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1章『それぞれの想い。』


 礼を言った瞬間、伊藤にすごい勢いで抱きしめられた。
 勢いと同じぐらい力も強くて、普段だったら恐怖も覚えるんだろう、が。
 今は、その力強さとぬくもりが心地よかった。伊藤の心臓の音が俺のと混じって、生きているのを伝えてくれた。
ぼぅっと微熱のときのようなふわっとした感覚に手持無沙汰と言うのもあって、そっと添えるように背中に手を置いた。今このときは現実であると、少しでもいいから噛みしめたかったのかもしれない。

……だれかに、抱きしめられるのってこんな感じ、なんだな。

そう暖かい感情が胸をいっぱいに満たした。
 ちゃんと話さないと、と思うんだが、どうしてか心地よくて離れがたくて、声も出し方も忘れてしまうほどに微睡んだ気持ちになった。
 いつまでそうしていたんだろうか、ずっとこうしていたい、なんてことを思い始めたころ、

「伊藤ー!一ノ瀬は戻ってきたかー!!?」

 そんな大きな声が教室の外、廊下から響き渡った。
 微睡んだ気持ちから一気に現実から戻ってきた感覚だった。
それは伊藤も同じだったようで、どちらからともなくバッと距離を作って、立ち上がった。一瞬見えた伊藤の顔は真っ赤になっていたが、きっとそれは俺も同じだろう。

「おっ戻ってきているなぁ!一ノ瀬どうした?校内を迷ったか??」

 そんな俺たちのことをお構いなしに、ひょっこりと顔をのぞかせたのは朝にも会った五十嵐先生だった。
いつまでも来ないから、様子見に来たぞー!とにかっと笑いながらそう言う姿を見る限りいつまでも来ない俺らを叱りに来たのではないのだと分かった。
 校内を迷った、のではないけれど。
確か五十嵐先生は俺が桐渓さんと話していると言うのは知っている。
けれど素直に言うのは出来ないし、かと言ってそれを肯定してしまうと桐渓さんに連れられたところを岬先生は見ているから、食い違いが生まれてしまうかもしれない。
 いつまでも俺は無言で、伊藤も何か言おうとしている気配はあるが、その問いを伊藤にもされたとき俺はそれになにも返さないでただ疑問を言っていただけだった。
 どう答えようか、と悩んだ、が良い案は出なくてただ沈黙があった。

「……そうかっ転校してきた初日、慣れないことで調子悪くなったんだなぁ!保健室で休もうかっ」
「っいやだ!」
「透?」

 突然俺が大声出したことで、目を見て叫ばれた五十嵐先生は勿論、近くにいた伊藤も驚いたように俺の名前を呼んだ。
 ……五十嵐先生はたぶん俺に気を使ってくれたんだろう。それなのに、それを無碍にするように拒否の声を叫んでしまった。反射的、とは言え五十嵐先生の気遣いを無駄にするようなことを言ってしまった。
心配して気を使ってくれている二人に後ろめたさを感じて俺は俯いた。右手で左腕を握った。
ここで、俺が我慢しないと。……今度こそ、桐渓さんに延々と罵られることは分かっていても、それが俺の、罪なんだから。

「……いえ、なんでもないです。」

 顔を上げないまま、少し早口でそう言った。
保健室、行きます。と続けようとした。

「まぁ家の方が休めるよなっ!初日だし多めに見といてやろうなっ!伊藤は一緒に登校してくるぐらいだから、一ノ瀬の家と近いのか?」
「え、あ、ああ。」
「よし!じゃあ一ノ瀬今日帰って良し!で、伊藤は一ノ瀬を送っていけ!いいなっ!?今日のところは伊藤もそのまま帰宅でいいぞっ」

 伊藤は五十嵐先生に押されるがままに頷いた。
それに五十嵐先生は満足そうにうなずき返した。
……俺は、話がいつの間にか進んでいることについて行けなかった。

「つか、岬先生とかには言わなくていいのかよ。透はともかく俺別に何も悪いところねえし。普通先生が車で送っていくだろ?いや、別に送っていくのはいやじゃねえけどよ。教師がそう指示していいのかよ。」

 固まっている俺に、五十嵐先生に押されて帰る準備をしている最中に少し冷静になったようで、そう五十嵐先生に聞く。
 そうなのだ。いくら仲がいい、からってまだ学校も終わっていないし、今日最後の授業とかでもないのだから、そう言うのは可笑しい、と伊藤は言いたいんだろう。
伊藤のことだけじゃなくて俺だって。
俺は何も言っていないのに理由が言いにくそうにしているのを見兼ねて五十嵐先生が助け船を出しただけで、保健室に行くのも拒否したからそう提案してくれたのだ。
 本当なら保健室に行って、帰るか否かを決めると思う。これじゃあほとんど五十嵐先生の独断だ。これは五十嵐先生の立場が悪くなるだけではないのか。
 伊藤が疑問を投げかけると、五十嵐先生は朗らかに笑ったままだ。

「まぁまぁ!岬先生には俺から言っておくからな!!お前ら仲良いし、一ノ瀬もその方が精神安定上良いと思うしな!
俺のことは心配はしなくていいぞっ!教師が生徒優先に何が悪いんだ!てなっ!
一ノ瀬も!子どもが大人の心配をするもんじゃないぞー!」
「わっ」

 誤魔化すように俺の頭を撫でくり回す。
俺が視線を向けていた理由を五十嵐先生は察していたようだった。

「っおい先生!一ノ瀬具合悪いだから辞めろ!!」
「おっそう言うことにしたんだったな!!悪い悪い!さぁかえれー」

 したんだった、て言ってしまっているし。でも、五十嵐先生の優しさだとか強さは伝わった。
 朝も思ったけれど、確信した。五十嵐先生も、岬先生と同じようにちゃんとした『先生』だ。

「ったく……教科書とか置いて行っていいよな?」
「……悪い」
「ん?具合悪いんだから気すんな、カバンも俺が運ぶからな。」
「いや、それは」
「行くぞ」

 棒立になっている間に伊藤の用意が終わった。
 俺の分のカバンも用意してくれていて申し訳なくて謝ったが、気にすんなと言って俺の意見を聞かずに持って教室から出ていってしまった。
 先に行く伊藤に焦って俺も追いかけようと、教室を出ようとして立ち止まった。

「……ありがとう、ございます。」

 俺らをニコニコと見守っていた五十嵐先生の目を見てお礼を言った。
そのつもりはなくても結果として授業をさぼることになってしまった上にうまい言い訳すらも言えずにいた俺を、糾弾するのではなくて話を詳しく聞くわけでもなくて、助け船を出してくれて、俺のことを気を使ってくれた五十嵐先生。
 たぶん、他の先生に俺らのことを話して彼は怒られることになるのだろう。最悪評判も落ちるのだろう。
それでも、俺のことを考えてくれて、心配をかけないよう言ってくれたのも、すべてが申し訳なく感じた。
 俺は五十嵐先生になにも出来ない。
せめて、目を見てお礼を言った。それが俺に出来る誠意だと思ったから。自己満足、かもしれないけれど、そう言われても良いからそうしたかった。
 五十嵐先生は少し驚いたように目を見開いたけれど、それは一瞬ですぐにあの笑顔に戻って、おう!と深く聞かずにそう答えた。

「代わりに明日は元気に来いよー!待ってるからな!もちろん伊藤もな!!明日も伊藤と来いよー!!」
「……はい」

 ビリビリと響く声には未だ慣れない、多分隣のクラスにも聞こえているんだろう。
 ……やっぱり、理科の先生っていうイメージはまだ沸かない、な。でも、今度理科の授業を受けるのは、少しだけ楽しみだ。
 最後に五十嵐先生に会釈をして今度こそ伊藤を追いかけようと教室を出た。

 ……どこで、話そうか。
 どう話そうか。

 伊藤は……俺の全部を話しても『俺』といっしょにいてくれるだろうか。
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