2章『結局のところすべては自分次第。』
「いやー一ノ瀬くんのおかげですごい捗っちゃった!ありがとね!また勉強会しようねー」
「……そうか」
いつの間にか時間が経っていたことに驚き帰りの準備をして皆で教室を出た。
俺のおかげだと叶野が笑いかけてくる、捗ったのは別に俺のおかげではなくみんなが頑張ったからだと思うが、叶野の言葉に伊藤も湖越も頷いているので否定するのも申し訳ない気もしてそれだけ返しておくにとどめた。
「そう言えば鷲尾……わっしーって塾に家庭教師って、いつフリーの時間があるんだろうね?」
「さぁな。いつもHRが終わればすぐ帰るよな。」
鷲尾のことをわざわざ言い直してまであだ名で呼ぼうとする叶野は何の執念があるのか少し疑問に思う。
湖越ももう突っ込むつもりはないようで、スルーして普通に会話をしている。
確かに、鷲尾と昼休みをともにするようにはなったが、放課後に鷲尾と話したことはない、と言うか気付けばすでに姿が消えている。
何をしているかだとか聞いたことはないが、毎日昨日と違うプリントを持ってきていることから少なくとも平日は塾なり家庭教師なりがあるようだ。
鷲尾にとって勉強は強制されるものではなくて趣味、とはまた違う気もするが、似たようなものなのかもしれない。
勉強に対する彼の姿勢はなんというか、鬼気迫るものを感じる。
あの感じだと多分何もない日も勉強をしているんだろう、そんな予想がすぐについた。
彼が放課後残ったところは見たことがない。
別に、放課後なのだから残るなり帰るなりそう決めるのはそれぞれ決めることなのだから、こちらがとやかく言える立場ではないとは理解しているが。
勉強以外に時間を費やすことが多くなった俺からすると、鷲尾にとって勉強する時間は叶野たちといることよりも有意義な時間なのだろうか。
そんなことをつい思ってしまった、聞こうとするつもりはないが、心のなかでふと思い浮かんだ。
「あ、桐渓先生だ。」
階段を下って一番下までみんなで歩いていると前にいる叶野がそう声を出した。
その名前が出た瞬間、鳩尾のところがさぁっと冷えていく。無意識に立ち止まり、息が詰まった。
「おーお前らまだ帰っとらんかったんか?なんや、言いつけ破って遊んでたん?」
「いやいや!みんなと勉強会してたんですよっ」
「ほんまかー?」
誰かと普通に穏やかに話している桐渓さんがどこか不思議で、ついつい彼を見つめていたのがいけなかったのだろう。
桐渓さんと、目が合う。
俺がいたことに驚いたように目を見開いたのは視界に捉えたけれど、すぐに俺は俯いて視線を逸らした。
前を歩いていた叶野と湖越は俺のことに気が付くことはないだろうけれど、俺の隣を歩いていた伊藤には気付かれてしまったかもしれない。
でもそんなことを、今は思いつかないぐらい俺は動揺していた。
こわい。
そんなことを真っ先に思ってしまった。
桐渓さんと顔を合わすのは、あの日以来初めてのことだった。
意外というべきか、俺は桐渓さんにあれ以降呼び出されたことはなかった。
メールが来ることはあったけれど、少し慣れてしまって文面だけだと怖いとは思わなくなってきたところだった。
今なら、桐渓さんと会っても平気な顔を出来るかもしれない。そんなことを思うぐらいになったけれど。
名前を聞くだけで身動きが出来なくなって、目が合えば恐怖を覚えた。
伊藤と一緒にいる日々は、穏やかで優しくて俺を傷つけるようなものは何一つ無かったから、そんな日々を知ってしまったから、こわい。
桐渓さんにされてきたことは、恐怖を覚えるもので味わいたくないものだと知ってしまったから、怖い。
未だに前にいる叶野と湖越が桐渓さんと親し気に話しているのが聞こえたけれど、
「っは……」
もし、あの日と同じように保健室に来るよう言われたらどうしよう。
俺のせいで両親を失って、あの日逃げてしまったのだから、責められるのは当然でもこわいものはこわい、嫌なものは、いやだ。
呼吸が乱れる。
駄目だ。平常心だ、落ち着けそう自分に言い聞かせてもどんどん呼吸が不規則になっていく。
少しでも自分を落ち着かせたくて、自分がおかしくなったことを悟られたくなくて、胸に手をやってひっそり深呼吸を繰り返す。
自分の手が酷く冷たい。
緊張と恐怖からなのだろうと理解は出来ても、温かみを感じない自分のもののはずのこの手は少しも俺を落ち着かせてはくれなかった。
呼吸がうまく出来ない俺を気付かれたらまずい、俺の異変に保険医である桐渓さんに保健室で休んでいきな、とか言われてしまえば叶野達は従いざる得ないことになる。
だから、少しでも落ち着かせたいのに、いつも通りの平静を保ちたいのに感情は何も言うことを聞いてくれなくて、混乱する。
どうしよう。どうしようどうしよう。
焦って、どんどん呼吸がうまく出来なくなっていく。呼吸の仕方を忘れてしまう。それにまた焦りを覚えての繰り返しになっていく。
焦燥感やら恐怖やらどんどんあふれ出してテンパりそうになる、苦しい。
そんなおかしな様子になったであろう俺の冷えた手に暖かい何かが重なり、俺をぐいっと引っ張られる。
「悪い、叶野湖越。今日ちょっと卵が大安売りがあるの今思い出したから帰るな!」
「お、おう。わかった」
「え、あ、そうなんだ、焦ってこけないようにね!ばいばーい」
「おう。じゃあ透、行こうぜ!」
伊藤に声をかけられて、何がなんだかわからないままに手を引っ張られるがままに走る。
いきなり走り出して、何故か俺は伊藤に引っ張られ走っている。俺の手に重ねられたのは伊藤の手であることに、今気づいた。俺の手を痛いほどに握ってくれるその手が嬉しい。
走る伊藤の後姿は広く見えて、今まで見た何よりも頼もしかった。