1章『それぞれの想い。』
「……伊藤も察していると思うが、俺は記憶喪失なんだ。忘れてしまっているのは伊藤のことだけじゃなくて、その前日……いやその日の朝食べたものも、あの家で過ごしていた日々も……両親のことも俺は顔すらも忘れてしまった。
なにもかもを、俺は忘れている。」
「……そうか」
やはり察していたようで、静かに頷く伊藤。その表情は暗く、悲し気に見える。
「……記憶喪失の原因とされているのは、両親を目の前で……亡くしたのを直視したんじゃないか、と推測されている。」
「!お前の父さんと母さんが……そう、か。」
「……」
呆然と呟いた伊藤は、俺の両親とも親交があったようだ。
仲、良かったんだろうか。
祖父や桐渓さんが見せてくれた写真のことを思い出した。
その写真に写っていたのは、日本人にしては色素の薄い栗色の髪と目をした顔立ちが俺とどことなく似ている男性と俺の髪と目の色が同じ女性だった。
男性は控えめだけど静かに照らす月の光のような笑みを浮かべていて女性は花が咲くように明るく笑っていて、幸せそうな写真だった。
その写真のなかでその女性のお腹が大きかったのでこのなかに俺がいるんだろう。
本当に幸せそうな写真で……それを見て俺は酷い頭痛に襲われた。
この人たちの幸せを壊してしまったのは、女性のお腹のなかにいる俺のせいなのだと実感してしまって、どうしていいのかわからなかった。
俺を辛かったな、と言わんばかりに俺を見つめてくる伊藤の目を見て俺は言った。胸が痛んだのは見ないフリをした。大丈夫。見ないフリは得意だから、だいじょうぶ。自分に言い聞かせる。
「2人が亡くなったのは、俺のせいなんだ。」
目を見開いた伊藤がスローモーションに見えた。
俺が病院で目を覚ましてすぐ『ぼくは、だれ……ですか?』と祖父と桐渓さんに聞いた瞬間と同じだった。
心配そうに俺を見ていた2人は俺がその言葉を発した瞬間目を見開いたのだ。それが今と同じようにスローモーションに感じた。
『お前のせいで、あいつらは死んだのになんで、お前は忘れているんだ!!お前のせいで薫は、灯吏は……死ぬことなんてなかった!』
そう心から叫んだ祖父の、憎しみと悲しみの混じった顔を俺は生涯忘れることはないだろう。
頭の中でそのシーンが思い出された。
そのシーンを目を閉じて少しだけ浸って……すぐに心の底に沈めた。
今話しているのは伊藤だから。
勿論祖父の悲痛な叫びを俺は金輪際忘れるつもりはない、それを胸に刻んで過去も今もこれからも生きていくつもりだ。
でも、その記憶は今と混ぜ込んではいけないんだ。
責められるにしても何にしても伊藤は伊藤で祖父とは違う。今だけは伊藤のことが最優先したいから。
伊藤の眼から逸らさずに俺は続けた。声が震えそうになったけど、気付いていなければいい。手が勝手に震えるのが酷く情けない。
「俺が信号無視して、やってきた車から2人は俺を庇って……それを直に見た俺はショックで記憶喪失になった。
……両親のことだけじゃなくて事故に遭う直後から以前の記憶を全部忘れて、それを思い出させようとしてくれた祖父たちに頭痛がひどいからって拒否して、そのことに責められても見て見ないフリして何も感じないフリした、自分が傷つきたくなかったから。
責められても仕方が無いことなのに、な。」
「……」
伊藤は何も言わず俺の話を聞いている。
どんな表情をしているんだろう、伊藤の目を見ているのだから確認出来るはずなのに、視界が何故かぼやけてよく見えないんだ。
よくわからないけれど、でも話は止めたくなかった。喉がカラカラに枯れて唾を一回飲み込んでまた、俺は続きを話す。
「……あれから6年経った今も、俺は思い出すことはなかった。思い出すつもりも、ない。
傷つきたくないからって、逃げて俺には思い出すことなんて無理だと思い出すことを放棄した。諦めてる。
それでも生き続けた。一ノ瀬透でも何もない俺には価値なんてないと思っても、消えてしまいたいって思っても、……俺が死んでしまえば、それこそ両親が何のために俺を庇ったんだろうと理由がなくなってしまう、と思ったから。
笑うことも悲しむこともしないようにしてきても、せめて、両親が俺を庇ったその理由だけは無かったことにしたくなかったんだ。
人間として楽しまない代わりになんとしてでもこの世界で生きようって。呼吸の仕方すらもよくわからなくなっても、そうしよう、そう決めた。」
『思い出すこともできないのに』と、『消えてしまいたい』と、何度思ったのかわからない。
それでも、俺を庇った挙句に庇われた本人はそのことを忘れられていても、俺が死んでしまえば庇った理由すらもなく2人は本当にただ死んだのだと言う事実しかなくなってしまうのだ。
学校にも家にも居場所が無くても、無くした記憶を思い出すことを放棄しても、何も感じないふりをして何も話さないで息を潜めて自分は人ではないと否定しながらもそれだけは決意していた。
一ノ瀬透ではないからこその『この瞬間の今の俺』が決めた。
だれにも言うつもりのなかった、一ノ瀬透ではない『だれか』である『俺』だけが持っていて、かつ唯一の存在理由。
「……こうして俺のことを待っていた伊藤のことも俺は思い出せなくて……これだけ俺のことを良くしてくれているのに、俺は正直思い出す気は未だにないんだ。」
祖父たちにアルバムを見せられ、思い出そうと少し頭を使っただけで立つどころか目を開けるのも辛い酷い頭痛に苛まれて目を閉じて頭を抑えて痛みに悶えると祖父たちは髪を思い切り掴んで思い出せと詰られた。
それ以降俺は思い出す、と言うことに一層恐怖を感じた。うまくいかなければ、みんな怖くなるとそう知ってしまったから。髪を引っ張られて顔を反射的に上にあげたときのあの2人の顔は、夢にも出てくるぐらい鮮明だ。憎々しげに、憎悪を隠すつもりもない、そんな表情を。
「待ってくれたのに、優しくしてくれるのに、何も聞かないでいてくれるのに、俺は何も返せない。
……むしろ、俺は伊藤を不幸にしている。」
最低でも6年、伊藤は待っていてくれたのに、俺のことを優しくしてくれて気遣ってくれて、それなのに俺はなにもできない。何も、返せない。
思い出を語ることも、再会を喜ぶことも、伊藤がそうしたいと望むことを、俺には出来ない。
それが悲しくて伊藤に申し訳ないと思いながらも、俺は現状を変えたいと思えずにいる。今も恐怖しかない。
前を向くには、恐怖があまりに大き過ぎて、足に力が入らずへたり込んでしまうぐらい、こわい。
「こんな俺が生きてしまって庇われて、記憶もなくて、俺は何のために存在しているんだろう、どうして俺は忘れてしまったんだろう。
……ずっと両親じゃなくて……こんな俺が死んでしまえばいいのにって、そう思ってた。…いや、そう思ってる。
せめて、何も感じないように生きていくのが罪滅ぼしなんだって、思ってる。
……でも、悩んでいる。生きていくこと自体罪滅ぼしにもならなくて、いっそ、俺なんていなくなってしまえばいいのに。
記憶のない俺なんて、誰もいらないんだから。そう、思い始めてきているんだ。」
それなら、みんな今よりは幸せだったのではないかと常々思っている。
そうだろう?俺のせいで不幸にした。俺のせいで両親は亡くなって、俺のせいで祖父は自分の娘を亡くした、俺のせいで桐渓さんは幼馴染と親友を亡くした。
ぜんぶぜんぶ俺が、悪いんだ。
俺が生まれたこと自体、間違いだった。記憶を失くすべきじゃなかった。そうすれば、伊藤をここまで待たせることはなかったのに。
頬になにか水滴なようなものが伝う感覚があったが、それでも伊藤を見続けた。
「……なぁ透」
「……ああ」
伊藤から発せられたのはすごい、どすが効いたかような低い声だった。
感情を押し殺したかのような、平坦な声を意識し過ぎてそれを抑えきれなくてかなり低い声になってしまったかのようだった。
顔はぼやけて見えなかったけれど肌色の……たぶん手が俺の顔に近付いているのは見えた。
殴られるのかな、怒られるかな、怒鳴られるかな……冷たい目で見られるのかな。
なんでもよかった。伊藤は俺の話を全部聞いてくれたから、伊藤からすればふざけるなと怒鳴られてもおかしくないことを俺はすぐに言わなかった上に、話してもうじうじと言っていたのだから。
受け入れられたら嬉しいけれど、受け入れられなくても仕方がないとも思った。むしろどうして受け入れてくれると少しでも思っているんだろうか、馬鹿みたいだ。
俺が両親を殺したくせに。内心自分をあざ笑う。
蔑まれることが当然だ、救いを求めること自体が間違っているんだ、そう思い知った。今度こそ、なにも期待しないようにしないとそう決めた。
なのに。
その手は俺の頬を殴るのではなく、なにかを拭うように頬を擦った。暖かい手だった。
拭うよう、ではなく実際俺の頬にあった感触は徐々に上へと昇っていき、それは瞼の少し下までやってきて反射的に目を閉じた。
少しすると暖かさが離れていって、それにつられるように目を開けると視界はさっきよりもクリアになっていて、目の前の伊藤の顔が良く見えた、そして彼は
「なんでもない顔のフリして普通のことのように話ながら、泣かないでくれよ」
低い声でそう言って、その目に涙をためて悲し気に、でも笑いながら俺を暖かく見ていた。さっきの低い声は泣くのを抑えていたんだと知った。
伊藤の顔がはっきり見えて、嬉しいのに胸が苦しくて少し悲しくて、せっかく話ながらいつの間に流していた涙を伊藤が拭ってくれたのに、また涙があふれたんだ。