2章『結局のところすべては自分次第。』


 体育の授業では背の順で並ぶ。俺のすぐ前にいるのは透、俺と透は身長がほぼ変わらず多分1㎝とかそんぐらいの差だがわずかに俺の方が身長が高くて透の後ろだ。
 ……座高が俺よりも低いことについてはノーコメント。
 昔は俺より僅かだが透のほうが身長高かったから少しうれしいがな。
 さっき触れてしまったせいか、ついつい透の腰にばかり目をやってしまう。ダボっとしているジャージの上からでしか見ているだけでは分からないが、細かった。
 にぎにぎと自分の拳を開いたり握ってみたりして細さを痛感する。
 ……1か月前、つい透を抱きしめたときも思ったけれど透の身体は予想以上に細い。
 だがその理由は透の話を聞いてみれば納得だった、こっちに来る前まであまり腹の減りを感じたことがないのだとか。
 出されたものを食べて、眠るときさえ眠いとか思ったこともない、罪悪感から学校の行事にも参加せず休みや空いた時間は周りに言われたから勉強ばかりしてきた、とか。
 感情や思っていることすらも諦めていた透は『人間』として生きることを本当に放棄していたんだろう。そう考えると胸が痛んだ。
 そうせざるを得ない状況で本来なら守ってくれる大人がいるはずなのに、それもなく責められながら生きてきたらそうなるのも無理はないのかもしれない。だけど、今は違う。
 あの日ちゃんと生きると決めた次の日から透は、ちゃんと生きている。
 今までは一応世話はしてくれた人がいたが今の透は一人でやっていかないといけないのだからしっかりするしかないんだろうけれど、それとはまた違う、ちゃんとした足取りだった。
 ちゃんと笑ってくれる、普通の人に比べたら確かに透はあまり表情を出す方ではなくて薄らとした変化しかないけれど、それはずっと前からそうだったし俺からすると気にすることはない。
 幸い叶野が透を気にかけてくれているおかげかクラスに割とすぐに馴染めている。
 透も過ごしやすいようで随分穏やかになって今日は俺がした悪戯の仕返しをされた、喜ばしいことだ。
 驚きすぎて膝カックンされて受け身がとれなくて地面に膝を着いちまったのは不覚ではあったが……。
 さすがにまだ1ヶ月そこらでは身体はついてきていないようで腰は未だ細いままだった。……テスト終わったらラーメンにでも食べに行こう。カロリーの高いものを取らせて太らせよう。そう決めた。

 さっき俺が透を引っ張ったことは決してわざとではない。
 俺が腋のほうをつついたのが原因で仕返しされたのにそれをやり返すのは違うし、本当に手を指し伸ばされたのに甘えて起き上がろうとした。のだが、俺の反応が早すぎたのだろう。
 逆に俺が透を引っ張ってしまったことになって、俺の方に倒れてくる透をつい庇ってしまった際に反射的に腰を掴んで俺の身体ををクッションにした。
 勢いよく倒れ込んできたので少し苦しかったが透が無事ならよかったんだが、問題はそのあと。
 俺のことを心配したのか透がすぐに俺と目を合わせてきたのだ。近すぎと言っても過言ではないほどの至近距離で。
 心配そうにゆらゆらと揺れた灰色の目を見てつい思考が停止して心臓の音が早くなった。

 ……あまり透にこう言いたくないが、とんでもなく整った顔をしているのだ。男性的とも女性的とも言えない、これぞ中性的な顔立ち。
 幼いころも結構近い距離で目が合ったことも多々あるが、お互い子どもであのときも確かに顔綺麗だなとか思ってはいたが、あのときはまだ本来の意味で認識はしておらず透も幼かった。だからあまりそう言ったことを意識はしていかなったが、どうも今は違っていて。
 目の前の顔が心配気にしたのが、少しずつ驚きに変わっていったのを見たら、俺のためにこんな風に表情を変えてくれていると言う事実が胸がなにかに押さえつけられたように苦しくなった。
 思考停止して、もぞっと居心地悪そうに動いた透にも気付かず手を離せなくてしばらく見つめ合った。
 正直叶野が声をかけてくれるまで周りのことすらも忘れてしまっていた。
 叶野の声で慌てて腰から手を離したのだが、その際俺には分からないぐらい微かに掠めてしまったようで、身体をピクリと少し震わされたのを見たとき、芽生えてはいけないであろう感情が生まれそうになった。

 ……いや、今まで待ち焦がれていた上に様々な理由のおかげで今までにない親友の姿が珍しいだけだ。
 記憶を戻ってほしい、とまでは今は思わないがせめて在り方だとかそう言ったのは少しずつ前のときのように戻ってもらおう。そうじゃないと、俺は。

「……伊藤」
「!」

 自分の名前を呼ぶ声でハッとした。考え事に集中してしまったようで周りには透以外は誰もいない。少し遠くで他のクラスメイトたちが並び始めているのが見えた。

「……やっぱり背中痛いか?」
「あ…、いやそれは全然平気、もう気にすんなよ?もともと俺がいたずらしたのが悪いんだからな」
「…そうだな」

 俺がしたことを思い出したのか少し眉間に皺が寄った。
 記憶が無くたって機嫌が悪いとき眉間に皺を寄せるのは変わらない。
 分かり難いようで結構わかりやすい……俺もそう教えてもらったのは透の母親に、なのだが。
 昔のことを思い出して懐かしいな、感慨深いなと思ったのと同時に気が付いてしまった。
 そうか、下手すると俺以外ちゃんと透のことを見ている人はいないのかもしれないんだ。
 透の話を聞く限り頼れる人もいなくて透自身も心を閉ざしていて感情の出し方すらどうすればいい、と俺に聞くぐらい何も見ないふりをすることで自分を守っていたから。
 今の透はどうなのか分からないが、元々の透は両親以外の大人に対して好感を持っていなかったのだから。

「俺がドジっただけだ。今度はもう油断しねぇし、むしろ俺から仕掛ける。」
「……それだと、また俺がやり返すぞ」
「じゃあ延々とすることになるなー」
「なんだそれ」
「いいじゃねえか。」

 透は耐えきれなくなったように少し笑った。
 笑うときも控えめなくせに、すごく嬉しそうに笑うのは変わっていない。今のところあの日以降の透は俺と別れる前に会った透とそう大差ないと思う、今のところは……。
 いつか耐え切れなくなる日が来るのは今の俺には予想も出来なくて、それでも来てしまうんだろうなと漠然と思っている。いくら透が大事でもこのままで良い、なんて思えるはずはないんだ。俺も本来そんなに気は長くないほうだしな。
 だけど、今はやっぱり透が人間らしくいてくれるのが嬉しいんだ。まぁ、難しいことはまた今度にするか。

「……テスト終わったらよ、ラーメン食いに行こうぜ。打ち上げに。」
「?わかった。」

 いきなりのラーメンの誘いに首を傾げながらも頷いてくれた。
 最近になってやっと実感出てきたんだぜ、6年も待ち続けて焦がれていた透が隣にいて笑い合って一緒に学校に登校して約束を普通に出来ているってことに。
 透がいてくれるだけで今俺はとんでもなく楽しくて仕方がない。嫌いな勉強も透となら楽しいだろうな、と思えちまえるぐらいにはな。どうしようもねえな。
 面倒な俺の思考は一先ず置いておいて、とりあえず透を健康的に太らせようと思う。
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