2章『結局のところすべては自分次第。』
野菜を切っていると居間の方から何度もゴン、ゴンと鈍い音が聞こえてくるのでどうしたのか、と声をかけてみたが、
「……ナンデモナイ」
透は視線をこちらに向けることなくちゃぶ台に突っ伏しまんま、何故か片言でそう答えられた。
何故か凹んでいる様子の透に首を傾げながらも大人しくなったので何も言わないことにした、きっと、あれだろう。
俺にぶっ通しで数学を教えてくれたから疲れたんだろう。そう結論付けた。
それにしても、無表情なわりには随分と行動のバリエーションは豊かなのは昔から変わらない。
いたずらをされたらやり返すのも、理由は分からないけれど凹んでいるときに力なく項垂れているのも変わらない。
やっぱり記憶が無くなったって変わらないところのほうが沢山あるんだ。透の存在がそう証明してくれている。
こうして料理を振る舞うのも、もうすぐ両手で足りなくなるのかもしれない。
透の家の冷蔵庫のなかやら食器の場所やらはきっと透より俺の方が知っている。一人暮らしも初めてで、自分への関心を持たないようにしていた透についつい甘やかしてしまう。
と、言っても俺が甘やかそうとしても透も俺に悪いと思っているのか食器洗いとかしてくれるけどな。やっぱりしっかりしてるよな。
「……手伝えること、あるか?」
「じゃあスプーンとか用意しといてくれ、もう出来る。」
あとこうして手伝えることを聞いてくるのは、なんだか微笑ましい。
スーパーの野菜を物色するのにも透の勉強の教え方が上手すぎて珍しく集中して数学に齧りついていたので、時間をかけてしまったのは俺なんだから、気にすることはないとは思うが透がそう言ってくれるのなら、とその言葉に甘えて手伝ってもらう。
さっさとチキンライスを卵に包んで、軽くサラダも用意したのを持っていく。
透はスプーンとフォークと飲み物を用意してくれている。「さんきゅーな」と軽く言えば透は首を振って「……こちらこそ」と言う。この会話は毎回やっているが、まぁ良いだろ。
オムライスを乗せた皿をわたすと、両手で大事そうに持って、無表情のその目を少し輝かせて見ている。いつも、俺の作った料理を宝物を見るかのような目で見るのは少々照れくさいが悪い気はしない。
俺も座って手を合わせて「いただきます」と言って口をつける。俺は作っている方だから、美味しいとかそう言う感想はなくて大体計算した通りの味だな、と言う感想ぐらいしかないが。
透の方を盗み見る。
その小さな口をいっぱいに開けてその儚げな印象を受ける容姿とは裏腹に、男らしく雑に頬いっぱいに詰めて食べる。
食べるときのその顔も無表情なのに、美味そうに食ってくれる。再会した日の夜や次の日の昼とかも食べている姿は見たけれど、本当に無表情に食べていて速さもゆっくりだった。
今もコンビニの弁当を食べているときはここまで早く食べていない。
一回「そんなにうまいか?」と聞けば頷かれたことがある。鷲尾曰く透が前にいた神丘学園は金持ちの集まるかなりレベルの高い進学校らしいし、きっと俺の料理何かよりも断然良いモノ食ってきたと思うんだが。
それでも俺の料理も美味そうに食ってくれるのはうれしいものだ。作っているほうからするとその食いっぷりはなかなか気持ちが良い。
「……ごちそうさま」
「おーおそまつさま。」
いつも俺よりも透の方が早く食べ終わる。サラダもしっかり食べているようだ。よしよし。
「オムライスは好きか?」
「……ああ」
「そうか」
何か作ってほしいものがあるか、と最初に聞いたときに透は「なんでも」と答えた。詳しく言ってほしいと食い下がって聞いてみても困ったように眉を寄せて「分からない」と言われてしまった。
曰く、出されたものをとりあえず食べてきた。それに何も考えずに食べれたし食べてきたから特に好きも嫌いもない、とのこと。
確かに人間らしく生きることを放棄してきたと言う旨のことは聞いたが、まさか食に関してもそんなことになっているとは予想もつかなかった。
透がそこまで自身を責めていたことに胸が締め付けられる痛みとともに周りの人間たちに対して苛立ちも覚えた。
どこまで透のことを見ていないんだ、どうして透をそこまで追い詰めるんだ。
小学4年生なんてまだまだ小さな子どもで、守るべき存在であるのに、記憶を失って不安定な心をズタズタに傷付けて、まだ10歳になるかならないかの人間に全てを押し付けて、『自分』を文字通り殺して、生きることすらも諦めて、自分の好きな食べ物も分からないそんなふうにさせて、なにがしたいんだよ。
悲しくて仕方がない。透が、俺に恐いのを我慢して自分のことを教えてくれた時と同じぐらい痛かった。
傷ついているのは透なのに透は自分自身の痛みに気が付いていないようで、むしろ痛みに歪んだであろう顔をしていた俺を逆に心配そうに見ていた。
そんな透を見て、正直激高しそうになった。
どうしてそんな普通の顔をしているんだ、どうして痛いのはお前なのに俺の心配をしているんだ、とそう言いそうになった。
だけど気付いた。
今の透は何が悲しいのか苦しいのかがいまいちわかっていないんだってことに。第三者で言う当たり前のことを透は知らずにいたからだってことに。
ずっと、悲しくて苦しいなかにいたから。普通の人なら知っている記憶を失う前まで当たり前に貰っている優しさを知らず責められ無視され、ときとして暴力も受けたと聞いた。
俺に吐き出したのを聞く限りされてきたことへの苦しみだとか辛さをやっと自覚出来た。
何が好きか嫌いかも、透はいまいちしっくり来ていないのは知らないからだ。誰も透のことを求めず認めず、そんな扱いを受けてきた。
「なにを食べたい?」て誰も聞いてこなかった。聞いてくれなかった。気にかけてくれる人は、いなかった。
あのときの、俺みたいに。
心配そうに俺を見る透をあえて無視をして言った。
下手くそな笑顔を作って「じゃあ適当になにか作るから、それを好きか嫌いかだけ教えてくれ」と言ったのだ。
今日まで透が前に好きと言っていたものやこれはどうだろうか、思ったものを出してみた。
最初に作ったハンバーグや今日作ったオムライスは前から好きといっていただけに好評だ。食べるスピードも早いので案外分かりやすい。逆に辛さが目立つ麻婆豆腐などはゆっくり食べるし飲み物もたくさん飲む。
「どうだった?」と問えば「……うまい」と答えてはくれるが、それはきっと俺が作ってくれたのに嫌いと言うのは、と考慮しているだけだ。
我慢して食べさせたいわけではないから言ってほしいのだが、まぁそんな謙虚なところも透らしいと言えば透らしい。
どうも刺激物は得意ではないようだ。食べると痛いとは教えてくれた。昔から変わらない理由だった。
確かにうどんを出しても唐辛子をいれないし刺身にワサビはほんの少しだけしか入れないところを見ると辛い物は嫌い、と言う俺の考えは合っているんだろう。
そうなると中華料理の一部と韓国料理は苦手になるだろう。辛いものが多いしな。
時計を見ると8時半を少し過ぎたところ。
これ食ったらお暇するか、と考えながら食べていると皿洗いと風呂を沸かし終わった透が戻ってきて窓を開ける。雨の様子を見たかったのだろう。
家に入った瞬間に土砂降りだった雨も今は小さい粒になったようで、音もたいしたこともなくこれなら帰れるだろうと思い『これ食ったら俺帰るな』と言おうとした瞬間。
「……」
「……」
まるで透が窓を開けるのを見計らったかのように、小さな音しかしていなかった雨がこの家に帰ってきたと同じぐらいの大粒の雨が降り始める。
本当に一瞬の間に雨の降り方が変わったことに驚いて絶句した。それはきっと透も一緒だろう、窓の外の様子を見たときのまま固まっている。
「……泊まっていくか?」
「……そうさせてもらうな。」
透の言葉に甘えることにした。
透の言葉すらも聞き取りにくいほどの雨の中帰りたいとは思えなくて、透の提案はとんでもなく有難くてなにも考えず頷いた。