ったし辞めてくれとも思ったけれど、別に悲しいとか怖いとか、そういうのではなくてただただ戸惑っていただけ。
叶野がふざけていて伊藤はそれに乗ってて、鷲尾が来るまで結局その悪戯が続けられたわけなのだが。学校だったから二人きりじゃなかったから誰かが来る可能性があったから。
色んな理由を考えてみるけれど、俺が今思う感情と脈絡が無い気がする。

ただ、この場に鷲尾が来たのと同じように誰かがやって来てこの空気が壊されることなく続く。と言うのは、少し、こわい。

「やめ、ろ」

テレビの音にかき消されそうになるぐらい俺の情けなく弱弱しい声。
いやだ、と首を振っても未だ伊藤の手は俺の腋を這い回る。ぞわぞわする感覚が不愉快で身悶える。
伊藤はずっと無言で、俺の声に何の反応を返してくれない。ただ、片手で後ろから俺を抱きしめるような形で拘束して、もう片方でずっと腋をくすぐってくる。
抵抗しようとするけれど伊藤の力が強くて引き離せない。
顔が見えないせいで伊藤がどんな表情をしているのかわからなくて混乱する。

いつもなら、俺が名前を呼べば聞こえていないときを除いて、笑顔で返事してくれる。太陽が似合いそうな笑顔で優しい低い声で「どうした」と言ってくれるのに。
どうして、返事してくれないんだろうか。いくらテレビの音があってもそこまで大きくないのに、こんなに近くにいるのだから俺の声が聞こえていない訳じゃない。どうしてずっと、俺が弱いって伊藤が教えてくれたところをずっとくすぐり続けるんだろ。
拒否の声も黙殺されて、くすぐってくるから息をし難くて、精神的にも肉体的にも苦しい。
でも、それよりもなによりも悲しい。

「…っ、いや、だ」

こわい怖い怖い嫌だ嫌だ。
俺の声を無視してもいい、くすぐられるのも嫌だけど我慢するから。悲しくても我慢、出来るから。

なんでもいいから。

「いと……かお、みた、い…」

せめて、顔を見させてほしい。
怒ってても何でもいいから、伊藤にならなんだってされてもいいから、我慢するから。だから、せめて顔が見たかった。
伊藤になんでこんなことをされているのか分からなかったけれど、これだけなにも言わずにじゃれるの範囲の通り越して延々とくすぐりを続けているのだから、なにか怒っているんだろうな、とは思う。
何をしてしまったのか分からないけれど、伊藤が怒ってしまったのだからよっぽどのことを俺はしてしまったんだろうと思う。
俺を受け入れてくれた伊藤に俺はやっぱり傷付けてしまうばかりで、とんでもなく悲しかった。
顔も目も熱くてしかたがない。混乱とか息苦しさやらで涙が出そうになるのを我慢する。
罰と言うなら甘んじて受け入れるけれど、ならばせめて伊藤がやっているのだと伊藤に触れられているのだと実感が欲しかった。
伊藤にされるなら、殴られたって俺は良いんだ。

懇願する俺に、伊藤はやっぱり何も言わずに、でもくすぐるのも拘束するのもやめた、拘束する腕が離れて自由になったのを認識して目に溜まっている水滴を拭ったあと、すぐに後ろを振り返る。
そこには、俺以上に泣き出しそうな顔をする伊藤がいた。

「…ごめん、透、ごめん…ごめん。俺がいるのに、携帯に夢中になっているの見て、カッとなったんだ。ごめん。」

壊れたように謝罪を繰り返す伊藤を俺は責めるつもりはなかった。ただ、疑問が残ったのでそれだけはぶつけてみた。

「……怒って、ないのか?」
「…怒ってねえ、よ。ただ、嫉妬しただけ。俺が勝手にそれを透に押し付けただけ、八つ当たり、しただけだ。それより、透が嫌だって言っているのに辞めれなくて、ごめん」

また一言謝るとそれっきり黙って俯いてしまう。
俺はどうしていいかわからなかった、感情をぶつけられるのは慣れてはいるけれど、謝られたことはなかったのでその謝罪にどう返していいのか分からなくて。
別世界のテレビのなかの司会者とアナウンサーの陽気な笑い声が、遠くに聞こえた。
……俺にしたことを後悔している様子の伊藤の手は震えていた、俺はその手を握りしめた。1か月前、俺が記憶が無くて謝罪していたときも伊藤は俺の手を握ってくれていたから、と言うのもあるけれど、俯いて手が震えているのを見てなんとかしたくなったから。
あのとき、暖かった伊藤の手は緊張のせいか俺よりも冷たくなっていて、なんとか温めたくて両手で擦る。

「…透?」
「……気にしてないから。謝ってくれたし、もういい。」
「でもっ」
「……俺もごめん。せっかく伊藤といるのに、携帯に集中してて。」

普段一緒にいるときだって、話さないことだってあるし互いに好き勝手しているときだってあるけれど、それでもメールに集中するのは今回初めてだったから、きっと失礼になるし、伊藤が俺のこと放っておいて誰かとのメールに熱中されるのを想像して…なんとなくいやだな、と思う俺も伊藤にそうされたら何かしら八つ当たりしそうだ。
お互い省みる点があると思う。そう言ったけれど、でも、と食い下がる伊藤にするつもりのなかったことを言う。

「……今度、仕返しするから。だから、もう気にしないで良い」

この間のように、くすぐられたことへの報復は本当はするつもりはなかったけれど、このままだと伊藤が納得せずにずっと繰り返しになりそうだったから、そう告げる。
これ以上このことを持ち込んで伊藤との仲が微妙になってしまうのが嫌だから、そのぐらいならこうして言ってお相子にすればいい。それなら、いいだろう?

伊藤はポカリと口開けて俺を見ている、それに動ずることなく目を合わせる。しばらくして俺が思っていることが通じたのか。

「…覚悟しておくわ。」
「……俺の仕返しは倍返しだからな。」
「あーまた泥だらけにされるのか。」
「…それも、いいな」

冗談のつもりで言った伊藤の言葉にうなずいてみると
「勘弁してくれよ」
そう言って下手くそに作った笑顔を浮かべた。俺も多分同じような顔をしているだろうけれど、互いにそれを指摘することはなかった。

そのあとしばらくは勉強も何もするでもなく、何となく並んで座ってテレビを見た。
めでたいニュースも暗いニュースも確かに見てちゃんと聞いているはずなのに、どこかに通り抜けていくように頭に入らなかった。それでも伊藤のとなりでぼんやりと眺めた。

しばらくしてから、近くに転がっていた教科書を拾って目を通した。
教科書を読み始めてしばらくして、伊藤も元々座っていたほうにあったやりかけの問題であろうノートと教科書と英和辞典を引っ張って俺の隣でやり始めた。

気まずい訳ではないけれど、少し居心地が悪いような感じもしつつ、でも離れるつもりは毛頭なかった。
たまに文字を書いている伊藤の腕が当たったりしても、どくつもりはなかった。狭いと思うし、いくらなんでも男同士で近すぎる気もするけれど、それでも移動するつもりはなかった。
伊藤になにか言われたら移動しよう。そう思った。

結局俺らはそのままの位置で、伊藤から何の指摘もなく結局勉強会が終わるまでそのまんまだった。
トイレだとか小休止と一旦離れることはあっても、結局戻っているのだから伊藤も離れるつもりはなかったみたいだった。
いつもより口数は少なかったけれど、昨日のような気まずさは感じなかった。普通に伊藤は分からないところを質問してきたりしていた。
勉強会のあとにまた伊藤が夕飯を作ってくれて、食べる位置はいつも通り向かい合って食べていた。それが普通なのに、どうしてかとなりが涼しいなと思った。
冷房のない扇風機しかない部屋で、じっとりと纏わりつくような暑さがあるのだから近くにいられて暑くて嫌だったはずなのに、特に暑さが嫌いなくせに涼しい気がする自分に違和感を覚える。
その違和感の正体を掴めることはなく、そのまま伊藤が帰る時間になって玄関まで見送った。
靴を履いて、出ていこうとするけれど伊藤はまた気まずそうに俺に目を合わせず、何かを言いあぐねている。
謝りたいのだろうか。でも、俺も省みるところもあるのだし、その謝罪はもういいのだと俺は切り出している。だから何を言うか迷っているようだった。


「……明日、また」

俺が望んでいるのは気まずそうな伊藤と過ごすのではなく、ここ1か月ほどで『当たり前になった日常』だ。
だから、伊藤がなにか言いたそうにしているのを気付かないふりをして、『いつも通り』にそう言った。

「ああ明日、またな」

俺に倣ってなのか、どうなのか。
少しだけ、安堵したかのような表情を浮かべて、伊藤も『いつも通り』に返した。
軽く手を振って伊藤を見送って、ドアが閉まって少ししてから鍵を閉めてそのまま風呂場へ向かう。
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